救いを成し給う
風が唸る。
振り下ろされ、振り上げられ、右に薙がれ左に薙がれる大鎌を避けながら結城は思った。
このままならいける、と。
ヒルデは強い。確かに手強い。一対一では搦め手を使ってでも厳しいだろう。そう思っていたのだが、どうにも彼女の動きは鈍かった。精彩を欠いている。何か、迷っているように見える。
「あははっ、よゆーよゆー! 本気出しなよ!」
「…………うるさいっ」
繰り出される攻撃は、避けるだけなら造作もなかった。
結城は確信する。この期に及んでそうする理由は知らないが、ヒルデには自分を殺すつもりが本当にないのだと。
だから、勝てる。
こちらには何も制限が掛かっていないのだ。向こうが手加減するなら好きなだけすれば良い。勝手にしろと唾を吐く。舐められていると思わないでもないが、それだけの力量差があるのも動かしがたい事実。なら、利用しない手はない。
結城は生憎と武器を持ってはいなかったが、勤務外になる為に鍛えられた肉体なら持っている。しかも、オンリーワン技術部特製の薬でドーピング済みのをだ。視力は笑ってしまうほどに上がっている。これなら、ヒルデが全力で鎌を振ったとしても脅威にはなり得ない。
「よいっしょお!」
ヒルデが鎌を返すところを狙って、結城は軽やかに、軽々しく踏み込む。どうせ向こうは致命傷を狙ってこないのだ。やりたい放題好き放題、無茶苦茶にしてやる。
腹に蹴りを放ち、足の甲を思い切り踏んで押さえた。自由を奪い、ヒルデの下がった頭に何度も何度も打撃を加える。
「あはははははは!」
「くうっ……」
結城の目の前を鎌が通り過ぎて行く。がむしゃらに振り回されても何も怖くなかった。少し体を動かすだけで、鎌が勝手に避けていくイメージ。ヒルデの手首を見れば、どこを狙いたいのか分かる。想像通りに全てが上手くいく。今までに無いほど、彼の気分は高揚していた。
「ああっ!」
見た限り、ヒルデの感情はかなり荒れているが、それでも結城に対してある程度は的確な攻撃を放っていた。だが、的確なだけに軌道が読みやすい。彼女は強い。強いが――
――それが命取りだよねっ!
口元に嫌らしい笑みを湛えたまま、結城は攻撃を当てるとすぐに後方へ下がる。下がって、また仕掛けに行く。
元々、結城にヒルデを殺す気はない。冷静さを取り戻すにつれ、彼女への欲望が増していく。腕を切り落とされ、腹を抉られ血を流し続けている円堂には悪いが、彼は自分を優先させていた。
動けなくなるまで、動く気を失くすまで痛めつければそれで良い。
「よっ……と」
とは言うものの、結城の思惑に反してヒルデの鎌を振る速度は全く変わっていなかった。思わず圧倒される。底無しの体力。無尽蔵の気力。彼女の極点が分からない。先の見えなさに、自分から折れてしまいそうだった。
結城は、このまま同じ事を繰り返しても時間の無駄だと考える。
目に付いたのは、アスレチックエリアの片隅に置かれた古めかしい遊具。雲悌、シーソー、ジャングルジム、ブランコ、滑り台。
結城は高さ三メートル程度のジャングルジムの天辺へ軽やかに跳び、着地する。視力ほどではないが、薬によって跳躍力も上がっているらしい。
ヒルデは結城を追い掛けず、息を整えながら彼を見上げていた。
「ねえ、ヒルデちゃん。あのチビと仲が良かったんだね」
「…………何の事?」
「とぼけなくても良いのに。ねえ、ここまでする必要あるの? 俺っちには無理だなー」
得意ではないし、まどろっこしいから好きではないのだが、結城は言葉による揺さぶりを選ぶ。
「ホント、俺っちには分かんないなー。ヒルデちゃんさあ、あいつに借りでもあんの? 弱みでも握られてんの?」
結城とヒルデは長い付き合いではない。二人が出会ったのは、オープン前のミーティングが数回、南駒台エリアに出たソレを仕留めに行った一回きり。実際に会話を交わしたとなると、その回数もぐっと減る。本当に、同僚と言う間柄なだけ。
それでも、結城はヒルデについてある程度は分析出来ているつもりだった。
彼女は常日頃から眠たそうにしており、滅多な事では感情を表に出さない。ソレとの戦闘だって淡々とこなし、何物にも興味を示さず、下手をすれば何者にも心を開かない。
そう思っていた。思っていたのだが、今はどうだ。
少なくとも、彼女は今、自分に対して怒りを露わにして焦っている。
初めて見るヒルデの表情に興奮すると同時、彼女にそんな顔をさせているのが北駒台の人間だと言う事に苛立ちを感じずにはいられない。
「ヒルデちゃんってさー、あのチビが好きなの?」
「…………関係ない」
「嘘だね。俺っち、ヒルデちゃんのそんな顔初めて見るもん。ねえ、あいつに何かもらったの? 何かしてくれたの?」
ヒルデは答えなかった。口惜しい。
「ムカつくんだよね。何? あいつとデキちゃってるワケ? 見せ付けちゃってんの?」
結城はジャングルジムから飛び降り、遠くを見つめる。散歩道の方で何か光った気がしたが、気のせいだと思い込んだ。
「なんでそこまですんの? 俺っちにここまで殴られたり蹴られたりしてさー、意味分かんない。もう諦めたら? 無理無理ぃ、このままだとマジに俺っち潰しちゃうよん。ねーねー、あんなチビほっといてさ、俺っちに乗り換えなよ。ぜってー楽しいし、すっげー良ーい思いもさせてあげっから」
「…………恐れを知らない者」
「はっ? なんて言ったの?」
聞き返すも、言葉の代わりに、鎌が返ってくる。結城は大きく後ろに下がってそれを避けた。
「俺っちよりさっきのチビがそんなに良いわけ? だっせーじゃん、あいつ。止めときなって、どこが良いんだよ」
「キミじゃ、無理だよ」
「……はっ、なんだよ? 俺っちが無理であいつは良いの? なんだよなんだよっ」
距離を詰めてくるヒルデを退屈そうな目付きで見ながら、結城は鉄棒の連立する場所まで後退した。
「だったら良いよもう。ヒルデちゃんが裏切ったのもそんな顔してんのも、あいつのせいなんだろ。じゃあ、決まり。殺すから」
ヒルデの動きが止まる。
「…………殺す?」
「うん。あいつさえ殺せば何とかなりそうだし。首だけになったのを見せりゃ、ヒルデちゃんの目だって覚めるっしょ」
結城はけらけらと笑った。思い付きで口にした事だが、それも悪くない。ヒルデはどんな顔をしてくれるだろう。楽しみで仕方ない。
楽し過ぎて、地雷を踏んでしまった事に結城は気付いていなかった。
「あら?」
ナナはチアキを抱えたまま小首を傾げていた。田中が待っているであろう公園の入り口にまで戻ってきたのだが、今は誰もいない。
「どうしましょう、困りました」
そう言いつつも、ナナは落ち着いて周囲に視線を配っていた。
「……なあ、せやったらうちを見逃すとか、そーゆーのどう?」
チアキの発言を受け、ナナは沈思黙考する。
「うち、まだ死にたないねんけど」
「分かりました」
「ホンマ!?」
ナナは外灯の下にチアキを離した。
「お、おおきに。そんじゃ、うちは退散しよっかなー」
「ここで待ちましょう」
逃げ出そうとするチアキの肩をしっかりと掴み、ナナは淡々と言い放つ。
「えーと? うちを助けてくれるんやないの?」
「あなたを助けるか助けないかは私が決定する事ではありません。誰かの指示を仰がなければ。……田中さんをここで待ちます」
「……あー、探しに行った方がええんとちゃうかなー? ほら、あっちの方とか」
チアキはさり気なく来た方向を指差した。しかし、その甲斐も空しい物となる。ナナは首を横に振り、一種冷淡に告げた。
「いえ。今回の様なケースですと、入れ違いになってしまう確率が非常に高いです。私のデータに間違いありません。その点、二作目の勇者は非効率でした。ふふ、サマルトリアの王子は待てば良いのですよ」
「そのデータめっちゃ偏ってるやん……」
チアキは肩を落とし、その場にしゃがみ込む。
「おや、ご気分が優れませんか?」
もはや、チアキには答える気すら起こらなかった。
炎に囲まれた城で眠っていた。
永遠に目醒める事はないと思っていた。
この世界に自分の居場所はないんだと諦めていた。
「うっ、うわあああっ!」
結城は逃げた。算を乱して必死に走る。公園に設置された遊具を盾にしながら死に物狂いで攻撃を避ける。もはや、鎌の僅かな向きだとか、ヒルデの手首の角度だとかを見ている余裕などなかった。背を向けて、距離を少しでも稼ぐので精一杯。
「うおああっ!」
雲悌は切り裂かれ、シーソーは薙がれ、ブランコは切り刻まれ、滑り台は切り払われて。
原型を留めているモノなど、既にここにはなかった。
結城はトンネルの中までほうほうの体で逃げ込み、四つんばいになって息を吐く。口から飛び出してしまうのではないかと思うくらいに心臓は高鳴っていた。
「……な、なんだってんだよ」
彼の網膜に焼き付いているのは冷たい双眸。戦乙女のどす黒く濁った瞳。
目が合った瞬間、体中の穴という穴から全てが奪われる気分に陥った。肌は粟立ち、総毛立つ。喉はひり付き心は凍る。
あんな目がこの世にあるとは思えなかった。
「ひっ、ひっ、ひいっ……」
呼吸が覚束ない。膝はガクガクと震えて、しばらくは立ち上がれそうになかった。
結城は自身の能力を、恨む。見え過ぎるが為に、彼は余計なモノまで見てしまったのだ。
「はっ、はふっ、ふっ、ひっ……」
冷や汗と悪寒が一向に止まらない。寒い。羽織っていた毛皮はとっくに脱ぎ捨ててしまった。後悔先に立たず。だが、彼が真に後悔すべきは軽はずみな言動であった。
雉も鳴かずば――。
「うおおおおおっ!」
沸き上がる恐怖を塗り潰す為、喉の奥から声を振り絞る。折れそうで堪らない。崩れ落ちたくて堪らない。
いや。結城は首を振る。折れてたまるか。折られてたまるか。負けてたまるか。勝たせてたまるか。死んでたまるか。殺されてたまるか。
「あのアマ……舐めやがって舐めやがって。ぜってーヒイヒイ言わせてやる。腰がぶっ壊れるまで、いいやクソっ、ぶっ壊れてもヤってやる。やってやるよ……くひひひひ」
どこか壊れた笑みを漏らしながら、結城はトンネルの壁に手を付きながら立ち上がる。まだまだこれからだ。自分に言い聞かせながら、残った気力を総動員して立ち向かえば、あるいは。
刹那、トンネルの中にいた筈だった彼の目が、月を捉えた。
目醒めたのは誰のせい。目覚めたのは彼のせい。
世界が終わるまで炎に包まれたままだと信じていた。
二度と生を謳歌出来ないと信じ切っていた。
恐れを知らない者だけがその炎を越え、眠りを覚ませてくれる。この誓いを思い出す度に笑ってしまいそうになる。
なんてふざけた話だ。竜殺しの彼は、もうこの世にいないと言うのに。
でも、彼はやって来てくれた。
竜殺しじゃない。鳥の言葉も分からない。怒りの長剣すら持っていない。
でも、彼は自分を眠りから解き放ってくれた。
竜どころか、ともすれば虫すら殺すのさえ躊躇う様な、そんな男が来てくれた。
恐れを知らない、勇ましき者。
穢れを知らない、愛おしき者。
感謝しても、し足りない。
二度目の生と目覚めを与えてくれた彼が、好きだ。
だから、殺させはしない。
コンクリートで作られたトンネルが斜めに切り口を残して、真っ二つに裂けていた。斬られた破片は力なく地面を転がっている。
トンネルの中にいた結城は月を見上げながら、膝から崩れ落ちていた。口を開け、目を大きく見開いたまま、だらしなく失禁している。
「…………」
トンネルの切断面は、結城の鼻先から一センチも離れていなかったのだ。
「…………もう、来ないで」
ヒルデは放心状態の結城を見ずに声を掛けると、彼に背を向けて歩き出す。
もう、戦う気も動く気も失くしただろう。
こちらの攻撃がお見通しなら、存分に見せつけてやれば良い。見えていても避けられなくなる様、徐々に速度を上げてプレッシャーを掛け続け、見えないところから仕掛ければ良い。目が良いだけでは絶対の脅威にはなり得ない。
流石にあれだけ暴れてやれば当然か、と、ヒルデは少しだけ反省する。
そして、後悔もした。壊れた遊具を申し訳なさそうに眺めながら思う。この公園、大丈夫かな、と。
「ふう……」
ヒルデは一たちの待っているであろう場所へ歩きつつ、何度も溜め息を吐いた。今日は柄にもなくたくさん喋り、たくさん動いた。
「…………ちょっと、疲れちゃった」
何だか、愛用の大鎌もいつもより重く感じられる。今すぐにでも目を瞑って眠ってしまいたい。睡魔が何度も呼びかけてきていた。ああ、丁度良いところにベンチもあった。座ってしまおうか。少し。少しだけ。
「…………んん」
ヒルデは頭を振って、甘い誘惑を断ち切る。ベンチを視界に入れない様に顔を反らし、足を動かしていった。
オンリーワン北駒台店、バックルーム。
糸原は悪態を吐きながら、納品の確認をしていた。
「なんだ、またトラックが遅れてきたのか?」
「そうよ。嫌になっちゃう」
ぶすっとした糸原の受け答えに、店長は苦笑いを漏らす。
「えらく機嫌が悪いな。一たちが心配か?」
「……悪い?」
「いや、私も今回ばかりは気を揉んでいる。何せ相手が『棺』だからな」
糸原は眉根を寄せ、訝しげに店長へ視線を据えた。
「相手? 敵はソレじゃない、どうして社員が敵になんのよ」
「正確に言えば、敵も味方もないな。『棺』にとっては自分以外が全て敵なのだから」
店長は短くなった煙草を空き缶に押し付けると、糸原に向けて椅子を回転させる。
「奴は頭のねじが飛んでいてな、いや、そもそもねじがあったのかどうかも怪しいか。……ともかく、『棺』にはブレーキが付いていないんだよ。人を殺す事に、何一つためらいがない」
「そんな奴、この辺にゃごろごろいるんじゃないの?」
「ソレを殺せる勤務外や人を殺せるソレならいるがな。対象が人になるとそうもいかんぞ。人間である限り、人を殺す時には迷うぞ。必ずな」
「そういうもんかしら。で? 『棺』って奴は迷わず人を殺せるからやばいって言いたいわけ?」
糸原は、台車にデイリー商品の詰まったケースを乗せていく。
「色々な意味でな」
「なーんか、昔嫌な目にでも遭ったんじゃないの?」
「ああ、そうだ。そうだった。確か、『棺』は入社してすぐに苛められたらしい」
「はああ? 何それ笑うとこ?」
「大いに笑うと良い。ま、苛めと言ってもガキの喧嘩じゃないんだ。靴が隠されたりする程度じゃなかったろうな」
糸原はわざとらしく声を上げて笑う。
「靴、ねえ。靴なんかで済めば良い方じゃないの? 最近のガキはえぐいってテレビでやってたから」
「そりゃ言えてるな。……だがな、苛めは苛めだ。人間として生きる以上避けては通れん事だろうが、やられる方はたまった物じゃない。『棺』にこの二つ名が付いたのは、そのせいだろう」
「サイテーの棺だっけ? 大層な名前が付いたもんね」
「『棺』のやった事はその名に相応しい。幾ら理由があろうとも、奴は自らの意志で人を殺した。苛められていたからやり返した? は、組織に属する以上、仲間殺しは一種の禁忌だからな。犯せば、まともには生きられない」
尤も。店長は呟きながら、新しい煙草に手を伸ばした。
「オンリーワンでは最低も通ってしまうんだがな。ルールってのは融通が利かん。縛る時もあれば、その逆も然り、だ」
「ふーん。でもさー、要はそいつ、苛め食らって捻くれたってだけでしょ。なーんか私のタイプじゃないな」
「安心しろ。『棺』は既婚者だ」
「あっそ」
糸原は何でもなさそうに言った後、ふと、作業の手を止める。
「……え、結婚、してんの? 最低なんて言われてる人格破綻者が?」
「お前が言うか」
「るっさいわね」
「真偽は確かじゃないが、三森が言っていた。あいつは滅多に嘘を吐かんし、吐いてもすぐばれる。だからまあ、本当なんだろう。いや、私も驚いたがな。『最低』のパートナー、か。天使か聖人、それとも『棺』以上の人格破綻者か。何にせよ、まともな人間じゃあないだろうよ」
田中は公園内を歩いていた。足音はなく、存在感は皆無。外灯の無い暗闇に、辛うじて彼の輪郭だけがぼやけて見えている。
「お茶を濁されましたねえ……」
彼の口元には笑みが浮かんでいるが、目は決して笑っていない。目と鼻の先の、見るも無残な光景を遠巻きに眺めながら呟いた。
いまや、ここに設置されていた遊具は見る影も無い。一つだってまともに機能しそうなモノが存在しない。
視線を移す。
円堂は右腕をもがれ、腹を抉られている。うつ伏せに倒れており、傷口から血を流し続けていたが、今すぐにでもオンリーワンの医療部を呼べば助かるだろう。
結城は真っ二つになったトンネルで四肢を投げ出していた。負傷している様子はないが、彼は大きく目を見開いたまま、口を開けて涎を流し続けている。……コンクリートと彼のズボンに染みが出来ていた。恐ろしい目に遭ったのだろうと、適当に思った。
「南の戦乙女、ですか。随分と手強いですねえ」
やってくれる。田中は顎に手を遣り、難しい顔になった。実に気に食わない。片方には肉体へ傷を与えておいて、もう片方には精神を傷付けた。生温い。彼女のやり方が気に入らない。
「しかし、これだけの力があるとは思わなかったな」
田中は滑り台だったモノの切断面に目をとめる。一切の迷いを感じ取れない、ある種理想的な切り口だった。
しばしの間、ヒルデの所業に見惚れていると、ズボンの裾が引っ張られる。
「……おや」
視線を下げると、片腕になった円堂がこちらを見上げていた。彼の息は荒く、顔は苦痛に歪んでいる。ここまで必死の思いで這って来たのだろう。
「た、たすけてくれ……」
田中は冷静に円堂を観察した。助けてくれ。確かに、今すぐにでも病院に運べば助かるだろう。傷口は浅くないが、急所は外れている。しかし放っておけば長くは持つまい。
「誰にやられたんですか?」
「……ヒ、ヒルデだよ」
知ってるよ。田中は目を細め、喉の奥で笑いを噛み殺した。
「そうですか」
「な、お、おい」
円堂の声は懇願にも似た色を帯びていた。早く医者を呼んでくれと言わんばかりに、掴んだ裾に力を込める。
「では円堂さん、あなたは裏切り者を処断する任を果たせなかったという事ですね」
田中は淡々と告げた。円堂は何も言えない。徐々に手から力が抜けてくる。顔には悲壮が表れ始めた。
「まあ、良いでしょう。誰にだって失敗はありますからね」
「……あ、ああ」
「楽にしてあげましょう」
円堂は田中の声音が優しくなった事に安堵を覚える。これで助かる。
「円堂さん」
「が、あっ――!」
差し伸べられた手は、新たな苦痛を円堂にもたらした。残っていた腕の感覚が消える。同時に、激しい痛みが傷口を焼いた。
「あなたが掴んでいたズボンはね、今朝、妻がアイロンを掛けてくれたものだったんですよ」
「ああああっ! いてええぇぇぇえええっ!」
腕を切られた。そう認識した時、痛覚が改めて活動を再開する。傷口は燃えるように熱いのに、のた打つ体がやけに冷たい。
「どうしてくれるんですか。あなたの血で汚れてしまった」
田中が何を言っているのか、円堂の耳には入らなかった。
「僕も鬼じゃない。クリーニング代と深いお詫びさえ頂ければ腕一本で許そうと、そう思っていたんですけど……」
田中は転がり回るモノに目を向けながら、内ポケットに手を這わした。
「今日の僕は少しばかり慈悲深い。場合が場合ですからね、何、お礼です。持っていってください。あなたの苦痛を一刻も早く取り除いて――いや、切り刻んであげますよ」
黒光りする刃。田中の手に納まっているナイフは月光を浴び、生々しくぎらついている。
「うおおおおおっ、いてえっ、いてえ――! てめえちくしょう! がああっ、許さねえ!」
「……汚いですね。ああ、そうだ。僕の耳を汚した責任を相方さんにも果たしてもらいましょうか」
円堂はハッとして結城を見た。残念ながら、彼はこちらの事などに気付いていないらしい。もしくは、気付けないくらいに呆けているらしい。
援護は期待出来ない。自分だけで切り抜けなければならない。
ナイフはもうすぐそこにまで迫っている。
「か、ああ……」
意味を成さない吐息が漏れた。終わりだ。
しかし、円堂の思いとは裏腹にナイフは彼から離れていく。合点がいかない。
「ど……して……?」
空気が足りない。息苦しい。それでも、尋ねざるを得なかった。
「ああ、すみましたよ」
顔を蹴られる。転がされた円堂の目に飛び込んできたのは、両腕と頭の無いどこぞの死体。田中がくつくつと笑っている。喚きたくなった。泣きたくなった。叫びたくなった。この死体は。これは。
死を理解した途端、急速に、脳から酸素が失われていく。視界が染まっていく。意識は徐々に薄れていく。ホワイトアウト。ブラックアウト。
一仕事終えた田中はトンネルの縁に腰を下ろし、辺りを見回した。
壊れた遊具。死体が二つ。錆びた臭いが鼻を突く。
「……全く、天美には見せられませんねえ」
返り血を浴びたスーツに手を遣りながら、田中は自嘲した。これは、家庭には持ち込めない。家族には、自分がオンリーワンの戦闘部である事と、『最低の棺』である事を伝えていない。
やれやれと息を漏らし、田中は立ち上がった。今日はいつになく忙しくなりそうだな、と、感覚的に理解する。
一一、ヒルデ、あの少女。目的は最初から少女だけだったのだが、まさか一と彼女が知り合いだとは思いもしなかった。その上、一とヒルデが社員である自分に歯向かうとは。
「まあ、良いでしょう」
ここまで手こずらせてくれたのだ。野獣の様に生易しくは出来ない。思い付く限りの苦痛を与えてから始末する。
尤も、今頃は、赤鬼と呼ばれた元戦闘部がどうにかしているかもしれないな。田中は肩の骨を鳴らして、夜の闇にその姿を溶かしていった。