罪は緋のごと
走る。走る。走る。
一はチアキの手を引いて必死に走った。
肩で風を切り、息は絶え絶え。ヒルデが気になったが、自分たちがいては邪魔になるだろうと無理矢理に考える。振り返らずに前だけを睨み付けてやった。
「はっ、はっ、はっ……」
チアキの体が重くなる。セイレーンの血が混ざっているとはいえ、彼女は体力的には普通の女の子と変わりない。疲労が蓄積され、足取りもどこか鈍い。
一は彼女の手を一層強く握り、力を込めて引っ張っていく。
もう、一の体力も限界に近かった。体力はもとより、何よりも精神的に辛い。
「あ……」
チアキの口から安堵の息が漏れる。当座の目的地である公衆トイレは、もうすぐそこだ。
トイレに辿り着くと、一は周囲を素早く見回し、誰もいない事を確認してから男性用の入り口に身を隠す。
しかし、チアキは一の手を振り解く。入り口の近くに突っ立ったまま、苦しそうに肩で息をしている。
「馬鹿っ、早く隠れろよっ」
「……あ、あほ」
「さっさとしろって!」
一は戻り、チアキの手を引っ張った。
「触んなボケ、ちゅーか、あんた……」
「あ?」
「うちに、そ、そっちに入れって言うんか……?」
「そっち?」
チアキは一の足を豪快に踏み付け、男性用と書かれたマークを指差す。
「うちは女やぞっ」
「知ってるよ! 四の五の言うなアホ!」
一は頭に来て、チアキの腕を取った。喚き散らす彼女の声に顔をしかめながら、無理矢理引きずっていく。
「離せ離せ離せアホ!」
「うっせえ黙ってろ!」
「おー、楽しそうじゃねェの?」
一の心臓が寸時止まった。背後からの声。誰なのかを理解し、ぴたりと動きが止まり、ひやりと、背中を嫌な汗が伝う。いつの間に、彼女は来ていたのか。
「へー、お前もやるじゃン。嫌がる女を人気のないトイレで無理矢理ってか? 良いね良いね、良いじゃねェの古典的でよォ」
嘲りと愉悦に満ちた声。
一はチアキの手を離し、自分の背で隠した。
「……俺たちを連れ戻しに来たんですか、三森さん?」
三森は不敵に笑う。赤いジャージのポケットに手を突っ込み、無遠慮な視線を一たちに投げかけた。
「連れ戻す? おいおい。そりゃまた、随分とのんびりした話だな」
「どういう、意味ですか?」
一は三森の表情を観察しながら考える。どうして、彼女が自分たちに仕掛けてこないのかを。
「てめーらあそこまでされて本当に分かってねェのか? あンな、お前らは今日、死ぬんだよ」
「なっ……なんで!?」
チアキが叫んだ。一は、そりゃそうだろうな、と。諦めにも似た境地でいる。
「わりィが、お前ら三人、『棺』からは潰せって言われてンだよ。……あ? おい、あの女はどこ行きやがった?」
「ヒルデさんなら、向こうで野獣を足止めしてますよ」
「あっそ。そりゃ残念だ」
本当、残念だ。一は内心で同意した。ヒルデがいない。つまり、三森の相手を自分がしなくてはならない。アイギスの柄を深く握り直して、チアキへ逃げる様に促す。
「ああ? 何構えてんだよ。やンのかてめェ?」
「今更……やりに来たんでしょうに」
三森は鼻で笑い飛ばし、肩を落とした。
「調子乗ってンなよ。勝てると思ってんのか? 私は別にんなつもりねーよ」
「……は?」
「『棺』の野郎に従う気はないって言ってンだ。ま、この先どーなるかはお前次第だぜ」
戦う気が、ない? 一は三森の言葉を信じられなかった。
「よォ、話でもしようや、なあ?」
「――っ!」
動きが見えない。息を呑む暇すらない。いつのまにか、三森は一の肩を掴む位置にまで来ている。
「話……?」
声は震えていた。まずいと思っていても、どうしようもない。従うしかない。
「おうよ。まあ、あっちのベンチにでも座ろうや」
獰猛な笑みを向けられる。選択肢は恐らくないのだろう。一は小さく、頷いた。
話の邪魔だと三森が言うので、チアキには公衆トイレに隠れているよう、一は告げた。
今、一と三森は近くのベンチを挟み、向かい合っている。
「どうした、座れよ?」
警戒を続ける一に背を向け、三森は先んじてベンチに腰を下ろした。
敵である相手に背を向ける。自分はまるっきり相手にされていないんだと、一は安心した。息を吐いたあと、覚悟が鈍っている事に気付き、自身を恥じる。
「……座る前に聞かせてください。何の、つもりですか?」
「つもりって、何だよ?」
「何しに来たのか聞いてるんです。俺たちを、殺しに来たんでしょう? 少なくとも、南の勤務外はそのつもりでした」
向けられた敵意、浴びせられた殺意。思い出すだけで、一は胸が詰まりそうになった。
「私は雑魚なンか相手にしねェんだよ」
「だったら、俺たちに構わないでくださいよ」
「……俺たち、ね」
「何か?」
三森は煙草に火を点け、頭に手を置いた。
「何でもねー。まあ落ち着けよ。ほら、一服しろや」
差し出された煙草を見て、一は気付かれない程度に顔をしかめる。
「結構です。俺、禁煙中ですから」
「へー、初耳。そいや、店でも吸ってなかったっけか」
「話って、なんですか?」
関係ない話題を振られて時間を潰されるのはまずい。ヒルデは今も戦ってくれているのだ。何とか、しないと。
ひとまず一は、三森がまだ何もする気がないと判断した。
「話、ねェ。ま、大した事じゃねーよ」
「なら、話は終わりです」
短く言い放ち、一は三森から背を向ける。
「やっぱり、お前がムカつくって話だ」
「そうですか」
聞き流してやろうかと思ったが、勘に触った。この状況で何を言っているのかが分からない。一は立ち止まり、三森に振り返る。
「お前さ、何でもかんでもてめェ一人で出来ると思ってンだろ?」
三森はベンチに背を預けたまま、一に背を向けたまま話を続けた。
「自分以外の人間を見下してンだ。私らなんか信用すらしてねー、そうだろ?」
「何を言うかと思えば……この期に及んで説教ですか?」
「答えろよ。どうなンだ?」
三森の声が、刃物めいた鋭さを帯びる。一は逡巡して、
「俺はそんな事思ってません」
戦闘の回避を選んだ。まだ仕掛けるタイミングじゃない。アイギスを一瞥し、肺の奥から深く息を吐き出す。
「じゃあお前は私らを信用してるって事なンだな?」
「同僚ですからね。一定の信頼は置いてるつもりです」
同様に、一定の距離も置いているが、とは言わない。
「……なら、話せよ」
「何を、ですか?」
答えはなかった。三森の吐く紫煙が場を満たそうとして中空をうろつくだけ。張り詰めた空気に息が詰まりそうになる。
「何を話せって言うんですか?」
耐え切れず、一は切り出した。
「煙草、なンで辞めたんだよ」
「は……?」
肩の力が抜けた。
「三森さんには関係、ない事ですから」
我ながら酷い言い草だとは思ったが、口にしたものは仕方ない。一は三森の続きを待った。
「……蛇が出た時」
「蛇? ……あ、ヤマタノオロチ、ですか?」
「あの馬鹿女が店を辞めた時だよ」
馬鹿女が誰を指すのか、一は即座に理解した。
「糸原さんが何か?」
「あいつじゃねェ、お前だよ」
「俺? 俺が何かしましたか? あ、いや、しちゃったけど、ちゃんと説明したじゃないですか」
要領を得ない三森の話し方に戸惑いつつも、一は考えて、無難に返す。
「なあ、私――私らはお前と関係ねェのか? 信じちゃくれねーのか?」
「だから、そんな事は――」
「――おせェんだよ! あのチビが出てった時もじゃねーか! 話なら確かに聞いた、何があったのか、お前が誰とどこで何をしてたかってのも全部聞いた! 聞いたってンだよ、全部が終わった後にっ!」
焔が揺らめく。
子供の様に喚いている三森の激情が一を突き刺した。
「ちゃんと話してくれよ。店長だってお前に言った筈だぜ。一人で先走ンなよ、どうして教えてくんねェんだ、なあ?」
一は固唾を飲み、思考を巡らした。言えるわけがない。言って、巻き込みたくない。ヤマタノオロチだって、人狼だって、今だって、全て自分から巻き込まれに行った。自業自得なのだから、しょうがない。
「言ったでしょう。関係ないって。俺が勝手に首を突っ込んだ事なんです」
「やっぱ信じてねェんじゃねーかよ! 何とも思ってないンだろうが!」
「思ってるから言わなかったんです!」
「思ってンなら言えよ!」
遂に三森はベンチから立ち上がる。
一は二の句が告げなかった。振り返った三森の瞳が、濡れている。
「……なんで」
三森はその事に思い至ると、ジャージの袖で乱暴に涙を拭った。
「……なんで、泣いてるんですか?」
「うるせェ、お前がムカつくからだよ……」
これなら、殴ったり蹴ってくれた方が気が楽だ。一は俯き、女はずるいと思う。
「言っても、どうしようもない事だってあります」
「言わなきゃ分かンねー事もあるだろうが」
「その通りです。でも、今までの事はどうしようもなかった。……今だって、そうです」
「それを決めるのはお前じゃねェ。話を聞いた奴が判断すンだよ」
――だったら。
一は三森を睨んだ。
「話したら、助けてくれたんですか?」
「……知るかよ。でも、ダメだ。もう遅ェ」
三森はベンチの縁に足を掛け、軽やかに跳躍する。手に持っていた煙草を指で弾き、真っすぐに一を見つめた。
「殺しゃしねェ。後は任せて、もう寝とけ」
助けて欲しかった?
話して欲しかった。
言って欲しかった。
伝えて欲しかった。
頼って欲しかった。
思って欲しかった。
信じて欲しかった。
勝手な話だとは分かっていたが、それでも助けを、求めて欲しかった。
「……何を、言ってるんですか?」
困惑した表情の一を見て、三森は少しだけ悪いと思う。
「もう止めろって言ってンだ」
自分だけじゃない。『棺』と南の二人だって動いている。一たちを、殺そうとしている。やらせない。春風に言われた言葉が脳裏を過った。助けてやれと言われた。
――言われるまでもない。
この状況で、一の命を拾ってやれるのは自分しかいない。
「心配すンな。お前を殺させやしねェよ。お前が死んだら、店が回らなくなっちまうからな」
「だから、何をしようと言ってるんですか?」
「言わせンなよ。お前を助けてやるって言ってんだ」
「……俺を?」
聞き返してくる一を煩わしいと思いながらも、三森は頷いて答えてやる。
「お前をだよ」
「三森さん、ナナはどこにいるんですか?」
思わず、舌打ちしてしまった。
「知るかよ。その辺じゃねーの?」
一は三森の言葉を受け、苦渋の色を顔面に浮かべる。やられた、とでも言いそうな顔になっている。
「助けて、くれるんですよね?」
「そうだって言ってんだろ。もう良いって、黙って寝てろ」
それ以上勘繰られるとまずい。駆け引きは得意じゃない。三森は余計な口を利かないよう注意を払い、会話を打ち切るべく足を踏み出した。
「俺を助けてくれるんですよね?」
三森は拳を強く握る。
一発で気絶させる。狙うのは腹だ。恐らく一は体なんて鍛えていないだろうから、問題なく倒れてくれる筈だ。
「顎狙うから、構えとけよ」
「俺だけを助けてくれるって訳ですね。ヒルデさんと歌代をどうするつもりですか?」
気付かれたか。思っていたよりも聡い奴だと、三森は少し驚く。
「あの二人を田中さんに渡すつもりじゃないでしょうね」
その通り。田中に二人を渡して、店長や他の社員に掛け合えば一だけは何とかなるかもしれない。何とかさせる。
三森は握った拳を解き、掌に一瞥を遣る。
――小さい。
自分が拾える命は、一つあるかないかだ。全部、一の責任だ。もっと早く事情を知らせてくれれば、他にもやり方はあったと言うのに。
「……私は、嘘は吐かねェ」
「何ですって?」
良い。
良い。
一にどう思われようが、約束は守る。そう決めた。決めていた。決まっていた。
こいつを守ると、あの日に誓った。
――だから。
「守るって言ったろ」
一には聞こえない程度に囁くと、三森は拳を再び握り締めた。
一はアイギスを広げて三森を見据えていた。
全く、やり辛い。泣いたり怒ったり、自分を助けてくれると言いつつ顎を殴ると言ったり。いっその事、三森には何も言わずに仕掛けてきて欲しかった。
第一、助ける? 吹き出しそうになった。望んじゃいない。求めていない。そんな事頼んじゃいない。気持ちは嬉しいが、気持ちだけで充分過ぎる。ここで三森に倒される訳にはいかない。自分が倒れれば、ヒルデとチアキがまた一歩死に近付いてしまう。助かるというなら、三人一緒だ。
「ナナは歌代のところにいるんですね」
三森からの答えはない。結構。
一は深く息を吸い込んだ。
「時間がないから、始めるなら始めてください」
「……あ?」
「聞こえませんでした? 掛かって来いって言ったんだよ、三森」
分かりやすいくらいに三森の顔が歪む。怒りを持て余しているのか、口元には笑みが浮かんでいた。
「一丁前に挑発してンじゃねーよ。良いから、おとなしくしてろっ」
三森が身を低くして地を蹴る。
一は前方にアイギスを構えた。彼女の速度には追い付けない。しかし、思考は読める。三森は恐らく、格下の自分に余計な技は使わない。力のみで捻じ伏せに来るはずだ。そして、まともにぶつかれば勝ちの目は薄い。挑発して掻き回して、こっちのペースに持ち込みたい。
一の予想通り、三森は構わずにアイギスへ拳を振り下ろす。
「うおっ」
思っていたよりも重い一撃に一の体が後退していった。三森は間合いを詰め、またもやアイギスに狙いを絞る。助走を付けた飛び蹴りが突き刺さった。
また、重い。一の手が痺れ、離しはしなかったもののアイギスを弾いてしまう。
「くたばれっ」
三森は中空に浮いたまま、アイギスに足を残した。一は咄嗟に振り落とそうとするが、遅い。
反動を利用して、三森はくるりと体を回転。弓のように引き絞られた状態から、足が飛ぶ。盾で守られていない一のこめかみに力が炸裂する。
「いっ……てぇ!」
一は呆気なく地面を転がった。一呼吸吐く間もなく、倒れている彼目掛けて三森が走り寄る。
「がっ……!」
遅い。避けようとするより早く、三森の爪先が一の脇腹に深く入った。
一は唾液と涙を垂れ流しながら、またもや地面を転がされ、それでも気絶だけはすまいと意識の糸をしっかりと手繰り寄せる。不様に呻きながらも、彼は必死に勝機を探った。こちらには武器がない。あるのはアイギス。条件は問題ない。三森の名前も知っているし、声だって出せる。目だって正常だ。止められる。三森を止められる。
だが、止めた後はどうする? 一は混濁する脳内で思考を続けた。
止めると言っても、長時間は止められない。拘束するにも限度がある。第一、止めるしか出来ない。アイギスだけ、一だけではそれが限界だ。
メドゥーサの効果が切れれば、三森はまた向かってくる。それでは意味がない。何より、二度目はない。止めた後、決定的な何かが必要になる。三森を殺さないで、それでいて追撃を防ぐ為の何かが。
「げほっ」
何も思い付かない。一の目の前が真っ暗になりつつあった。
それでも諦められない。鍵はアイギス。大事なのはタイミング。虎の子をいつ、どこで解き放つかが一の進退を握っている。
やるしかない。一は決意して、痛む体に鞭を打った。アイデアが浮かぶまでは時間を稼ぐしかない!
悠然と近付いてくる三森に背を向け、一は猛然と駆け出す。
三十六計逃げるに如かず。背後から燃え上がらんばかりの敵意を向けられながら走って、走って走って身を隠せそうな場所を求めた。
「……くそっ」
一は時間を稼げそうな場所を見つける。迷ったが、舌打ちしてそこに駆け込んだ。
懐かしくもある、木々に囲まれたダンスホール。
その場所は、先日、一が犬たちと踊った公園の散歩道だった。
「離せって言っとるやろ! 馬鹿メイド!」
声が響く。
「それは出来ません。あなたを田中さんの元まで送り届けるのが私の使命ですから」
メイド服を着た女が、少女を小脇に抱えて闊歩していた。
言うまでもなく、ナナとチアキである。
「ちくしょう離せ離せ離せ! 馬鹿っ、馬鹿力!」
「……随分とボキャブラリーに乏しい方ですね」
ナナはほんの少しだけ腕に力を込めた。
「それと、私は馬鹿ではありません」
「痛い痛い痛い痛い痛い! 分かった、分かったから力抜いてや!」
「では、少しだけ声量を落としてもらえますか? スピーカーが割れそうです」
チアキは指示に従い、声を落として了解の意を伝える。
「ありがとうございます」
短く礼を言い、ナナは約束通りに力を緩めた。
そこから、会話が途切れる。ナナは黙々と足を運び、チアキは黙って揺られていた。
「なあ、うちを殺すん?」
ぽつりと、チアキが漏らす。今にも泣き出してしまいそうな、消え入るような声だった。
「殺す、とは?」
「せやから、あいつのとこまでうちを連れてくんやろ?」
「はい。田中さんのところまであなたを無事、お送りします」
「……連れてかれたら無事じゃ済まへんねんけど」
ナナの歩みは止まらない。
「私は三森さんにそうしろと言われただけですので、後の事は知りません」
「うちの事、可哀想やなーとか、助けてあげようかなーとか、思わへん?」
「何分、私には心がありませんから」
チアキは訝しげにナナを見つめる。
「何それ? ボケ?」
「私は馬鹿でもなければボケでもありません。……比喩表現で言ったのでもなければ、冗談でもありません。私は、オートマータですから」
「おーとまーた? 何やそれ、お粥?」
ナナは無表情にチアキを見た後、
「オートミールではありません。オートマータ。つまり、人形です」
淡々と告げた。
「人形?」
「ええ、その通りです。お分かり頂けましたか?」
「いや、全然」
「は?」
ナナは理解に苦しむ。今、この少女は何と言った?
「説明が足りませんでしたか。良いでしょう、私はオンリーワン近畿支部の技術の粋を……」
「いや、そーいうんじゃなくて」
チアキは話を遮り、ナナの顔に指を突き付ける。
「あんた、人形なんて言うてるけど。どっからどう見たって人間やん」
思わず、ナナは呆気に取られてしまった。咳払いを一つしてから、取り繕うように説明を始める。
「……人間より人間らしくが私を作製するに当たってのコンセプトでしたから。確かに、何も知らない方が見れば、私は人間に見えるでしょうね。でも、私には心がありません。ですから――」
「――いや、あるやん」
今度は驚きの声すら上げられなかった。心なんてモノ、人形の自分にある筈がない。
「何度も申し上げますが、私に心はありません」
「うちがあるって言うてんねんから、あるに決まってるやん。こー見えてもセイレーンの血ぃ引いてんねんやで?」
「私の知る限り、セイレーンにそのような力はありません。あなたの勘違いでしょう」
「ふーん、せやったら試してみる?」
チアキは悪戯っぽく笑んだ。
「……何を試すのですか?」
「うちがうたったるわ。うちの歌聞いたら、絶対に心があるって分かるで。くふふー、ぜっったい感動するで、自分」
まさか。そう思う反面、ナナはもしかしたらと淡い期待を抱く。
「結構です」
だが、断った。もし心があったなら、自分が自分でなくなってしまう気がしたのだ。
「さよか。ま、ええけど」
何より、期待が裏切られてしまうのが恐ろしかった。
それでも、もし、人形の自分に心があるならば。
ナナは頭を振り、考えを払う。
「少し、急ぎます」
チアキの返事を待たずに、ナナは足を速めた。
胸が、苦しい。
一は散歩道の脇にそびえる木々の合間に身を潜め、息を潜めて三森を待っていた。あれから数分が過ぎていたが、自分以外の気配は感じ取れない。しかし、逃げ切れたなどとは思えない。
やるしか、ない。
この数分は無駄ではなかった。何かを思い付いた。勝機はある。だが、実行に移せるチャンスは一度あるかないか。移せたとしても、成功するかは五分もない。紙一重。だが、賭けるしかない。
「ふう……」
手が湿っている。ズボンで汗を拭き、昂ぶる気持ちを鎮めた。耳を澄ませ、虫の呼吸する音さえ聞き逃さないように意識を研ぎ澄ませていく。
が、さっぱり分からなかった。しかも気が抜けてしまう。木の幹に背を預け、枯葉の上に腰を下ろした。
「撒いたんじゃねえのかな……」
ヒルデに加勢するか、チアキを探しに行くか考えていたところ、視界が急に明るくなる。目の端に眩い光を捉え、一は思わず目を瞑った。何が起こったか分からないまま、雷が落ちたと思わせるほどの衝撃音が耳をつんざく。ついで、木の焼ける臭いが鼻に付いた。
「なっ、なあっ?」
落雷か? 一がそう思ったのも束の間、そうではないと理解する。
見えたのは拳大の大きさをした火の玉。それが、途方も無い速度でこちらに向かっていた。
「うわあっ!」
頭を下げ、その場から転がるように逃げる。空気中の酸素を飲み込みながら、唸りを上げる火の玉。一が背にしていた木の幹に、それが直撃した。
一は心底から驚いたが、威力はそれほどでもないと判断する。木は焼けていると言うより、焦げている程度であった。それでも、当たれば無傷で済むとは思えない。
「……これって」
火。赤い。連想する。こんな事が出来るのは三森しか有り得ない。
不幸中の幸いと言うべきか、火の玉の命中率は悪かった。その証拠に、火球が四方八方に飛んでいる。一の居所が分からないから、燻り出そうとしているのだろう。
「おらあーっ! さっさと出てきやがれ!」
なんて強引。なんて乱暴。
「誰が出るかっ」
一は落ち葉を避け、音を立てないように気を付けながら、三森の声が聞こえてくる反対側へと逃走を計った。
生きた心地がしない。
一は予想が外れた事に毒づく。三森は今、本気になりつつあった。まさか火を圧縮させて飛び道具に使うとは。
――立派な技じゃないか、畜生。
こんな事が出来るとは、いや、してくるとは思わなかった。
体から火を出す。類い稀な格闘能力、身体能力。対ソレではその力で圧倒的に殲滅し尽くす。三森の能力は把握しているつもりだった。勘違いにもほどがある。
一は三森を評価し直した。小手先の技を嫌って強引に押してくるのだとばかり思っていたが、器用さも持ち合わせている。恐らく、今まではやれなかったのではなく、やらなかったのだ。頭を使う相手がいなかった。自分みたいに逃げ回る敵と出会わなかったのだろうと、一は推測する。
「反則だろっ」
だが、一筋の光明も見えた。三森は強いが、頭を使う事にかけてはそうでもないらしい。
三森がやたらめったら火の玉を放っているのは、本気で一がどこにいるのか分かっていない事に他ならない。戦況、戦力。何をとってもついさっきまでは彼女が圧倒的に有利だった。
が、自身が優位だという事をアピールしないのが勿体ない。確かな焦りを一にすら見破られている。まだ、戦えるのだと思わせてしまった。
更に、一は火の玉の飛んでくる方向から三森の大まかな居場所を割り出している。彼が狙うのは背後からの襲撃。それしか、ない。
切り札はない。
一は自覚していた。自分が持つのはアイギスと、言葉だと。
動きを止めた後、三森に突き付けるのは傘の石突きでも狼の爪でも牙でもない。
戯言めいた、妄言だ。
一は口の端を歪め自嘲する。分の悪い賭けだ。しかも、賭けるのは自分の命だけじゃない。ヒルデとチアキの命も懸かっているのだ。
止めろと、体のどこかが喚いている。知っていて尚、一は笑みを堪えるのが出来なかった。