救いの主は
歌で世界が救えるものか。
「一さん、あなたは何をやっているんですか?」
影が揺らめいた。
「その子は、何故、こんな所にいるんですか?」
田中が一歩踏み出す。
「あなたは、それと何をやっているんですか?」
「……こ、これは……」
声は震えて、足は震えて。
それでも一は一歩下がり、チアキを隠す様な位置に立った。立つ事が出来た。
「言い訳は結構です。ソレの捜索はどうしたんですか?」
「や、やってますよ」
「では、その少女は?」
田中は一の背に隠れているチアキへ視線を送る。何を考えているのか、全く読めない、何も見えない目。
「……ここにいたから、保護、しました。どうやら、一般の子だったみたいで」
「ほう、そうでしたか」
一の苦しい弁解を涼しげに受け流し、田中は口元を歪める。その表情からは、獲物を前にした獣の様な、狩りを楽しむ色がハッキリと見て取れた。
「な、なあ……」
さっきから口を開く事のなかったチアキが、弱々しく呟き、一のコートの裾を引っ張る。
しかし、今はチアキを気にしていられない。一はどうやってこの場を切り抜けるかだけ考えていた。
「田中さん、とりあえずこの子を公園の外に出したいんですけど……」
田中は腕を組み、わざとらしく唸る。
「そうしてあげたいのは山々なのですけれどね。その子が本当にソレと関わりが無いのか、今僕たちが追っている事と関係が無いのか確かめてからでも、遅くはありませんか?」
「……仰る通りで」
何も、田中はチアキを殺す訳じゃない。現段階では殺す理由さえ、彼女に手を出す必要は何一つない。
そう思ってはいるのだが、一は何故かそこから動けなかった。
「一さん、その子を調べるので退いてくれませんか?」
「調べるって、どうやって?」
「睨まないで下さいよ。手荒な事はしませんから」
田中は元々細い目を更に細め、足を踏み出す。
一はアイギスをしっかりと握った。意識した事ではない。体が、勝手に動く。
「こ、こいつや……」
「……何だよ?」
チアキは彼のコートの裾を先刻よりも強く掴んでいた。彼女は全身をガタガタと震わせている。目の端には涙を浮かべて、何か恐ろしい怪物でも目の前にしている様な素振りだ。
「おいっ、どうしたんだよ?」
「おや? その子、震えていますね」
田中はまた一歩、一たちに近付く。
その瞬間、チアキは短く悲鳴を上げ、一の体にしがみ付いた。
「だああっもう! 何なんだお前!?」
「こいつ! こいつがっ!」
「……?」
チアキは田中を指差している。
田中は何の事か分からないとでも言う様に、芝居掛かった動作で肩を竦めた。
「おい、何言ってんだ?」
「馬鹿! こいつがうちの所に来た勤務外なんやっ!」
「……何だって?」
背筋に嫌な物が走る。
一はチアキを引っぺがして、泣き喚く彼女の肩を両手で押さえた。
「落ち着けって、何を言ってるんだよ?」
「落ち着いとるわっ、うちにうたえ言うたんはそいつなんやぞ!」
田中は深く息を吐く。呆れた様に、見下す様に、一たちへ冷ややかな視線を送る。
「何の事だかさっぱりですね。一さん、残念ながらその子は嘘を吐いています。僕は勤務外じゃありません。れっきとしたオンリーワン近畿支部の社員なのですから」
「しらばっくれんなや! あんたがうちの家まで来て言うた事やろ!」
一は暴れ回るチアキを押さえながら、何とか田中と向き合った。
確かに、田中の言うとおりである。謹慎を食らっていたとはいえ、田中次史は社員だ。一ヶ月前にチアキと出会ったとしても、勤務外店員である道理は無い。
――しかし。
「……田中さん、こいつはこう言ってますけど」
「困りましたね。と言うか、弱りましたよ。訳の分からない言い掛かりを付けられてしまうし、一さんからは疑いの眼差しを向けられてしまいますし、ね。やれやれ、全く余計な事で手間は取りたくないんですが」
「本当に、あなたはこいつと関わりが無い。知らないんですか?」
田中は困った風に頬を掻いて、溜め息を吐いた。
「こんな事を言うのは弁解じみていて嫌いなのですがね。僕は、その子とは今初めて会いましたよ。……それより、僕としてはあなたと、その子の関係を尋ねたい所ですね。その子の懐き具合からして。あなたたちが初対面同士とは思えない」
「そんなんあんたには関係ないわっ、しょうもない事言うなやドアホ! あんたがどんだけ言い訳しようが、こっちはしっかり覚えとるんやからなっ!」
「やれやれ、口の悪い子だ。さて一さん、こうやって押し問答していても時間の無駄にしかなりません。そろそろ、本当に退いてはもらえませんか?」
田中は遠慮なく歩き出す。
――って! 待って待って待って待って待って待って待って待って待ってくれ!
一はまだ、何の覚悟もしていない。
田中にチアキを渡しても良いものか。信じても良いのか。
チアキをどうするのか、どうすれば良いのか分からない。彼女は、田中が自分にうたえと強要した勤務外であると言った。
が、今の一には判断が付かない。
どちらも嘘くさくて、どちらも真実くさい。
両者とも、言い分を信じるに足る材料がなさ過ぎる。お互いが自分に都合の良い事だけを喋っている様な、そんな胡散臭さを一はひしひしと感じていた。
「よっ、寄んな!」
チアキは再び一の背に隠れて、彼の体に抱き付いている。
「一さん、その子を渡して下さい」
「なああっ!? あかん、あかんってっ! 渡したらあかんって! こいつはうちを口封じに殺す気や!」
「……物騒な。何もしやしません。少し大人しくしてもらって調べるだけですよ」
「どこを調べる気ぃやねん! 嫌や嫌やっ、来んな来んな来んなってばぁ!」
二人の言い争いがうるさくて、一の考えは纏まらない。何も考えられない。
「さあ、一さん?」
もう、田中はすぐ傍まで来ていた。
チアキはもはや狂乱状態に陥っている。頭を振り、一の体に爪を立て、恐怖を叫ぶ。
「いいいいいぃぃぃぃぃやあああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「……何やってンだ、お前ら?」
田中の足が止まり、チアキの泣き声が止んだ。
「ん、ああ? おい、そいつ何だよ誰だ?」
頭を掻きながら現われた三森。その後ろでナナが興味深そうに一たちを眺めている。
「三森さん、これが複数の男女間の痴情の縺れが引き起こす修羅場と言うものなのですか? 私、ドラマでしか見た事ありませんでした」
ナナに突っ込む事すらどうでも良くなる。一には今、三森が天使に見えていた。
短い金髪、赤いジャージ、気だるそうに煙草を銜えた、柄の悪い天使に。
勤務外がやってきた。
騒ぎを聞き付けたのか、それとも争いの火種を嗅ぎ付けたのか。どちらかかは分からないが、とにもかくにも、北と南、総勢六名の勤務外が公園内の公衆便所前に集まった。
一と、彼に抱き付いているチアキ。彼らの傍で何とも言えない表情を作っている田中を囲む様に、三森たちは事態を飲み込めずに突っ立っている。
「……さて、面倒な事になりましたねえ」
田中は集まった勤務外たちに視線を遣した。
「おい田中さんよぉ、こりゃどういう事だ?」
「いやいや円堂さん、大した事はありませんよ」
「ああ?」
再び、田中は一とチアキに無遠慮な視線を送る。
何か、一は嫌な予感がした。この状態、勤務外が集まっている事は事態の停滞、一種の時間稼ぎにはなっているが、解決にも打破にもならないのではないか、と。むしろ、このまま悪い方向に進む気がしていた。
「何、下らない事ですよ。この少女がソレに関わりのある、それだけの事です」
――やっぱり。
一は唾を飲み、乾いた喉を誤魔化す。
場が俄かにざわめき、チアキに好奇と疑惑の目が集まりだした。
「へー、マジでマジで? この可愛い子が?」
「……う」
見知らぬ勤務外たちの空気に呑まれたのか、チアキは震えているだけで何も言い返せない。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ田中さん!」
チアキの震えが直に伝わっている一は、仕方なく彼女の代わりに弁解を計る。
「……待てませんね」
田中の答えは簡潔で、これ以上話す余地は無いと完結していた。
一の心臓が高鳴る。血が冷たくなる。
『棺』。
最低な仲間殺し。
田中の噂、通り名を思い出してしまい、嫌でも体は固まっていく。
もう、抵抗出来ない。抵抗すれば殺されるかもしれない。勤務外や社員は、相手が何であろうと、人間であろうと、仕事中に障害だと判断すれば何をしても罪には問われない。
「ふう、これが最後ですよ? 一さん、退きなさい」
「……っ」
誰も、手を出せない。
三森もナナも、事情が分からないまま『棺』に、社員に逆らう愚は犯さない。
円堂も結城も、目の前の光景を理解出来ていない。チアキがいったい何者で、この場で何が起こるのか見当もつかない。
第一、彼ら勤務外店員は組織に属している身である。何が真実で、何がでたらめなのかを分かっていたとしても、上の者に従わざるを得ないのだ。
やれと言えばやる。
三森たち勤務外も、『オンリーワンの勤務外』と言う肩書きがなければただの異能、異常者。ルールに縛られていなくては人間のままでいられない。そうするしかない。そうして、生きていくのだから。
だから、銀の光が煌めいた。
一とチアキの側からしか見えない狂暴な揺らめき。気付いた時には田中がすぐ傍に佇んでいる。彼の手にはナイフが握られていた。
一は動けない。
どうしてこんな事になっているのか、さっぱりだ。分からないから動けない。
唯一、今から自分はチアキと一緒に殺されるのかと、それだけは分かった。殺される理由は知らない。知りたくもない。
悲しかった。悔しかった。
生命に危機が及んでいるこの期にまで、地位や種族、しがらみに足を引っ張られている自分が情けない。
歌代チアキ。
年下の女の子を守る事すら出来ない。
一に出来る事と言えばチアキの盾になる事だけだ。それも、殺される順番を僅かに遅らせる事だけにしかならない。結局、一が先に死んでチアキが次に死ぬ、だけ。
「僕は、最後だと言いました」
田中の腕が振り下ろされる。そこに慈悲はなく、仁慈はなく、温情も同情も人情もなく、慈愛などは以ての外だった。
命を終わらせる為に、死を始める為に。
味方殺し。『棺』が『最低』と呼ばれる所以を、再び見せ付ける。
声がする。
声が聞こえる。
声が呼んでいる。
聞こえてくるのは、誰の声だろうか。
分からない。知っている。知らない。分かっている。
その声は世界を止める力。
その歌は世界を動かす魂。
その心は一一を動かした。
ああ、知っていた。
ああ、分かっていた。
助けを求め、誰かを呼んで、自分を分かって欲しいんだと。
ああ、彼女の声は素晴らしく綺麗で、何よりも清廉で――
――とても、悲しそうだった。
似た境遇の彼女を助けてやりたいと思った。
自分は彼女を守らなければならないと思う。
一一は、歌代チアキを守りたい。
守りたい。
護りたい。
その為に力が欲しい。
強い意志が、塗り潰す。
人間も、ソレも、勤務外も、何もかもどうでも良い。どうでも良かった。
ただ、ただ――。
「田中、次史――」
割れる。割れる。世界が音を立ててひび割れていく。
崩れる。崩れる。世界が唸りを上げ崩れ落ちていく。
――「主」
声が、聞こえる。
揺れる。揺れる。世界が世界を揺らしていく。
壊れる。壊れる。世界が世界を壊して、いく。
――「私の主、可愛い主」
あの日も聞いた、あの声。
光る。光る。世界が光に満ち満ちていく。
生まれる。生まれる。世界が新しく生まれ変わっていく。
――「あなたに、力を」
守りたい。その一心、ひたすらに思う一の意志に彼の僕が答える。
アイギスが、発動する。
耳鳴りと頭痛。一は目を瞑り、それらに耐えようと歯を食い縛った。
アイギスを握っている腕から力が抜け落ちていく。
頭から、何か大切なものが零れ落ちていく。
瞼の奥に、白い光が迸る。世界が白に染まっていく。
白い世界の中、一はまた、白い女を確かに見た。
そしてまた一つ、一は世界を理解する。
「――これはっ!」
ぼんやりとしたまま、一はどこか遠くから、田中の上擦り、慄いている声が聞こえた。
アイギスを発動する為の前提にして絶対条件。必要にして不可欠のルール。
それは、力を行使するには使い手が対象の相手を視認していなければならない、と言う事が挙げられる。
目を逸らしても瞑ってもいけない。両の目で、しかと相手を捉えていなくてはならない。
だが、一は今田中に背を向けている。相手を見ていない。
それでも、田中の動きは止まっていた。否、止められている。辛うじて口を動かす事は出来る様だが、ソレ以外の部位に関しては腕一本、指一本、神経の一本ですら満足に動かせない。
「っ、くっ、は……」
自然、呼吸も鼓動もままならなくなる。即、死には至らないが、この状態を続けるならば確実に死に至る。それが分かっている田中の表情には焦燥が見て取れた。
以前は春風にアイギスの使われ手と揶揄されていた一だが、彼は既にその域を脱している。違う域に達している。
新たな力の解放、そして顕現、行使。
恐らくは、アイギスに封じられ、アイギスの力の源である蛇姫が認めたのだ。一一は、アイギスを使うに相応しいと。新たな力を貸すに相応しいと。
一一はもう、アイギスの使い手に他ならない。彼をおいて、アイギスの使い手など他にいない。
一が念じ、祈り、思い、意志を示すだけで敵を、相手を、世界すら止めてしまう力。
端から見ている三森たちには何が起きているのかまだ分かっていない。理解、していない。一が変わった事に、世界が変えられた事実にまだ気付いていない。
「……あ、う」
一に抱かれているチアキにも、まだ事態が飲み込めていない。自分たちを始末しに来た『棺』が急に動きを止めて、苦しがっている風にしか見えないのだから。
「……っ」
今だ。今しかない。
一はチアキに逃げるぞと、目で訴え掛ける。
しかし、千載一遇にして絶対無二の好機を前にして一は動けなかった。立ち上がれない程に、酷く頭が痛んでいる。
力の、反動。
一は確かに新しい力を得た。だが、彼の心身がまだ力に及んでいない。付いていかない。アイギスが作り替えた世界が頭の中で大量に蠢き、自由を奪う。
「…………っ」
その内に、田中が自由を取り戻しつつあった。僅かではあるが身動ぎをし、一たちを睨み付けている。か弱い獲物に足で砂を掛けられる程度の抵抗を受け、酷く濁り、ぎらついた双眸。憎悪が彼の相貌を醜く変貌させていた。
その目を見てしまい、一の意志が薄れていく。力が、失われつつある。
もう、田中を押さえきれない。隠そうともしない『棺』の殺意を止めきれない。
ここにきてようやく、一は自分の直感が間違いではないと悟った。彼を敵だと断じる証拠はない。まだ満足な説明も、推理推測すら出来ない。
しかし、血が騒ぐ。
一の中に宿る狼の血が訴えかけていた。
田中次史は信用してはならなかった。彼はもはや敵でしかない。
この日、この時この場において、この夜を共に踊るのは、こいつしかいない。
「ガキ共がああああっ!」
遂に田中が猛る。
体裁を取り繕う事を放棄した、彼の内に秘められている『最低』に相応しい怒号が周囲一帯に轟いた。
一は必死で立ち上がろうとするも、彼に抱き付いているチアキの腰が抜けている。動けない。
「調子に乗ってんじゃねえぞ!?」
彼の周りを囲んでいる勤務外たちは事態に付いていっていない。
三森も、ナナも、円堂も、結城も『棺』の禍々しい敵意を目の当たりにし、動けなかった。
何故社員である田中がこうまで憤っているのか、一たちが何をしたのか、全く分からない。分からない。分からない、何も。
分からないから、動けない。動こうとしない。
ただ、一人を除いて。
――風が奔る。
立ち上がれない一たちと、今まさに彼らを亡き者にせんとしていた『棺』の間を、一陣の風が通り抜けた。
「……お前もかあああああっ!」
その正体にいち早く気付いた田中が声を有らん限りに荒げて叫ぶ。
「…………これ以上は、やらせない」
彼女の声は一の耳朶を心地良く叩いた。静かで、涼しくて、この上なく頼りがいのある声。
戦乙女が『棺』に向けて鎌を振るう。
彼女の持つそれは、通常の物よりも遥かに大きい。常軌を逸したサイズのサイズ。本来の用途には決して使われない。刈り取るモノは草ではない。人ではない。この鎌は、魂を刈り取る戦乙女の証なのだ。
一はチアキに肩を貸してようやく立ち上がる。
「……ヒルデ、さん?」
驚愕と安堵が入り交じる、か細い声。
「ん。言ったでしょ、私はキミが好きだって」
一のない交ぜになった感情を全て優しく包み込む、暖かな笑顔。
「…………大丈夫。守るよ」
オンリーワン南駒台店勤務外店員、ヒルデ。
戦乙女が、戦死者の魂を選ぶものが、自らその手で死を振りまくために戦場に躍り出る。
彼女の獲物が風を切る。
唸りを上げて自らの存在を誇示する。
「…………私の目が開いている内は、あなたの好きにさせないから」
「野郎っ!」
間、髪を入れず田中が吠えた。
何時の間に持っていたのか、両手にはナイフが握られている。彼は迷う事無く二本の凶器をヒルデの心臓目がけて投擲した。
が、真っ直ぐに向かってきたそれを、ヒルデはいとも容易く鎌の腹で弾き落とす。そのまま、刃が田中に届く位置まで距離を詰めて横に薙いだ。
田中は鎌の一撃を頭を下げるだけで避け、スーツの内ポケットに手を突っ込む。
「あ」
間抜けな声。
「ああ?」
「……あいつら、逃げちゃったよ、おい」
田中が反撃に転じようと顔を上げた時にはもう、一たちの走っていく後ろ姿しか見えていなかった。
「くっ、くっ、くっ、くっ」
腹を抱えて、田中が笑う。
「くっ、くひっ、ひひっ、ひっ」
喉の奥で噛み殺し切れなかった笑みが、零れていく。
「ひひっ、やってくれるぜ、くひ、ひっ……」
狂気が場を侵食していく。
その場にいた勤務外たちは口も利けず、立ち竦んでいた。
「ひゃっ、ひゃひゃ、ひゃあっはっはっはあっ! ははははあっ、可笑しいな、可笑し過ぎるぜあいつら! あいつらっ、あいつらあいつら糞がっ! ぶち殺してやる! ひっ、ひひひひひひひ」
哄笑の後、田中はくるりと振り向く。
全員が息を呑んだ。
もう、田中の表情からは狂喜の色が消えている。
「さて、問題発生ですね。一さんとヒルデさんが我々を裏切ってしまいましたよ。皆さん、今すぐに彼らを追い掛けて然るべき処断を下して来て下さい。僕は少し疲れてしまいました」
まるで、何事も無かったかのように田中は口を開いた。
「おや、どうしたんですか? 早く動いて下さいよ。僕たちはソレを殺す存在なんですから。ソレを生かす存在を見過ごせない、そうでしょう? それとも、あなたたちもオンリーワンを裏切るおつもりで?」
口調こそ穏やかではあったが、田中の目は一切笑っていない。
身の危険を感じ取り、円堂と結城が一たちが去っていったと思しき方へ駆けていく。
だが、三森は動かなかった。煙草を口に銜え不敵に笑う。ナナは彼女の傍でおろおろとしていた。小声で呼び掛けているが、三森は答えない。
「……南の方々も動いて下さいよ」
「よォ、あいつが何をしたってンだ? 理由も知らずに私は動く気ねーんだけど?」
「は、ははっ、おかしな事を言いますね。見たでしょう、あの二人が僕に楯突いた瞬間を。勤務外がソレを連れて社員から逃げ出したんですよ? 理由はそれだけで充分だと思いますけどね」
「御託は良いンだよ、『棺』。私が聞いてンのはな、あいつがてめェに逆らった、逆らえる事の出来た理由だ」
田中はわざとらしい溜め息を吐き、困った様に苦い笑いを浮かべた。
「それは本人に聞いて下さいよ。僕にはとてもとても分かりません」
「おい、惚けンなよクソ野郎。私の顔を忘れたか? こっちだって戦闘部にいたんだ、てめェのやり口は知ってんだぜ、今度は何をした? 言えよ」
「……そういえば、あなたもいましたね。く、くく……」
三森は煙草を吐き捨てると、掌から炎を生み出す。
「笑ってンじゃねェぞ。何なら、今ここで昨日の続きをしても良いんだぜ」
「あなたが? 昨日は随分と意気消沈されていたようでしたけどね。ま、今日は少しばかり元気ですねえ。何か面白い事でもありましたか?」
「だせー事言うけどな、アレが私の全力だと思うなよ」
「そうですか、ははっ、そうですかそうですか、ふふっ、くっ――くひひひっ、ごちゃごちゃうるせえんだよ赤鬼が! てめえらバイトは俺たちに従っとけば良いんだこら分かってんのかボケ! てめえだって元社員だろがっ、四の五の言わずにあのガキ共を潰しに行けっ、クソが!」
三森は田中の怒気を前にして、尚、愉しそうに笑った。
「へっ、良いね、良いじゃん、良いじゃねェの。『最低の棺』に名を知られてるたァ私も箔が付くってモンだよな。けどよォ、一個だけ教えてやンぜ」
「ああ?」
「私はその名前が大嫌い何だよ。覚えとけ、次はお前の番だ」
「……言ってろよ、クソ女が」
三森は田中が嫌いだ。
正直言って、あのまま戦闘に雪崩れ込んでも良かったとさえ思っている。
だが、それ以上に、『棺』以上に腹の立つ人物がいる。
一一。
彼が今、何故だか憎くて仕方ない。
どうして何も言わなかった。
同じ店で働く仲間ではなかったのか。
信用も、信頼も、何も、されていなかったのか。
仲間だとも、何とも思われていなかったのか。
――どいつもこいつもっ。
他の奴らに何かされるぐらいなら、自分がどうにかした方がマシだ。
そう考えた三森は、ナナを引き連れて一たちの逃げた方向へ駆ける。
気持ちが悪い。
どうしてだか、胸糞が悪い。
三森は正体不明のもやもやを抱えたまま、先に追い付いているであろう南駒台の二人を追い、駆ける。
三森の、感情。
……彼女が自分の気持ちに気付くのは、もう少し先の話ではあったが。
今は、まだ。