背中は蹴られた
駒台の古びたアパート。そのアパートの一室、202号室。表札には「一」とプレートが貼られている。
その部屋は一人で住むには狭く、二人なら尚狭い。
薄型テレビが普及している今の時代には古めのブラウン管型のテレビ。適当に積まれた敷布団と掛け布団。部屋中に散らばる雑誌。小さな冷蔵庫。流し台の周辺には汚れの取れきっていない炊事用具。
一の部屋には家具と呼べるものは必要最低限しか置いていないようだった。
その狭い部屋の真ん中に陣取るこたつを陣取る居候、糸原四乃。
糸原は、大人二人がギリギリ足を伸ばせるような大きさのこたつを独り占めして寝そべっている。
うつ伏せの体勢で欠伸をしながら、さも退屈そうに求人誌のページを捲り続けていた。
「バイト先は決まりましたか?」
一が壁に背をもたれながら口を開く。
うーん、と返事にならない声を発し、糸原は求人誌を読み進める。
小さく溜息を吐き、一は壁に掛かった時計を見上げた。
一のアルバイトの時間まで、後三十分を切っている。
家からオンリーワン北駒台店までは歩いて十分は掛かる。オンリーワンでは、時間までに出勤すれば問題は無いルールだったが、一はいつも十五分前にはアルバイト先に到着するようにしていた。
――準備して、そろそろ出ないとな。
そう思う一だったが、なかなか腰は上がらない。この部屋にさっきから漂う気だるい雰囲気の所為だろうか。
一はぼうっと、規則的に動く時計の針を見続けていた。
「ねえ。まだ行かなくて良いの?」
一が視線を下げると、糸原がこっちを見ているのに気付く。
声を掛けた糸原は求人誌を閉じると、水平に手首のスナップだけで投げる。積まれてあった雑誌の山の一番上に、ページを開けてそれは落ちた。
「そうですね、そろそろ行きます」
ゆっくりと立ち上がり、一は流し台に向かってから蛇口を捻る。流れ出る水に手を浸すと、指先が痺れるほど冷たかった。顔を洗わずとも目が覚めた気がして、手だけタオルで拭いて一は上着を羽織った。
何も持たず、一は玄関で靴を履く。
「何時ぐらいに帰ってくんの?」
糸原がテレビのリモコンを持ち、番組表の載っている情報誌をこたつの上に広げながら言った。
「十時過ぎには」と、靴紐を弄りながら一が答える。そのまま何も言わずに一が扉を開け、閉めようとした。
「いってらっしゃーい」
糸原がワイドショーに視線をやりながら、手だけ上げてそう言った。
少し遅れて、戸惑う様に一が「行ってきます」と言う。
扉が閉まる音。
やがて202号室には作り物の笑い声だけが流れる。
「え? 新しいバイトですか?」
一が驚いた様に店長を見る。
「ああ、しかも二人もだぞ」
顔を綻ばせながら、店長が言った。
「いつから来てくれるんですか?」
「一人はいつでも良いとさ。もう一人はこっちに来てから面接をして採用する」
一の顔が少し歪む。
「どういう意味ですか?」
だからな、と店長が前置きする。
「一人は昨日面接して採用。一人はこっちに来てから面接して採用。何でも九州から態々駒台まで来るらしい」
「九州かあ。へー、色々といつの間に。けどこれで俺らの負担も減りますね」
良かった良かった、と一が鼻歌交じりに制服に着替え出す。
「二人ともコンビニ、と言うかバイトするのは生まれて初めてだそうだ。色々と教えてやれよ。レジとか接客とか掃除とか品出しとか」
「殆ど全部じゃないですか。ヤですよ。新人の教育ぐらい店長がやって上げて下さい」
理不尽な提案をあしらって、一が店内へと足を向ける。
「私は絶対にしないぞ」
店長が煙草に火を点けながら、パソコンのディスプレイへ睨む様に目を向けた。
――頭おかしいんじゃないかこの人は。
一はダスタークロスとモップを乱暴に掴むと、ドアを足で押し開け店内に立つ。
我侭な店長に対して怒りもしていたが、それ以上に新しい店員が入ってくる喜びの方が勝っていた。一がカウンターの中に着く頃には、さっきまでの仏頂面がすっかり直っていた。
一は掃除用具をカウンターの奥に立て掛け、レジ前に置いてある、少なくなった煙草の補充作業に移る。
少なくなっている銘柄の名前を、置いてあったレシートの裏に書き込んでいく。
ふと、店内に誰かが入ってくる気配を一は背中越しに感じた。
作業を中断し、入り口の方に振り向く。
ああ、お客さんだ。一はそう判断して「いらっしゃいませ」といつもの様に挨拶した。
「店長さんは居ますか?」
店に入ってきたのは女の子。一は自分よりも小さい背丈の『お客様』を見て思う。
ショートカットに揃えられた黒に近い髪。その瞳も同様の色をしている。スカートを穿いていて、一を見上げている女の子。
その小さな女の子がハッキリと一に告げた。
「え? 店長、です、か?」
一は切れ切れになりつつも言葉を紡ぐ。
――何でこんな子供が店長を? クレーム? 店長の妹、娘? 誰何だ?
困惑する一に追い討ちを掛ける様に女の子が言った。
「良いから店長を出しなさい。ほら、馬鹿みたいな顔してる前にさっさと動いてよ」
訂正しよう。
女の子の肩に止まっている鳥が翼をバタつかせながら言ったのだ。
バックルームには煙草を吸う店長、椅子に座る女の子、仕事を終えた一、飛び回る鳥が居た。
その鳥の目は顔の前面に位置しており、鷲の様な嘴を持っていた。体毛は雪が積もったかと思えるほど真っ白で、首をクルクルと回している。
一言で表すならば、それは梟だった。
「で。北駒台は如何するつもりなの?」
等と。威圧感の無駄にある声が一の耳に聞こえてくる。話の内容をなるべく聞かない様にして一は制服をロッカーのハンガーに掛け、上着を着た。
お疲れ様です、とすら言えない険悪な雰囲気。
――でも黙って帰ったら店長うるさそうだしなあ。
だが、この場に留まっていてもどうする事も一は出来ないと感じていた。
一は意を決し、途轍もなく不機嫌な顔をしている店長の目を見ない様に「お先に失礼します」と何とか声を出した。
返事も待たずに、若干早足で一はその場から立ち去り、店の外に出て、気持ちを落ち着かせるために一服する。
紫煙をゆっくりと吸い込み、吐き出す。
店の照明が届いていない距離から、何かが見える。
落ち着き始めていた一の視界に赤い物が飛び込む。
一は、ああ、しまったなあ。と思いつつ、その場から動けないでいる。
「……よう」
目を合わせないで、北駒台店にやってきた三森が一に声を掛けた。
「……おはようございます」
入り口の前の灰皿に、煙草の灰を落としながら一が返す。
三森が煙草を銜え、指と指を擦り合わせた。指の腹から小さな炎が揺らめく。そこに顔を近づけ、火の点いた煙草から煙を吐き出した。
「今日は終わりなンか?」
「ええ」と一が三森の問いに短く返す。
お互い何も言わないで、時間が過ぎて行く。
三森が、水の張ってある灰皿に吸殻を落とし、扉に手を掛けた。
「あ」と思わず一が声を発すると、三森の動きがピタリと止まる。
「あンだよ?」
「今、中入らない方が良いっすよ。店長と偉そうな人たちが話してるんで」
と伝えた一だったが、喋る梟を思い出し、人たちでは無いよなあと思い直した。
「関係ねェよ。どうせ支部の連中だろ」
三森がぶっきら棒に返す。
折角の忠告を無下にされ、一が気分を害した様に、感情を込めず「ああ、そうですか」と更に返した。
「……最近やけに私に突っ掛かるじゃねェか、自分の立場分かってンのかお前」
三森が開け掛けていた扉から手を放し、一を睨みつける。
「突っ掛かって来てるのは三森さんじゃないですか。俺は普通に喋ってんのに、そっちはああだりぃって感じで返してくるし」
「ンなの全部お前の勘違いだろ」
「違いません」と尚も一は食いつく。
一の態度に業を煮やした三森が、一歩踏み出した。
そして一の襟元を片手で掴み上げる。
ある程度は覚悟して発言していた一だったが、三森の拳が振り下ろされた時は流石に目を瞑った。
勢いづいた拳は一の顔面に届く前に、何かによって止められる。
「邪魔よ。通れないわ」
何者かがその拳を一の眼前、片手で食い止めていた。
長い黒髪を空いている方の手で優雅に梳くと、「や」と一に声を掛ける。
「糸原さん」と、一が安心した様にその人物の名前を呼んだ。
「テメェ、こないだの女じゃねェか。あン時は店の前まで来て逃げ出しやがって、今更何の用だってンだ」
三森が握った拳に力を込めながら、糸原に問い掛ける。
「田舎のヤンキーには関係無いわ。それより、早くその手を退けて」
問いには答えず、糸原が蔑む様な視線を三森に送った。
間に挟まれた形の一は又もや動けないでいる。
――助かったけど情けねぇ。
「お前こそ退けやがれ。大体テメェは一の何なンだ」
シルフ戦の時に聞こうと思っていた事を三森は改めて尋ねた。
指名手配犯とコンビニの一般店員。
この二人が知り合いだと言う事に三森は訳が分からないでいた。
拳を重ねたまま、糸原が一を見る。
再度三森を見据えて。
「一つ屋根の下で暮らす仲よ」
と、愉快そうに言い放った。
「え」と、その言葉に三森の力が弱まる。
その隙を見逃さず、糸原が掴んだ拳を腕ごと捻る様に回転させた。背中を向かされた三森の顔を再び見る事は無く、糸原が体勢の崩れたその背を押すが如く右足を踏み込む。
蹴られた背中を押さえて、三森が少し離れた所にしゃがみ込んだ。
あっはっは、とわざとらしく笑って、糸原が店内に入っていく。
それと入れ替わる様に先程の女の子と梟が現れた。女の子は一に頭を下げ、梟は何も言わないで一を値踏みするかの様にジッと見る。
「……お疲れ様です」
一がそれだけ言うと、二つの影は暗闇にそれごと溶かす様に姿を消していった。
残されたのは一と地面に座り込む三森。
糸原が何故この時間、この場所に来たのか一にはようとして知れなかったが、一つだけハッキリしている事があった。
「あー、その三森さん……」
一は声を掛けるが、三森は顔も上げず、返事もしないでただ黙り込む。
「糸原さんが言ってた事は、まあ、半分。いや二割はホントなんですけど八割嘘ですから。あの人は口から出任せって言うか、適当に口開けて生きてるんで。あー、す、すいませんでした」
――何弁解してんだ俺は。
自分の発言に呆れながらも、一が話を続けようとする。
「すっかり仲良しだな」
「は?」
一が聞き返すが、三森はそれ以上何も言おうとせずに立ち上がった。
三森は店に入ろうとせず、来た道を戻ろうとする。
今からバイトじゃないんですか、と一は聞く事も出来ずに、その背中を見送った。
後ろ向きだったので、三森の表情、気持ちを窺い知る事は出来なかったが、それでもその後姿からハッキリしている事が一つだけあった。
「絶対怒ってるよな……」