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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
セイレーン
109/328

重荷を負いて

 


 虫ですか?

 虫なら殺しましたよ。え? 何でって聞かれても。

 虫だったから、としか、言えませんよ。



 目的など見出せず、見出す気すら失せていた。

 一は駒台の中央公園のベンチに、体を伸ばしてだらりと座っている。

「……くそっ」

 昨夜見た、見せられたソレの死に様が脳裏から離れない。

 ソレが死ぬのは、今までに何度も見て来た筈だったのに、ソレの血が混ざってからだって、何度か見て来た筈だったのに。

 離れない、離れない。今も焼き付いていて、目を瞑ると、鮮明にその時の場面が浮かび上がった。

 あの時、田中は表情を変えないまま、自身が切り刻み殺したソレを蹴っ飛ばして、勤務外たちの目の前にまで届けた。


 ――いたから、殺しました。


 ソレとは、何だ。ソレとは、いったい何なんだ。

 何の為にこの世界に生まれ、この世界に生きているんだ。

 本当に、殺される為に生きているのか?

 だったら、自分はどうなるんだ?

 何一つ分からない。一には、何一つ分かる気がしなかった。

 殺された、ソレ。

 別段、一は昨夜殺されたソレに同情している訳ではない。

 ただ、怖かった。

 あんなに呆気なく殺され、屍を晒され。

 次は自分の番ではないかと、一は昨晩、田中の目を見て怯えていた。

「次はお前の番だ」

 そう、暗に言われているようで、全て見透かされているみたいで、ただただ恐ろしい。


 この時間、一は本来なら、今頃は店でレジを打ち、納品された商品を並べている。

 しかし、昨晩の捜索が空振りに終わってしまい、昨日の六人全てが今晩も同じ時間、同じ場所に来るよう『棺』こと、田中次史から召集が掛かったのだ。

 その為、『兄』を思うジェーンの判断により一には休息が与えられている。

 一はジェーンに感謝する一方で、何て事をしてくれたんだという気持ちもあった。

 仕事をしていれば、少なくともその時間は嫌な事を思い出さずに済む。休む時間、考えてしまう時間を持て余したまま、家に篭る気にもなれず、一は公園にやってきた。

 今の時刻は、午後の一時を少し回ったところである。一は昼食も取る気にならず、朝からこうして何もしないまま、無意味だとは自覚しながら、自覚している事すら無意味だと感じながら怠惰な時間を過ごしていた。



 何も解決しないまま、時間だけが流れていく。

「…………う、ん」

 いつの間にか、一は眠っていたらしい。彼は目を擦り、あくびをしながら頭を掻いた。

 飲み物でも買いに行こうとして立ち上がると、正面のベンチに座っている、見知った顔と目が合う。

 ――歌代チアキ。

 彼女は相変わらず眉間に皺を寄せ、無愛想にしていて、道行く人と一を睨んでいた。

「おーおー」

 彼女には、何故だか不機嫌そうな顔が良く似合っていると、一は思う。

 一はチアキに挨拶でもしようと思って、近付いていった。


寄んなや(・・・・)勤務外(・・・)


 彼女(セイレーン)の声には全てを拒絶する強い意志が込められている。

 足が止まる。言葉に詰まる。頭が真っ白になる。嫌でもだ。

 一はしばらくの間、チアキに睨み付けられる事しか出来ないでいた。

あんた(・・・)、嘘吐いてたな。うちを騙してたんや」

「……ちょ、ちょっと待てよ。お前、何言って――」

「――昨日、昨日の晩。公園におったやろが」

 ようやく、合点がいく。惚けていた一にも、ようやく事態が飲み込めた。

 どうやら、昨晩ナナが見たと言う人影はチアキだったらしい。彼女がどうしてあの時間あの場所にいたのかは知らないが、見られていたのは確かだ。

 勤務外だと言う事を黙っていたのは悪いと思える。だがしかし、それだけで、こうまでチアキが怒るとは思っていなかった。

「だから待てって。確かに黙ってて悪かった、ごめん。うん、俺は勤務外だけどさ、でもお前、何でそんなに怒ってんだよ?」

 見られていたなら仕方ない。とりあえず、一は改めて事実を認める。その上で、チアキが怒っている理由を尋ねた。

「……うちは勤務外が嫌いなんや! ソレを倒す言うてるけど、あんたらは自分に都合のええ事しかせえへんやないかっ」

「お、俺はそんな事しないぞ!」

「勤務外なんて皆同じやろ! あんただって、あいつと同じなんや!」

 チアキは今にも一に飛び掛りそうな勢いで喚き立てる。

 こうして言い争っている自分たちを興味深げにして通り過ぎる他人の視線が気になっていたが、一はそれどころではない言葉を聞いた。

「あいつ? あいつって、誰だ?」

「しらばっくれんなや! あんたの仲間なんやろ!」

 そう言われても、一には何の事か分からない。仲間、と言う事は北駒台の誰かだろうか。

「もしかして、髪の長いスーツの女の事か?」

 チアキは探る様な目付きで一を見据えていたが、

「誤魔化そうとしても無駄やで、うちは全部知っとんねんからな」

 冷たく、突き放す。

「……何をだよ?」

「全部や、ドアホ!」

「…………………………」

 一は段々、チアキに対してイラついてきた。昨日まではヘラヘラと笑って懐いて来ていたのに、今は掌を返して噛み付かれている。

 それだけならまだ我慢出来たのだが、昨夜の事が一の苛々に拍車を掛けていた。

「お前さ、ちゃんと喋れよ」

「なんやと?」

「悪いけど、何言ってんだか分かんないぞ」

「こっ、この期に及んで逃げようとすんなや!」

 チアキは立ち上がり、一の胸倉を掴もうとする。

「お前から寄ってんじゃねえよ」

 しかし、一はそれを避けた。

「俺が嘘吐いたってのは認めるよ。だけど、何だよお前のキレ方さあ。さっぱり分かんねえっつーの。筋道立てて順序良く喋れ」

「〜〜っ! なんやねんアホ! このっ、そっちが悪いくせに!」

「俺は悪くない。悪いのはお前の話し方だ。こうして俺に話し掛けてるって事は、何か言いたい事があるんだろ? だったら、話してくれよ」

 チアキは地面を何度も蹴り付け、怒りをぶつけている。一はそれを冷静になって見つめていた。相手が可哀想なくらい荒れているのを見て、頭がすっかり冷えてしまったのだ。

「……う、うちは何もしてへん」

「はあ?」

「いっ、言われたんや! オンリーワンの社員って奴に!」

「だから、何をだよ?」

 いまいち要領を得ない。一は続きを促してみる。

「どっから聞いたんか知らんけど、そいつ、うちにここで歌うなって。うちがセイレーンの血ぃ引いてるからって因縁付けてきたんや。ま、そいつの言う事なんて聞いたらへんけどな」

「……なあ。それ、本当か?」

「うちはあんたらとはちゃう、嘘なんか吐かへん」

「ふーん。で? その社員って誰だよ?」

 尤も、顔と名前が一致する社員など、一はジェーンや堀ぐらいしか知らないが。

「う、あ、の、その……」

うあの(・・・)? ひでえ名前だな」

「ちゃうわアホ! 名前は……知らん」

 嘘だな。一は冷ややかな目でチアキに一瞥をやった。

「だってそいつ名前言わへんかってんもん!」

「って言うかさ、何でお前にオンリーワンの社員が尋ねて来る訳?」

「はあ? アホ言うな、あんたらがうちに頼んでんやろ(・・・・・・)?」

「頼んだ? 何を?」

 オンリーワンがチアキに何を頼むと言うのか。見当もつかない突拍子な話。聞いた事もない話だった。

「一ヶ月前にうちを捕まえに来た勤務外が言うたんや! 命が惜しかったら、ここでうたえってな!」

「…………嘘だ」

 そんな勤務外、いる訳がない。一時でもソレを見逃してくれる筈がない。そもそも、そんな事をする理由が分からない。

「ホンマやって!」

「じゃあ、その勤務外の名前は? 性別は? 年齢は? どんな奴だったんだよ?」

「……そ、それは……」

 チアキは口篭り、視線を一から反らす。

「やっぱ嘘じゃねえか」

「ちゃう! 思い出せへんねや、そいつ、特徴っちゅー特徴があらへんねん。なんや、特徴がないのが特徴みたいな……」

「――っ!」

 特徴が、ない。

 一の知る限り、該当する人物が一人だけいる。

 しかし、早計は禁物。チアキが出任せを言っている可能性も捨て切れない。何より、彼女の話が本当だとすればおかしな話になるのだ。

「なあ、お前さ、一ヶ月前にはどこにいたんだ?」

「……駒台。ちゅーか、こっから出た事ない」

「お前だって嘘吐いてんじゃんかよ!」

「吐いてへん、うちはそんな感じかなーって言うただけや。勘違いするししょ――あんたが悪い」

 チアキは咳払いをしてから、再び一に向き直った。

「まあ、良いけどよ。じゃあさ、何でお前捕まったの? 見てくれじゃお前がソレの血を引いてるとか分からないじゃん」

 もし、姿を見ただけでばれるのなら、一にとっては困った話になる。

「それは、あー、うちが面接に行った、から、か、な?」

「面接って、どこの?」

「ほら、そろそろ出来るやろ、オンリーワンの南駒台店ってとこ。あっこに行ってんな。ほんで、うち面接の時喋ってもうてん。そこから情報が漏れたんちゃうんかなー? あははは」

 馬鹿過ぎる。一は呆れてものも言えなかった。

「あのなあ、んな事言ってもお前の得にはならねえんだぞ? ソレを殺す商売やってるとこで、自分はソレですなんて良くもまあ……」

「うーん。その通りやわ。ほんで、面接落ちて、そっからすぐに勤務外やーって奴が来てん。いやーびっくりしたわ。うちな、アパートで一人暮らししてんねんけど、夜中ノックされて、いきなし刃物突き付けられて。うわあ、思い出しただけでもぞっとするわあ」

 恐らく、面接に持っていった履歴書から住所がばれてしまったのだろう。一はチアキの無防備さを呪った。

「……じゃあ、お前の力ってのは本物なんだな?」

「あんただって知ってるやろ。うちがちょっと気持ちを込めれば、何でも出来んねん。来いって思ったら何かが寄ってくるし、来るなって思えば、皆どっか行く」

「俺には効かなかったけどな」

 魔女の時といい、自分には何かしらの耐性でも付いているのだろうか。一は己の悲運をただただ、嘆いた。

「その力はどこで手に入れた、っつーか、どうやってセイレーンとやらの血が混じったんだ?」

「さあ? 生まれた時からこんな感じやったけど」

「はああ!?」

「うわっ、唾飛ばすなアホ!」

 逆算すれば十年以上も前の話だ。チアキは、ソレが大々的に姿を見せたと言われる、パンドラ事件の前にソレと関わっていた事になる。

「お前、いつからソレを知ってたんだ?」

「うーん? いや、ソレって名前が付いたんは最近やろ? それまではうち、自分にそんな力があるなんて知らなかったもん」

「…………わかんねー」

 もしかして、『ソレ』はパンドラ事件よりもずっと前から存在していたのだろうか。そう言えば、と。一は今までに聞いた色々な話を思い出す。心当たりは、幾つかあった。

 ――しかし。

 今は、置いておこう。一は頭を切り替えて、今起こっている事を追求しようと決めた。

「なあ、お前にうたえって言った勤務外と、つい最近お前に会いに来た社員ってのは同一人物(・・・・)か?」

「へ? う、うーん、違うと思う(・・・・・)。でも、勤務外の方は特徴ない奴やし、外暗かったし怖かったからよう見られんかったわ」

「二人とも、特徴のない奴だったんだな?」

 チアキは素直に頷く。

「なんや、存在感が薄いっちゅーんかな? 影みたいな奴やったわ」

「なるほど、な」

 話が上手く出来過ぎている。それこそ、恐ろしいくらいに。

 一はとりあえず、今までに得た情報を元に、少しずつ真実を組み立て始めた。

「えーと……」

「なんや?」

 まず、歌代チアキが本物(・・)であると仮定する。気持ちを込めれば、何でも出来るとチアキは言った。人間とソレの混ざった半端者である自分ですら、チアキの歌声に引っ掛かりはした(・・・・・・・)のだ。……ソレだって、彼女の声に誘われるだろう。

 チアキの力が確かならば、成る程、オンリーワンの人間にも目を付けられるかもしれない。

 この公園に起きている連続したソレの出現に、チアキは確実に絡んでいる。チアキが歌でソレを呼んでいる。

 確証はないが、一は自分の中でそう結論付けた。

 しかし、そうなると不可解なのはチアキにうたえと強要した勤務外。セイレーンの血を引いていると言ったチアキをわざわざ尋ねたのは、彼女の力が本物であるという証明にもなる。

 ほぼ間違いなく、歌代チアキは異能なのだ。

 ならば、何故勤務外はチアキにうたえと言ったのかが問題になる。彼女が歌った場合、ソレが歌声に釣られて寄って来る可能性は決して少なくない。危険なのだ。チアキの力を信じている勤務外が、その可能性に気付かない理由は有り得ない。

 現に、チアキは別の社員に釘を刺されている。ある程度彼女の能力を把握出来れば、何が起こるか誰にだって予想は付くのだから。

 うたえと言った勤務外。

 うたうなと言った社員。

「……『棺』、なら」

 田中次史。

 彼ならば、一の知っている勤務外、社員の中で唯一チアキの言う特徴に一致する。辻褄が合う。

 だが、田中は社員の筈だ。チアキに釘を刺した社員には該当するが、うたえと言った勤務外には該当しない。

 そもそも、田中が一連の事件の犯人として、一には理由、動機が思い付かない。彼がチアキを利用してソレを誘き寄せる。だが、結局はその彼自身が事件の後始末に駆り出されている。そんな馬鹿な話があるだろうか。無駄過ぎる。このままでは、どこにも辿り着かない。

 それでも、一はチアキの話を嘘だとは決め付けられない。足りない、足りない、まだ足りていない。違う角度からの情報が欲しい。

「お前が、ソレを呼んでるのか?」

「はあ?」

 頭の中がごちゃごちゃとしてきたので、一は話題を切り替えてみたのだが、思い切り睨まれる。

「あんなあ、うちはうたえって言われてうたってただけや! なんでソレなんか呼ばんとあかんねん!」

「いや、いやいやいやいやいやいやいや」

 一は力いっぱい首を振った。

「だったら、どうしてソレが来るんだよ?」

「知らんわハゲぇ!」

「俺はハゲてない! 見ろっ、地毛だよ!」

「近付くなボケっ、うちはあんたが嫌いになったんや!」

 チアキは拳をぶんぶんと振り回して一を追っ払う。

「お前まだ隠してる事あんだろうが!」

「ないわっ、うちは勤務外に頼まれて公園でうたってるだけや! ソレがどうとか、知らんもんアホ!」

「おい馬鹿っ、だったらまた考え直さなきゃいけないだろうが!」

「知らん言うてるやろっ、もううちに話し掛けてくんなあ!」

 チアキは一の向こう脛を蹴っ飛ばして、その場を走り抜けていく。

 一はもう、彼女を追い掛けようとは思えなかった。足が、痛い。

「くっそー、だったら俺の前に出てくんなよな……」



 一はチアキが去った後も公園内のベンチに座っていた。

 考える事は山ほどある。

 このままで良いのか。流れに身を任せたままで良いのか。

 一に流れる狼の血が、そう、呼び掛けていた。

 勤務外、人間の立場ならソレは見過ごせない。ソレは、敵だ。

 公園に現れるソレも、場合によってはソレを誘っているチアキも敵となる。

 だが、今の一はソレの立場をも考えてしまっていた。

 確かに、人に害を為すソレは見過ごせない。が、公園に現れたソレが何をしたというのか。チアキが果たして何をしたというのか。

 ソレが連日現れているにも関わらず、まだ犠牲者が出ていない。チアキの力だって、本当かどうか怪しいものである。素晴らしい歌声ではあるが、ソレを誘う力が彼女にあると言う確証はない。

 それでも、上からの命令に逆らってはいけない。それぐらい、一にだって分かっていた。

 分かっては、いる。

 逆らえない。下手に立ち回れば、自分がソレと関係があると疑われてしまう。それだけでも厄介なのに、もし、ばれてしまえば。

 ――『棺』には逆らえない。

 しかし、心のどこかでこのまま『棺』に従っていても良いのかと、疑念が鎌首をもたげるのだ。

 歌代チアキか、田中次史。

 ソレか、人間。

 誰を信じて、誰を信じないのか。

 誰を味方とし、誰を敵に回せば良いのか。

「はあ……」

 何にせよ、今のままでは踏ん切りが付かない。答えまであと少し。良い所まで来たという手応えはあるのだが、やはり足りない。

 北駒台店の皆に相談する気は、今のところはなかった。問題がデリケート過ぎる。場合によってはオンリーワンの社員を敵に回すと言ってしまうのだ。言える筈もない。

 言えるとすれば、ジェーンか、ギリギリのラインで糸原。それ以外のメンバーには、迷惑も心配も掛けたくないし、余計な目で見られたくなかった。

 一はふと立ち上がり、ぐるりと公園内を見回す。

 ――こういう時、誰かが来てくれれば助かるのに。

 余計なおせっかいは焼きに来るくせに、肝心な時には誰も来てくれない。

 おしゃべりな情報部、口の悪い元フリーランス、生意気な四足歩行。誰でも良い。

「……って……」

 そんな考えに至った時、一は自分を情けない奴だと恥じた。一人では何も出来ない駄目な奴だと、自戒する。

 一は口を真一文字に引き締めて、甘えた気持ちを無理矢理追い出した。

 だが、考えれば考える程に気持ちは沈んでいく。

 ソレと、人間。

 誰も頼んでもいないのに、板挟みになっている。考えても仕方がないから、忘れようとする。

 気持ちは深く、深く。一の思いは自分でも手が届かない深層意識の最奥まで沈んでいった。



 一が延々と悩んでいたのと同時刻、三森冬は自室のベッドに転がっていた。

 枕元には灰皿が置かれており、皿の上には大量の吸い殻。そして、皿に乗り切らない灰がシーツを汚している。三森はベッドに広がっている惨状を見るたびに、その惨状を引き起こしたのが自分自身である事にも関わらず、陰欝な気持ちになっていった。

 ――ムカつく。

 思い出すのは昨夜の出来事。

 南駒台店の勤務外、円堂に馬鹿にされ、あの『棺』にまでこけにされた。

 何よりも一番腹が立つのは、何も出来なかった自分に、である。

 あの時、『棺』に攻撃を止められた三森は『棺』に対して僅かなりとも恐怖を覚えていた。我を忘れて、ほんの少し(・・・・・)周囲に目がいっていなかったとはいえ、怒りに任せ、滾りに飽かせた渾身の一振りを止められたのは歴然とした事実である。

 一瞬でも、あの場にいた『棺』を忘れてしまっていた。警戒をし過ぎてもし過ぎることはない、それでもまだ足りない存在だった奴から目を離したのはとんでもない失策である。

 三森は、昨夜、あそこに春風が居合わせていない事を祈っていた。もしあんな醜態を見られていたならば! 身を捩る。次に彼女と会うのが嫌で嫌で堪らない。何を言われるのか分からない。罵詈雑言ならばまだしも、慰められなどしたら自殺ものである。

「ああああっ! 畜生!」

 三森は傍にあった目覚まし時計を布団に叩き付けた。みっともない、負け犬の遠吠えだとは分かっていたが、体が勝手に動くのは止められない。勢いに任せて、ベッドの上にある灰皿を足で蹴っ飛ばす。ガラスで作られた大きめの灰皿は割れる事無くフローリングを滑っていき、カーペットの上で止まった。

 シーツには吸い殻や灰が零れたままだったが、三森は舌打ちだけをしてから、投げ遣り気味にベッドの上へ身を投げ出す。

 目を瞑れば、浮かび上がるのは『棺』の顔。

「……ンあ?」

 顔が、浮かんでこなかった。

 特徴が、なさ過ぎる。せめて想像上で『棺』をボコボコにしようと思っていたのに。

 三森は何事か喚いてから、仕方なくターゲットを切り替えた。事もあろうに、この自分にストリップだとか、口だけの女だとか抜かしやがった勤務外に怒りをぶつける。

 ――確か、円堂とか言っていたか。

 頭の中にリングを想像して、マウントポジションで顔面の骨が砕けるまで、顔の形が変わるまで殴り続けた長髪で背の高い男を見下ろしながら、三森は敵の名前を思い出した。

 あくまで、想像上。

「あー、くそ、こんなんじゃあ気が収まンねェ」

 非常に根暗な行為だとは思いつつも、そうする事でしか仕返しが出来ない。いっそ、相手が勤務外じゃなければ良かった。自分が勤務外じゃなければ良かった。そうすれば、余計な遠慮などせずに拳を振るえたのに。

 三森は足をばたばたさせて悔しがる。

 身分や組織に縛られて、自分の好きに、満足に動けない事が歯痒くて仕方ない。

「殴りたい殴りたい殴りたい殴りたい殴りたい殴りたい」

 あの時は、相手が勤務外だったから本気じゃなかった。『棺』に対して油断していた。

 それも事実ではある。

 だが、それが何だ。あの場は、あの時確かに戦場だったのだ。

 戦場において本気を出していなかった、油断をしていたと言い訳するのがどんなに意地汚く、みっともない所業なのか、三森は自分でも分かっているつもり、だった。

 三森は店にある少年漫画の単行本を立ち読みしながら思ったものだ。敵にやられそうになる主人公。主人公にやられそうになる敵。「こっからが本番だ」「本気を出す時が来たようだな」舐めるな。殺し合いに手加減もクソもあるか。やるなら最初っから本気でやれってンだ、と。

 そう思っていたのだが、いざ自分が戦うとなると、保身や立場が枷となる。相手を選んで、力を制御しなければならない場面もある。

 殴りたい。暴れたい。ムカつく奴らの鼻っ柱を叩き折ってやりたい。そんな事、出来ない。自分は勤務外で、相手も勤務外なのだ。ルールに縛られている我が身では、叶いそうにない。

 理由が、欲しい。

 誰かに、何とかして欲しい。

 動くに足る、殴るに足る、確固たる理由が欲しい。

 自分は強い。間違いない。過信ではない。慢心はない。自信はない。それでも、ソレと何年も戦い続けた、圧倒的な経験が三森を支えている。

 だが、その強さはあくまでソレとの戦闘において、のみだ。相手が人間なら、話は別になる。

 勤務外を長くやればやるほど、オンリーワンの制約、異端の誓約が嫌でも身に染みていく。がんじがらめになった勤務外を解き放つのが、ソレとの戦闘。持って生まれた、後から付いた異能の力を行使出来る唯一の機会。

 気の向くままに力を振るえば、ギリギリ残った人間の部分ですら、呆気なく消えてなくなる。

 縛られているからこそ、三森冬は、大抵の勤務外は人間を保っていられるのだ。

「……あー」

 それでも、『棺』は腹が立つ。円堂慶に腹が立つ。

 それでも尚、何も出来ない自分に腹が立つ。



 ソレ。人間。勤務外。フリーランス。

 立場に怒り、身分に悩み、力を妬む。

 一と、三森。

 彼らもまた、苦しんでいた。

 しかし、苦しんでこそ人間。

 悲しんでこそ、妬んでこそ、悔やんでこそ、恨んでこそ、喜んでこそ、楽しんでこそ、憎んでこそ、憤ってこそ、人間。

 迷い続け、思い続け、考え続けるのが人間の証。

 少なくとも、今、一と三森は、限りなく人間なのだ。

 今、だけは。

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