血潮滴る
午前、八時過ぎ。
勤務外専用のマンションの八階。
ドアを開ければ、刺す様な冷たさの空気が玄関から流れ込む。吐く息は白く、ジャージのポケットに両手を突っ込んで溜め息を一つ。
オンリーワン北駒台店の勤務外店員である三森冬は朝からうんざりとしていた。
先日はつまらないソレの為に駒台の中央公園にまで借り出されて、今日は午前からのバイトである。
寒い。眠い。だるい。苛々する。
三森はエレベーターホールを素通りして、非常階段へと続く扉を足で蹴り開けた。眼下には、日輪を受け、未だ朝露に輝く駒台の街。良い眺めだった。舌打ち。
煙草に火を点けながら、三森は階段を一段ずつ下っていく。吐き出す紫煙が風に揺れ、火の粉と共に流れていくのを横目で追い掛けた。
三森はエレベーターを使わないのではない。使えないのだ。ついこの間から、何者かの悪戯によってマンションのエレベーターが故障している。この事が彼女の苛立ちに拍車を掛けている理由の一つでもあった。
「……ちっ」
おまけに、背後から腹の立つ足音が聞こえてくる。かつん、かつん、と。三森を上から追い掛けて来る。上方にいるであろう人物は決して急ぐ様子を見せず、足音は一定のリズムを刻んでいた。
――わざとだ。三森は直感する。わざと、音を立てている。どうやら、音を立てている者は自分に気付いて欲しいらしい。挑発的な、自己の存在感をアピールする足音。
聞き慣れた音だ。
三森は踊り場で立ち止まり、手すりに背を預ける。
かつん、かつん、と。音が近付いて来た。それが近付く度に苛々が募る。銜えていた煙草を圧し折り下手に投げた。風に煽られた吸殻は揺ら揺らと踊り、人々の歩く街並みへと落下していく。吸殻が地面に落下し切るのを見届けないで、三森は睨む様にして階段を見上げた。
「よう、今日は何を教えてくれるンだ?」
返事は無い。代わりに、白い封筒がひらひらと舞い降りて来る。不審に思いつつも、三森はそれを引っ掴んだ。
「……なンだよ、これ?」
「四の五の言わずに開ければ分かる」
声と共に、異様に長い、それでいてしなやかな影が現れる。長い髪を無造作にゴムで束ねて、折れそうな程に細く、長い手足を伸ばして、ブラックスーツに身を包んだ女が現れる。
無感情、無表情。オンリーワン近畿支部情報部二課実働所属、春風麗が現れる。
しかし三森は驚かない。僅かに眉を顰めるだけである。
早朝だろうが深夜だろうが、春風が自分の前に姿を現すに到って気を遣う筈がないと、三森は分かっているからだ。
気にせずに封筒を開けると、中からはピンク色をした、メッセージカードの様な物が出てくる。それと写真だ。見た事のない赤ん坊を抱えた女性が写っている。幸せそうな笑顔でこっちを見ていた。だから、舌打ち。
「開けても分かンねーよ、誰だこいつ?」
写真をヒラヒラと、手元で弄びながら三森は問う。
「田中次史の妻と娘だ。妻の名は田中天美。天美の旧姓が河内、河内天美。娘の名が希と言うらしいな。ふん、面白い」
「面白くねェよ。大体田中って誰だよ? 私らの知り合いにンな奴いたか?」
「……三森冬、貴様冗談のつもりか? まあ、仕方の無い話ではあるな。オンリーワンでも田中次史より、別の通り名の方で知れ渡っているからな」
春風はつまらなさそうに言うと、懐からもう一通封筒を取り出す。三森に渡したのと同じ種類のものだ。春風は封を開ける事無く、破る。白い封筒は中身のカードと写真と一緒になってバラバラになっていく。彼女は鮮やかな手つきで封筒を百以上の破片に作り替え、それを掌に乗せた。緩やかな風が通り過ぎ、破片を連れていく。
「『棺』」
春風は呟いて、掌に乗せた破片に息を吹き掛けた。
「……あー、そーゆー事ね」
三森は納得したように返事をして、カードと写真を封筒にしまい込む。
「あのクソ野郎、結婚なんて良くもまァ、出来たもンだな」
「『棺』の伴侶か。ふん、余程の天使か、悪魔なのだろうな。まともな神経を備えていれば、こんな事は起こらなかった筈だ」
「くだらねェの送ってきやがって。……まさか、あの野郎、支部の奴全員に……?」
春風は掌に残った破片をすべて風に流して、捨てた。
「そのまさかだ。今朝方、近畿支部に段ボールで送られてきた。人数分以上に封筒が入っていてな、三森冬、貴様にもお裾分けをと言ったところか」
「いらねー……」
三森はこれ以上封筒を持つのも捨てるのも面倒だったので、右手に意識を集中させて、火を灯す。直火で燃やした。すっきりした。
「……けどよ、私が戦闘部に居た時、あいつまだ謹慎食らってなかったか?」
「だからその謹慎が解けたのだろう。私はまだ『棺』を直接確認していないが、確か、一ヶ月前に禁が解かれたそうだ。ふん、この様子だと、また駒台で動いているらしいな」
「うーわ、マジかよ。ちくしょうが、ガキ作ったからって盛ってンじゃねーぞ」
「点数稼ぎに必死なのだろう。精々、奴には気を付けておけ、三森冬」
無感情、無表情に春風は言う。
「お前に言われるまでもねェよ。用が済ンだらさっさと失せやがれ」
「まだ済んでいない。今の話、一一にも伝えておけ」
「あ? なンでだよ?」
「三森冬、貴様は私を誰だと思っている? 私はオンリーワン近畿支部情報部二課実働所属、春風麗だぞ。こう見えても忙しくてな、一一に直接伝えるだけの余暇が得られそうに無いんだ。だから、貴様に釘を預けておく」
前口上が長い。イラつきながらも後半部分の話は聞いていたので、
「釘、だァ?」
とりあえず尋ねてみる。
「三森冬、貴様が一一に刺すべき釘だ。預けたぞ、必ず伝えろ」
「って、何をだよ?」
「『棺』について。奴と一一を関わらせるな。良いか、もしもの時は貴様が何とかしてやれ。ではな」
「おいっ、勝手言ってンじゃねーぞっ!」
それだけ言うと、春風は三森の言には耳を貸さずに、非常階段の手摺りに足を掛けて、跳んだ。目を瞑ったまま宙に身を踊らせる。
――気持ち良さそうだ。
それだけだ。それ以上はなんとも思わない。
「くそっ」
三森は春風の奇行には一分たりとも興味を示さずに階段を下りていった。
「はあ?」
「い、いや、だからな……」
春風の言う事になんて従いたくはなかった。が、春風の言う事にも一理ある。三森が知る限り、オンリーワン近畿支部でも『最低』と誉れ高い『棺』について、駄目で情けない後輩に教えてやらなければとも思うのだ。
「羊が何ですって? お腹空いてんですか、三森さん」
頼りない。弱い。口だけは達者で性格も悪い。目の前の後輩、一一に『棺』について教えなければならない。奴は危険なのだから。
「羊じゃねェ! ひ・つ・ぎ! 『棺』だっ、頭沸いてンかてめー!」
「……朝から元気ですね。羨ましいですよ、本当」
しかし、当の本人に聞く気は無さそうである。一は三森を適当にあしらって、おでん鍋の出汁を入れ替えていた。
「良いから聞いとけ。やべェ奴なンだよ、そいつが駒台で何かやるかもしんねェ、だからさ……」
蛇口を捻る音。
「俺には関係ないでしょうよ。知り合いでも何でもないんですから。それより、レジ点検ぐらいやって下さいよ」
「なっ……!」
「いや、まあ、別に期待はしてませんけどね。三森さんって基本的に一般向いてませんから」
体が赤くなって、熱くなっていた。気を抜けば指の先から火が灯りそうになる。こっちは心配しているのに、どうしてそう、冷たくされなければならないのか。
「…………分かった。レジ点検やってくっから、あとで話聞けよ」
我慢。我慢。我慢。我慢。
三森は拳を強く固めて、静かに震わせる。
「え?」
一が固まっていた。
「あンだよ?」
「なんか、気持ちが悪いなあって」
殺してやろうか。そう言うのを抑えて、必死で声を振り絞る。
「……な、なンでだよ?」
「今日の三森さん、素直過ぎます。何か企んでませんか?」
一はレジ周りの点検をしながら、三森を注意深く観察していた。
「ガン飛ばすな。別に何も企ンじゃねェよ。話聞いてもらいたいだけだ」
「はあ、話? 聞いたじゃないですか、やべえっス先輩マジぱねぇっスみたいな人でしょう。アレですか、三森さんとこの、いわゆる総長みたいな」
「……私は暴走族になンて入ってねェぞ!」
「えっ? 嫌だなあ、そんな冗談は結構ですよ」
「冗談じゃねェよ!」
疲れる。イラつく。三森は自身の体温が上がっていくのをひしひしと感じていた。
「減らず口ばっか叩きやがって、舐めてンのかてめェ?」
三森は気の長いタイプではない。そろそろ我慢の限界である。
「ぼっ、暴力反対! 言い過ぎましたすいませんっ、でも大人しくしてたら良い様に弄ばれると思ってつい! 謝りますっ、だからレディースの人たちとかヤンキーの彼氏とか呼ばないで下さいお願いします!」
「呼ばねェよ! ンな知り合いもいないっつーの! てめェはいつまで勘違いしてやがンだよ!?」
断じて、ヤンキーや暴走族なぞに身をやつした覚えなど無い。
「……だって、三森さん恐いんですよ。すぐ怒るし、俺も距離感が掴めないと言うか、どう接して良いものか」
「えっ、あ、おっ、お前、私の事はもう恐くないとか言ってたじゃねェか!」
衝撃の事実。いや、三森にとっては。彼女はてっきり、自分がもっと皆に親しまれる様な人材だと思っていたからだ。そりゃ少しは取っ付き辛いかもしれないが。
「恐くなくなったのは本当です。……ある程度、ですけど。うーん、やっぱり第一印象が尾を引いてるのかなあ」
「呑気に分析すンな!」
「ほら、また怒鳴るでしょう。他の人たちともそんな感じなんですか?」
「あー?」
そんな感じと言われても困る。
「いや、だから、いっつも怒鳴ったり睨んだりしてるんですかって?」
一の発言を受けて三森は思案してみた。
今まで、二十年以上生きてきて、相手によって態度を変えた事は無い。
「お前が言うほど私は怒鳴っちゃいねェし、睨ンでもいねーよ」
「……皆怖くないのかな……」
「おい、仕事しなくて良いのか?」
三森は金庫の鍵をくるくると回しながら、カウンターに腰を下ろす。
「店長は店長だから平気そうだし、糸原さんは怖いもの知らずだし。ジェーンも気が強いからなあ。うーん、立花さんは何だか誰にでも懐いちゃうし、ナナは何とも思ってないよな。堀さんはずっと笑ってるだけだから……あ、神野君はどうなんだろう? ねえ三森さん、神野君って……」
「知るか」
三森は吐き捨て、回していた鍵を放った。小気味良い音が一の額から生じると、三森の気分が少しだけ晴れる。
「〜〜〜〜っ! 乱暴!」
「いちいちうるせェ野郎だな。もう知らねー、気ィ遣うのはヤメだ。どうせ客も来ないんだから、話ぐらい付き合えよ」
一はわざとらしい位に長い溜め息を吐いてから、「分かりましたよ」と弱々しく呟いた。
「おっしゃ。さっきも言ったけどな、『棺』って奴はやばいんだよ。頭のどっかがイカれてンだ」
「……抽象的ですね。具体的にどうおかしいのか、何かエピソードでもお願いします」
「うーん?」
三森は腕を組んで、思い出したくない事を思い出し始める。
「そう、だな。あー、まず、アレだ。そいつが『最低』って言われるようになった時の話なんだけどよ。ソレごと味方を殺しやがるンだ。つーか味方を味方と思っちゃいねェ。だったら組織になんて来るんじゃねぇって話だよ」
「分かりやすいなあ」
「笑顔が胡散臭くて、言動が嘘くさい。顔は笑ってても心は笑ってねェ」
思い出すだけで腹が立ってきた。
「で、何が最低って、そいつ腕が立ちやがるンだよ」
「……首にならないんですか? 幾ら強いって言っても、味方を殺しちゃうんでしょう?」
「上の考える事は分かんねェ。ま、大方放っておくより、手元に置いといた方が監視出来るとか思ってンだろうよ」
「えーと? そんな人がオンリーワンの社員で? 駒台に来てるんでしたっけ?」
不安そうな声と顔で一は尋ねてくる。
「だから、さっきから言ってんだろが」
「味方殺しちゃうような人が、ですよね? 誰か、何とかしようとか思わなかったんですかね」
「……思わなかった奴はいねェよ。でも、実際行動に移した奴は少なかったな」
「その人たちは……?」
「死んだか病院で寝てた。野郎、マジで狂ってやがる。とびきりの奴には誰も逆らえねェんだよ。関わりたくもねー」
確か、当時の戦闘部でも腕に覚えのあった数人が使い物にならなくなった筈だ。三森は思い出して、憂欝になる。
「って言うか、ソレよりもやばいじゃないですか。犯罪でしょうに。逮捕とかされなかったんですか?」
「全部勤務外中の話だと処理されちまった。仕掛けた方もソレとの戦闘に乗じてだったからな。まあ、それで『棺』は謹慎食らってたんだけどよ」
「……つい最近、解かれちゃった、と」
「だからマジで気を付けろよ。味方、っつーか、平気な顔で何でも殺しちまうような最低最悪だからよ」
「まあ、そりゃ気を付けますけど。あ、その人の特徴とか教えてもらえますか?」
「おう、えーと……」
気が乗らないが、三森は『棺』の姿を思い出してみる。しかし、難しい。内面の性格、性質は簡単に思い出せるのだが、身体的特徴が全く浮かんでこなかった。
そして、思い出す必要もなかった。
店の扉が開いた。客だ。そう思った一はそちらに顔を向けて決まり文句を口にする。
「……っ」
隣の三森は挨拶どころか、顔さえ上げはしなかった。
「あー、もう。三森さん、いらっしゃいませは?」
「最低だ」
「は?」
入ってきた客はレジに向かってくる。煙草かおでん、だろうか。おでんはまだ時間が掛かるから断らないといけないな、なんて思いながら、一はその客に視線を寄越した。
「すいません、店長はいらっしゃいますか?」
近付いてくる客と目が合う。
高くもなく、低くもない中性的な声だった。
「店長、ですか?」
「ええ」
背は高くないが、決して低くもない。顔立ちはハッキリしていなかった。幼くもなければ、老けてもいない。四十代半ば、二十代前半。丁寧な物腰の男性客は、そのどちらでも通るような顔をしていた。
一はその男を注意深く、それでいて失礼には当たらない程度に観察する。
――中途半端な男だな。
髪の毛も、身長も、体のパーツが全てにおいて普通なのだ。高くない。低くない。顔だって、彼が着ているダークスーツだってどこにでも転がっていそうな、特筆すべき事は何もない。
存在感が、薄い。こうして見ている限りにはしっかりと捉えられるだろうが、一度別れてしまえば、この男の姿なんてもう思い出せそうにない。少しでも目を離して、彼が雑踏にでもその姿を溶け込ませてしまえば、彼を探し出すのは困難だろうと、そんな事を一はぼんやりと考えた。
「……あの、どうかしましたか?」
「あ、すいません。えーと、店長に何の御用でしょうか?」
「ああ、失礼しました」
男は最初から開いているのか閉じているのか定かではない目を少しばかり開ける。
「実は僕、こういう者でして」
「あ、これはどうも」
一は男が差し出した名刺を受け取った。名刺を貰うなんて初めてで、ついつい嬉しくなってしまう。
「……えーと」
舞い上がる気持ちを隠しながら、名刺に書かれた肩書きと名前を黙読していく。
「オンリーワン、戦闘部の田中、さん?」
「はい、田中と申します。先日から担当地区が駒台になりましたのでご挨拶に来ました。どうぞ、以後よろしくお願いします」
つまり、社員。自分は、バイト。地位が違う。こっちが下で、あっちが上。一はいやが上にも緊張してしまう。
「あ、そんな、いえいえこちらこそよろしくお願いします」
一は、既に頭を下げている田中と名乗った男よりも深々と頭を下げた。
「店長なら奥で仕事してますから、どうぞ」
「よろしいのですか?」
「ええ。お構いなく」
田中はにこやかに笑うと、バックルームに向かう。扉を開ける前にもう一度一に向かって頭を下げた。
「……はあー」
一は田中が中に入るのを見届けてから安堵の息を吐く。
「社員さんかあ。緊張したけど良い人だったなあ。あ、ほらほら三森さん、俺名刺なんて初めてもらっちゃいましたよ」
「…………」
三森は俯いて、掲げられた名刺どころか、一を見ようともしない。
「三森さん?」
様子がおかしい。そういえば、さっきから三森は一言も喋っていないし、見ている方が痛そうなくらいに拳を握り締めて、震わせている。
「……どうしたんですか?」
「……あいつだ」
短い言葉ではあったが、三森はようやく口を開いた。
「あいつって、さっきの田中って人ですか?」
「馬鹿かてめェ、あいつが『棺』なンだよ」
「はい?」
馬鹿な。一は三森が嘘を吐いているのだとしか思えない。田中が話に聞いていた『最低』だとはどうしても思えない。礼儀正しく、物腰も低く、存在感だってひどく希薄なあの男が?
「人畜無害って感じでしたけど」
「人を見掛けで判断すンなボケ。人畜無害どころか人ですらねェよ。ありゃ鬼畜有害だ」
「……えー?」
「くそっ、こんな早く店にまで来やがるとは……!」
三森は壁に立て掛けておいたダスタークロスを苛立たしげに蹴り飛ばす。
「……あ、あの。本当にさっきの人が?」
「何度も言わすンじゃねェよ! ああっくそっ、ムカつく! 何しに来やがったあの野郎!」
「挨拶でしょう」
「うるせェよ!」
一は荒れている三森からそそくさと距離を取る。今は何を言っても火に油にしかならない。
しかし、一には田中が味方殺しをやってのけた『最低の棺』なのかどうか本当に分からなかった。三森の様子からしてその可能性は高いのだろうが。仮に本当だとして、何故店にまでやって来たのだろうか。さっきは三森を落ち着かせようと冗談で口にしたのだが、まさか本当に挨拶だけしに来た訳ではないだろう。わざわざここに足を運ぶ理由、目的、裏がある筈だ。
「うーん?」
考えを巡らせるが、満足出来る答えには辿り着けそうにない。一は思考を一旦止める。
「三森さん」
「……あンだよ?」
ホッとした。むやみに怒鳴られない。若干ではあるが、三森の機嫌は良くなっているのだ。
「考えても仕方ありません」
「……何をだよ?」
「田中さんについて、です。あの人が『棺』だとして、何を目的にやって来たのか、何を理由に駒台に来たのか、何をしたいのか。俺にはまだ何一つだって分かりません」
三森は訝しげに一を見ていた。
「……あのな、『棺』に理由だとか、ンな細かいもんはないと思っとけ。下手すりゃ肩が擦れ違っただけで、そいつをバラバラに切り刻んじまうような頭してんだぜ?」
「いやいや、そうにしたって肩が擦れ違ったっていう理由はありますよ。まあ、それで殺されるなんて真っ平ごめんですけど。でも、わざわざ駒台に来たんですから、何かはあるんでしょう」
「ああ? お前が何言ってるか分かンねェぞ」
「……今は何とも。俺だって自分で何を言いたいのか分からないですから。うーん。やっぱりハッキリした事は言えませんね」
「そうか死ね」
死ねと言われた。一はやれやれと言った風に肩を竦める。
「あの人だって人間なんですから、理由もなく人を殺したりしないでしょう。案外、実は本当に味方を殺さなきゃいけない事情があったんじゃないんですか?」
「あったとしてもだ。肩並べてる奴を殺しといて、のうのうと私の前に姿見せるのは許せねェ。……私は、そーいう奴が嫌いなンだよ」
三森は憎々しげに言い放った。
「……三森さんって、どうして戦闘部辞めちゃったんですか?」
「ああン?」
「睨まないで下さい。だって、バイトなんかより社員の方が絶対良いじゃないですか。給料とか、優遇も融通も利いてたでしょう」
「そりゃそうだけどよ、あー、なンだ。向いてなかったっつーの?」
もしかして、春風と関係があるのではないか。それとも、『棺』か。
一は頭を振って、考えを頭から追い出す。どう考えても、何を思っても、邪推にしかならないと気付いたからだ。
「それでも、この不況じゃ勿体無いとは思いますけどね。俺だったら必死にしがみ付いてると思いますよ」
「そうかよ、つまンない奴だぜホント」
「……社会の歯車にはなりたくないって言いたいんですか? 羨ましいですよ。歯車になりたくてもなれない人たちだってたくさんいるってのに」
三森は舌打ちして、一を睨む。
「私の勝手だろうが。お前は余計な口挟むンじゃねェ、首も突っ込むな。圧し折られたいのかよ?」
「まさか。まあ、そうですよね。誰だって人には言いたくない秘密がありますもんね」
「したり顔してンじゃねーよ。何も知らねェくせに、分かった風な口利くな、ボケ」
その意見には全面的に同意出来た。一は曖昧に頷いて、それ以上は何も言わない事にする。
しばらくして、『棺』こと田中次史がオンリーワン北駒台店を後にした。
田中との話が終わった店長はバックルームから出てくるなり、店内に客がいるにも関わらず大声で「塩撒け! 塩!」 などと叫び、喚いていた。
田中が持ってきた話の内容は、今夜、とある場所を探索するにおいて何人かの勤務外店員を貸して欲しいとの事だった。既に南駒台店とは話をつけていて、そちらからは数名の勤務外店員を連れて来るらしい。
何をするのかも、されるかも分からない。『棺』の噂を聞いていた店長は心底から嫌がっていたが、上の指示には逆らえない。北からは一一、三森冬、ナナの三名を田中の指揮下に置くと、苦渋の決断を下した。
とある場所。
その名前を聞いて、一は自ら進んで手を挙げたのだ。彼が良く知る、あの歌声が聞こえてくる駒台の中央公園。
あの日、狼たちと踊った月夜は今でも思い出せる。血が沸き、肉が踊った。月明かりに照らされた獣の宴。
一は半ば確信していた。今宵『棺』が動くのなら、またあの公園で血を見るのだろうと。自分に流れる僅かばかりの狼の血が、そう訴えている。
今夜もまた、誰かが踊るのだと。
今夜また、誰かと踊るのだろうと。
未だ耳に残る鮮烈なメロディを口ずさみながら、歌姫の姿を思い出してみる。
彼女もまた、姿を見せるのだろうと。