虫にも等しき
学生にとって単位とはとても大事なものである。そりゃもう金で買えるなら買いたいくらい。特に大学生にもなると、その気持ちが一層濃くなるというものだ。服装や髪型に関する規則も基本的には無い。自由。時間割りは自由に決められて余暇に費やせる時間も、まあ、増える。そう、自由。
だが、その自由とは誰が保障してくれるのか。……他ならぬ、自分自身であった。
遅刻早退欠席。咎める講師も高校や、それこそ中学に比べればグンと減る。自由なのだから。その分、どこかでツケは必ず返ってくる。自分で払わなければならない。
単位を得る為には日々の授業がものを言うのだ。大学の講義内容の進みは早い。単純に、講義の時間が長いせいもある。つまり、大学はテスト範囲が広がる分、しっかりと積み重ねる事が肝要なのだ。軽い気持ちで一回休むと癖がついて取り返しのつかない事態に陥ってしまう。
「…………」
――百も承知。
一は一年前にも痛い目にあった事を忘れてはいなかった。が、ついつい公園に足を運んでしまう。
昨日と同じ時間。同じ場所。まったく、懲りない奴だと内心自嘲しながらも、自重しない自分が一は好きだった。
昨日聞いてはいたが、やはりヒルデの姿が見えない。ベンチに座りながら、その事を残念に思う。
「……んー」
考えてみた。
昨日の歌。歌い手の事を。ヒルデとは一度話したが、一はストリートミュージシャンの正体が気になっていたのだ。
「不粋、かあ……」
思いつつも、既に一はベンチから立ち上がっている。不粋結構。手品の種明かし結構。好奇心は我慢出来ない。
猫をも……とは良く聞くが、気にしない事にする。
一は前回の経験を踏まえ、歌が始まる前に歌い手を探そうと考えていた。始まってしまえば、昨日と同じく動けなくなってしまうだろうと分かっているからだ。
だが、手掛かりはまるでない。
まず、件のストリートミュージシャンは楽器を使っていなかったので分かりやすい目印が無い。ギターケースでも抱えていれば、目に付いたのだが。
更に、一はお目当ての歌い手が十代の若い女性だと思っているが、もしかしたら若くないかもしれないし、下手したら男性かもしれない。もう完全に分からないのだ。声だけでは、当たりが付けられない。
それでも、探してみない事には始まらない。一はきょろきょろと視線を巡らせ、人の少ない方向へと進んでいく。そう、人の少ない方へ。
一つだけ、手掛かりはあった。
あの、声。歌。あの、悲しい歌。少なくとも、一がそう思った歌。そしてその時感じた違和感。
「……来るな」
来るな、と。足を踏み出したあの時に言われた気がした。
だから歌い手の周りには誰もいないのではないか。歌い手側が聴き手を遠ざけているのではないか。反面、ふざけた話だ。だったら最初から歌わなければ良いとも思う。が、そう、思う。思い込む。
正確に言えば、手掛かりと呼べるほどのものではない。信じると言うには、程遠い。
足を適当に動かしていた一は広場にやってきた。休憩所の様相を呈している空間にはベンチが七つ。その内五つは仲睦まじいカップルが独占している。
「しくじった……」
一には今、隣に座ってくれる連れ合いがいない。場違いなところに来てしまったと溜め息を吐き出した。だが、すごすごと引き下がるのも格好悪いので、仕方なく近くの縁石に座り込む。視線は誰とも合わさぬように顔は伏せておいた。
「はあ……」
待ち合わせを装っておこうとして、さり気なく広場の、反対側の入り口へ顔を上げた。
尤も、一には謎の歌い手という待ち人がいるので、来るかどうか会えるかどうかはさておき、待ち合わせをしている事自体は嘘ではないのだが。
広場のカップルが醸し出す停滞した甘い空気を吸って数分は経ったろうか、一の目が新たな人物の登場を確認した。背の低い、高校生くらいの女の子である。一とは反対側の入り口から広場にやってきた彼女は遠慮なく、そこにいる人間たちに視線を遣ったあと、いかにも不機嫌そうに舌打ちをした。次に、落ちていた空き缶を蹴っ飛ばす。甲高い音を立てた缶は真っすぐに宙を滑っていき、一のすぐ傍、背の低い茂みに勢い良く突き刺さった。
その音、行動に、一を含めた大半の人間が犯人に視線を注ぐ。抗議と好奇が降り注ぐ。しかし、静寂を蹴り破った当の本人はそんなものどこ吹く風で、あろう事か睨み返してくる始末だった。彼女は注目を集めるかのごとく、勿体ぶった足取りで広場の真ん中を進み、空いているベンチに腰を下ろす。堂々としたその所作に、他の人間はもう何も言わないし、言えそうにもなかった。
かくいう一もその一人で、厄介事には関わるつもりもない。女の子から目を逸らし、空き缶の突き刺さった茂みへ何とはなしに顔を逸らした。
「…………」
ふと、一は気が付く。
もしかしてあの女の子は自分を狙っていたのではないかと。そうでなくても、一歩間違えば他ならぬ一の顔面にスチールの缶が直撃していたのだ。
そう考えれば、沸々と怒りが沸き上がってくる。理不尽過ぎる。乱暴過ぎる。だが、声を大にしても仮に小さかったとしても彼女を叱り飛ばす気にはなれなかった。かといって、すごすごと引き下がる勇気も一には無い。せめてもの行為として、犯人の顔を覚えて二度と関係しないように、女の子の顔を盗み見るのが精一杯の抵抗だった。
「うーん」
一はばれないように女の子の観察を始めた。目を引いたのが金色に染めた髪。髪の毛は襟足を長めに残した、ウルフカットと呼ばれるものである。彼女は羽織っている真っ黒な皮のジャケットの前を開けており、おどろおどろしい髑髏がプリントされた白いインナーが見える。否、見せている、と言ったところか。やけに腰の位置をずらして穿いているジーンズはダメージ加工。そして、サンダルだった。と言うか、突っ掛けだった。いわゆる便所サンダルと呼ばれるアレである。
「…………」
そして、再度一の目を引くのは女の子が身に着けているアクセサリーの数である。そのどれもが、銀。ピアスを右耳に三つ、左耳に二つ。ロープチェーンタイプのネックレス。
「うわ……」
女の子の十指に嵌められた、それぞれ違う形のシルバーリング。殴られたら痛そうだ。と、一はぼんやりと考える。
女の子は広場にやってきた時と変わらず、不機嫌そうな表情を浮かべていた。目は細めており、真向いのベンチに座るカップルを睨んでいる様にも見える。そして止まらない舌打ち。静かな場所なので、やけに響いていた。何が彼女をああまで苛立たせているのだろうか。もしかして、彼氏が遅刻でもしてるのか。一はいるかどうかも定かではない、空想上の女の子の彼氏を呪う。呪って呪って、早く来て機嫌でも直してやれと祈った。
甘い空気が薄れていく。
「ん?」
剣呑な空気が場を侵食していくのに気付いた。見れば、同様の感想を他の人間も持ち始めたらしい。気まずく、居辛く、ある種居た堪れない雰囲気に呑まれた半数の者が広場を抜け出していく。
一体何がどうしたんだろうと思いながらも、一もこの場を去ろうと立ち上がった。瞬間、件の女の子と目が合った。威圧的な目。早くここから消えろと言われている様で、言われなくても出て行くよと、心の中で返す。
広場の出口に足を向けた所で、背後から悲しげな声が聞こえてきた。同時に、一の動きも止まる。いや、止められてしまう。
声が耳に入り、脳に届けられて、背筋にはぞくりとしたモノが走り波打ち粟立った。振り返る事が出来ない。そこで初めて、一はその声が朗々と響く歌だと気付く。
探していた、あの声なのだと気付く。
三分。
言葉にするのも声にするのも簡単だ。だが、一はその短い時間の間に自身の全てを抜かれた様な虚脱感に身を浸している。体も、魂も。動けなかった。奪われていた。
結局、一が探していたストリートミュージシャンは彼女だったのだ。
不機嫌な顔をした、小さい女の子。シルバーアクセサリーをごてごてにつけたくった、彼女。
一はしばらくの間、自分が何をしているのか分からなかった。立ち上がったまま、歌い手に背を向けたまま、ただ呆然と突っ立っているだけに思い至り、振り返って広場に目を向ける。
広場にはもう、一以外のオーディエンスがいなかった。七つあるベンチは今、一つしか埋まっていない。不機嫌な表情の歌い手だけが座っている。
やがて彼女は気紛れで顔を上げた。その時に一と視線がぶつかる。
「ちっ」
「……う」
露骨に嫌そうな顔をされ、一は情けなくなった。
これ以上ここに留まっていても一銭の得にもならない。むしろ損する。気になっていたストリートミュージシャンの正体が、声だけは筆舌に尽くしがたく素晴らしい人格破綻者だと分かっただけでも儲け物だろう。ヒルデには黙っておく。せめて、夢を壊された身としては彼女にだけでも夢を見続けてもらいたいものだ。
一は頭を振り、広場を後にしようともう一度、そこに背を向ける。
「なあ、自分」
その声が自分を呼ぶものだと一が気付くのは、羽織っているコートの襟元を引っ張られてからだった。
バランスを崩してふらふらとなったところに、
「聞いとんのか、コラ」
蹴りを食らう。
「……っ!」
衝撃でたたらを踏み振り向いた。何をする。一は思い切り犯人を睨み付けてやった。
「ん、何や? 怒ってんの?」
効き目は全く無し。一を蹴った女の子はからからと笑う。
「……理由も無いのに蹴られたら、誰だって怒るよ」
「そら悪かったな。でも、痛くなかったやろ? むしろ気持ち良かったんちゃうん?」
「俺はマゾじゃないっ」
「おー、突っ込みやー」
女の子はピアスを揺らし、尚も楽しそうに笑っていた。だが、一は彼女の変化に戸惑う。さっきまでの不機嫌な表情はどこに消えてしまったのか。
「自分なかなか出来るなあ、どや、ウチの相方に立候補してみいひん?」
「…………て言うか、お前関西弁使ってるけどさ」
初対面の人間を蹴り飛ばす相手になど『お前』で充分。気付かれない程度の敵意を込め、一は彼女の口調について問うてみる。
「それがなんなん? 近畿で関西弁使ったらあかんの?」
「お前、エセだろ」
「はあっ!?」
関西弁。
女の子はそこそこ上手に関西弁を使ってはいるが、地元民の一を欺くには至らないレベルだった。
「ハッキリ言っておく。お前は断じて関西人じゃない、関西弁を使用する資格も器も足りんと知れぃ」
「なっ、そっ、そっちこそ何やねん! 駒台のモンなら関西弁使えやっ」
「いや、俺は数年前ここに越してきたばかりだから使えないよ。使う気もない。まあ、覚えりゃ口喧嘩と威圧感のレベルは上がりそうだけど」
ナンジャコライテマウゾボケ。
女の子は悔しそうに唇を噛み締め、一を睨み付けてから力なくうな垂れる。
「どうしたら、本物になれるんや……」
「ん。まずはプラスチック、ロマンティックなどの語句をプラッチック、ロマンチックと言い換えてみなさい」
「アスレチック、とか……?」
「ちょっと違うけど、そんな感じ」
「ほっ、他には?」
「お好み焼きを食べる時には必ずご飯と一緒に食べなさい。それと、大人になったらヒョウ柄のえげつない服を身に付ければよか」
「ホンマやな?」
「ホンマホンマ」
そう言って一は笑った。つられて女の子も笑う。
「あ、ちゃう。ちゃうねん。聞きたい事があってん……」
女の子は頬を抓り、無理矢理笑顔を掻き消した。
「自分、何でここに居れたん?」
その質問に一は首を傾げた。何故ここに居た、ではなく、何故ここに居れたのかと女の子は尋ねる。
「理由が無いと駄目なのか?」
「……だって、うちの歌聞いとったやろ。自分なんも感じへんかった?」
「うーん?」
もしかして感想でも求められているのだろうか。一は頭を掻き、彼女を満足させられそうな言葉を探した。
「いや、すごく良かったよ。今までで聞いた歌の中で一番」
「おおきに。で?」
「で? って言われても。何だよ、次はおひねりでも出せってか」
「いらんわアホ、うちが聞いてんのはな、なんでうちの歌を聞いてここにおれたかって事っ」
一は咄嗟に顔を背ける。睨まれるのは精神衛生上よろしくない。
「そんなの知るかよ。……お前さ、自分の事過大評価し過ぎじゃないか? 歌聞いただけでどうこう変わらないぜ、普通」
「はっ」
鼻で笑われる。
「うちは自分の事なんてすごいと思ってへん。すごいのは、ここや」
女の子は挑発的に口の端を吊り上げ、自身の喉を指で示した。
「……へー、なるほど。食道が太いんだね」
「……や、食道じゃなくてな……」
「違うっ!」
「ひっ」
突然の大声と剣幕に女の子がたじろぐ。構わず、一は彼女にずんずんと向かっていった。
「今のはどう考えても俺の突っ込み待ちだろうが! てめえ舐めた事言ってんじゃねえぞ! 何が『や、食道じゃなくてな』だっ、関西人になりたいんだろ!? だったら寝呆けてんじゃなくてバシッと来い、バシッと!」
女の子は目の端に涙を浮かべながら何度も頷く。
「良し。ならば教えてやる。今日から俺の事は実の親と同じように崇め、絶対の存在と心得よ。そうだな、師匠とでも呼んでもらおうか」
「し、ししょー?」
「むやみに語尾を上げるなっ、吐き気がする! 分かったら返事だ弟子一号」
「わ、分かった……」
「敬語を使え!」
カッと目を見開き、一は思い切り女の子の頬を平手で振り抜いた。フリをする。女の子はいまいち意味が分かっていないのか、目を点にして目の前の『師匠』とやらを見つめていた。
「敬語だっ、返事はどうした!?」
「はっ、はい。わ、分かりました、し、師匠……」
「うん、実に心地良い響きである。師弟の繋がりが出来たところで、早速奥義を伝授してやろう」
「……奥義?」
女の子の疑問を余所に、一は左手の指を揃えて水平に伸ばす。晴れ晴れとした顔のまま、裏拳気味に左手を虚空に振りぬいた。一瞬遅れて風を切る音。近くにいた女の子の顔と髪を風圧が撫ぜる。
「師匠、これは……?」
「うむ。一流奥義『なんでやねん』だ。弟子一号、これは一子相伝、門外不出の秘伝。心して扱うが良い。使いどころを見誤れば……死ぬぞ」
「し、死?」
「ああ、(恥ずかしくて)死ぬ」
一は不敵に微笑み、伸ばしていた手をゆっくりと下ろした。
「他にも『えー加減にしなさい』、『やめさしてもらうわ』など、バリエーションは豊富にあるが、まずは先の技を極めると良い」
「はっ、はい!」
正気に戻って。
一と女の子は広場のベンチに並んで座っていた。
「なあ師匠、さっきの話の続きやねんけど」
「……あー、その、師匠って呼ぶの恥ずかしいから止めてくれないかな?」
「なっ、しっ、師匠が呼べって言ったからやろ! 大体、うち師匠の名前知らんもん」
「そういやそうか。ん、俺は一一って言うんだ」
女の子は目を丸くして一を見つめる。
「に、にのまえ? なんやけったいな名前やなあ」
「数字の一が二つでにのまえはじめ。良い名前だろ?」
「……ふーん。まあ、よろしくな師匠」
「一だって言ってんだろ」
女の子はぷいっとそっぽを向き、ベンチからぶら下がった足をパタパタと振った。
「だって言いにくいねんもーん、師匠なんやから、師匠で良いやん」
とりあえず、この子と街中や知り合いの前で会わない事を一は祈る。
「はあ、お前さあ……」
「お前ちゃうよ。うちは歌代チアキいうんや。へへー、かっちょ良いやろ?」
「うたって、あの歌か? ふーん、ま、格好良いかは知らないけど良い名前だな」
名は体を表すとはいうが、実に分かりやすくて一は気に入った。
「で、さっきの話ってなんだよ? お前の喉はすごいって話か?」
「しっかり覚えとるやんか、そーそー。まあ、喉っちゅうか、声、やけどな」
チアキは誇らしげに胸を張る。
「声、ねえ……」
「うん、めっちゃすごいねんで? でも、師匠には効かへんみたいやけど」
「いや、聞いてたよ?」
「……うちな、仲ようしとる男と女が嫌いやねん」
「はあ?」
そんなの俺だって嫌いだよ! 心の中で諸手を上げ、全面の同意。だが、何故このタイミングでチアキがそんな事を言ったのか一には理解出来ない。
「せやから、そーいう奴ら見る度にうちの歌で邪魔しとってん。消えろって思いながらうたったら、思い通りに消えてくれるからな」
「……歌、で? 馬鹿らしい。そんなんで人を操るみたいな、出来るわけ無いじゃん」
「出来るわっ、実際、さっきも師匠以外みんなどっか行ったやん!」
「そりゃ、俺が一人だったからだろ?」
違う。強い口調でチアキはそう断言した。
「あん時はみんな消えろって思いながら歌ってん。せやから一人やろうと二人やろうと関係あらへん」
「……あのさ、お前の歌がすごく良いってのは認めるけど、んな力は正直信じられないよ」
「師匠が何を言おうが、歌には力があるんや。特にうちのにはな」
力強い意志を宿したチアキの瞳に、一は思わず息を呑む。俄かには信じられない与太話だが、自分の時間を止められ、体の自由を奪われ、心を持っていかれてしまったのはれっきとした事実ではあった。
「……なあ師匠、ソレって知っとるやろ?」
「そりゃ、な。知らない奴の方がおかしい世の中だろ」
「うちな、ソレやねん」
「ふーん」
一は素知らぬ顔でコートのポケットから飴玉を取り出して口に含んだ。
「……もっとええリアクションしてぇや」
「つまんない事言うからだよ。俺に突っ込んで欲しいならもっとパンチ効いたの頼むぜ」
「充分パンチ効いてるやん、こんなん言われたら普通足元ふらつくで。師匠がおかしいわ」
「だってさ、ソレって言うけど、お前どう見ても人間じゃん」
歌代チアキ。彼女は変わった格好と言動をしているが、ソレには見えない。少なくとも、数多くのソレを見てきた一にとっては。
虚言癖でもあるのだろうか。そう、呑気に構えていた。
「師匠、うちな、ソレの血が混じっとんねん」
口から飴玉が零れ落ちそうになる。一は口元を引き締め、チアキを注意深く眺めた。
「……月を見たら、狂暴になったりするのか?」
「なんやそれ? ちゃうちゃう、そないな事ならへんよ」
自虐。自爆。自縄自縛。
「ソレの血いうても、そんな格好良いモンとちゃうよ。急に力が強くなったりせえへんし、頭良くなったりもせえへん。ちょっと歌がうまなっただけや」
「あー、参考程度に聞くんだけど。どんなソレの血が混じってるんだ?」
「師匠が知っとるかしらんけど、セイレーンっちゅーソレらしいわ。なんや、えらい歌が上手いねんて」
「……つまり、人間とソレのハーフって事?」
「ちょっとちゃうかな。うちのオトンもオカンも人間やし。あー、でもあかんで、なんでうちにソレの血が混じってるかは企業秘密って奴やからなっ」
作り話にしては良く出来ている。面白い。真偽のほどはともかくとして興味が湧く話ではあった。
――ソレの血が、混ざっている。
一一。歌代チアキ。
自分と同じ境遇のチアキ。
一は考える。彼女が自分についての情報を持っているとは考えにくい。十中八九、自分にソレの血が混ざっているのを知らないのに、どうして彼女がそんな事を言えるのか。
「あー、師匠信じてへんやろー」
「……いや、前情報を知ってたとはいえ、結構効いてるよ」
一の発言にチアキはきょとんとしている。当然ながら、意味が分かっていないのだろう。
「とにかくホンマやねんからな。うちにはセイレーンの血が流れとんねん」
「まあ、今は話半分で聞いとくよ」
何にせよ、真偽を見極める為の情報が足りない。出会ったばかりだと言うのに人懐っこい彼女。油断は出来ない。正体が分からない。裏があるかもしれない。チアキを信じるか信じないか。結論を出すには早いだろうと一は勝手に結論付けた。
「ホンマやってー」
「分かった分かった。……でも、なんで見ず知らずの俺にそんな事言ったんだ?」
「……見ず知らずちゃうやん。うちと師匠の仲やんか」
「いやいや、さっきまでは他人だったじゃん。ソレの血が混じってるなんて言っちゃったら、普通はもっと引かれると思うぞ。良く言おうと思ったな、お前」
自分には出来そうにない。一はある意味、チアキが羨ましくなる。
「……あー、やっぱ、引いちゃった?」
罰が悪そうな表情で、チアキは探るように一を上目遣いで見つめた。
「ほんの少し。距離にしたら三千メートルぐらい引いちゃった」
「少しちゃうやん!」
「おー、突っ込みだー。俺の教えが早速実を結んだな、弟子一号」
「アホ。…………うちかて、だれかれ構わずそんな事言わへんよ。師匠に教えたんは、なんか、言うても大丈夫やろって思ったから」
「大丈夫って、どういう意味だよ?」
人畜無害か、よっぽどどうでも良い奴と思われていたのか。一の語気には苛立ちが含まれていた。
「んー、なんかな、うちと師匠は似てるって思ってん」
正直言って、吐きそうになる。
「ど、こが?」
「なんとなく。ぱっと見た感じでな」
「……全然、似てないじゃん。性別だって、年齢だって、背丈だってさ」
「そーゆーんじゃなくて、こう、なんか、雰囲気っちゅーのかな?」
チアキは嬉しそうに語る。年相応、女の子らしい屈託のない笑顔を向けられて一は困惑した。どうして、自分が異端だと曝して笑っていられるのか。
「……俺、そろそろ行かなきゃならないから」
これ以上は無理だ。悟り、一はベンチから立ち上がる。
「えー? なんや師匠忙しいんか?」
「バイトだよ」
「さよか。ほんならまた今度な。あ、うち、明日も今日みたく嫌がらせにここ来るから」
「ほどほどにしとけよ」
一は手を振り、チアキに背中を向けた。
「師匠、またなー」
楽しそうな声を背に受け、一は広場を後にする。
――分からない。
自分には笑えない。ソレの血が混じっていて、あまつさえその事を他人に話していて笑顔でいるなど、無理だ。足元が不安になる。自分が今どこに立っているのか、この世界で息を吸えているのか、生きていても良いのか分からなくなる。ソレとは、人間の敵じゃないのか? 忌避すべき、唾棄すべき、破棄すべき、ぞんざいに死に、殺されるべき存在ではないのか?
いつか、一は歌う犬に問い掛けられた。
『ソレとどう接するのか』
人間同士でも争い事は起きる。そんな世界で、ソレと仲良くするのは間違っているのか、と。人間とソレとを敵味方で区切るのは正しいのか、と。
分からない。分からない。覚悟も決意もした筈なのに。自分でこうなる事を選んだのに。分からない。
答えはまだ、出せそうにもない。