よろこべやたたえよや
「歌ぁ?」
「ええ。糸原さんって好きな歌手とか、好きなジャンルの歌、ありますか?」
「……今更聞く事なの?」
オンリーワン北駒台店、バックルーム。シフトの交代の時に、一はふと思い立ったので糸原に尋ねてみたのだ。思い立ったが吉日だし、大した意味もない。
「あんたこそ、好きな歌手って誰なのよ?」
糸原はオンリーワンの制服を脱ぎ、ロッカーからいつも彼女が着ている、黒いスーツをハンガーから引っ張り出してくる。制服をハンガーに掛け、ロッカーの扉を足で乱暴に閉めた。
「おい、ウチの物は大事に扱えよ」
その音に顔を顰め、店長は糸原に苦言を呈す。
「はーい。ごめんなさーい。で? あんたの好きなのって誰なのよ?」
一は制服に着替えながら、
「いませんよ」
あっさりと答えた。
「はあ? だったら私に聞くんじゃないわよ」
「いないから聞いてるんじゃないですか。お勧めの曲とか、ありません?」
糸原は不審げに一を眺め回し、彼の真意を探ろうとする。
「や、他意はありませんよ」
「……ふうん? ま、アレね、私はアニソンが好きよ」
「アニ、ソン?」
「そ。アニソン。アニメのオープニングとかエンディングの歌よ。あ、今あんた馬鹿にしたでしょ。笑ったでしょ」
ずいと詰め寄る糸原から距離を取りながら、一は作り笑顔を浮かべた。
「馬鹿にしてないし笑ってませんよ」
「心ん中で笑ったでしょうが。私にはお見通しよ」
「してませんって。俺だって糸原さんと一緒に夜中のアニメ見てる時あるじゃないですか」
夜中の二時三時に文字通り叩き起こされて、無理矢理の場合が殆どだったが。
「でも、あんたはまだアニメの何たるかを分かってないわ。見てるとは言っても、ただ映像を見てるだけなのよ。全然駄目、駄目駄目、死んだ方がマシのレベル」
「……見てるだけで充分じゃないですか。それ以外に何をしろって言うんです」
「馬鹿っ!」
平手で思い切り頬を張られた。一は患部を摩り、涙目で糸原を見上げる。
「謝りなさいっ、アニメの神様に謝りなさい!」
そんな神様、存在していたとしてもくたばっちまえ。
「もう良いです。じゃあ俺は一生アニメ見ませんから。少なくとも糸原さんとは見ないです。だからこれからは夜中起こさないで下さいよ」
「もーう、冗談じゃない。ぎゃはは、そんなに怒らないでよー」
「冗談で殴られちゃ堪ったもんじゃないですよ」
「だったら本気で殴れば良いのね?」
糸原は肩を回し、楽しそうに笑う。
風圧が一の顔を撫でた。
「ちょ、ちょっと、冗談でも本気でも殴るのは、殴るのは……」
「お姉ちゃんに寂しい目を見ろって言っちゃう奴はこうだー、ていっ」
糸原は可愛らしく語尾を延ばし、媚びた声で拳を振り下ろす。
「うげふっ」
一の頭がへっこんだ。
鼻歌交じりで出て行った糸原と入れ替わる様に、今度はジェーンがバックルームにやってきた。
「お兄ちゃん、早くフロア行かないとナナが怒っちゃうヨー?」
「……うん、分かった」
「? お兄ちゃん頭悪いノ? あ、ちがう。痛いの?」
「お約束をありがとう」
その間違いだけはしないと思っていたのに。一は期待を裏切られ少し凹む。そんでもって、凹んでいると思われた頭はどうやら無事らしかった。
「そうだ、ジェーン。お前って好きな音楽あるか?」
「Of course、アタシはジャズが好きカナ」
「あー、俺もそれは好きかもしんない。サックスとか格好良いよな」
「サクソフォーンがあるからってジャズとは限らないんだけどネ。ふふ、でも良かった」
ジェーンは意味深に微笑む。
「何笑ってんだよ」
「ン、お兄ちゃんと同じものを好きになれて良かった、って。ネ、こういうのって、レッドストリングを感じるよね?」
「……ああ、赤い糸ね。じゃあお前納豆食えるか?」
「ボスー、明日の納品のコトなんだけどー」
「おい」
フロアに入った一の目に奇妙な服装の女性が留まった。留まったあと、いつもの事だと割り切った。
「遅れてごめん」
「いえ、構いません。今しがた作業は完了したばかりですから」
そう言って、一の方に振り向いた女性はメイド服を着用している。黒のワンピースと白いエプロンドレス。白いカチューシャを頭に乗せた、黒髪のショートヘア。肌の露出は殆どなく、余計な装飾品も付けていない。唯一のアクセサリーと言えば、フルリムの眼鏡だけ。
彼女はオンリーワン北駒台店の勤務外店員、ナナ。オンリーワンの制服は特に着用せずとも構わないと店長が言ったので、ナナはメイド服を選んでいるのであった。
「あ、洗い物任せちゃったね、ごめん」
「ですから、構わないと言いました」
「……うん、でもさ、ナナって、その、水は平気なの?」
一がさっきから気にしているのは遅刻した事でも、ナナに仕事を任せた事でも、ましてやメイド服に関してでもない。仕事の内容についてだ。
信じられないくらいに馬鹿らしい話ではあったが、ナナは人間ではない。人間より人間らしいをコンセプトに創られた自動人形と呼ばれる一種のロボット、アンドロイド、マシン、である。
「私は水陸両用に設計されておりますので、耐水性も基準を大幅にクリアしています。一さんの心配は不要かと」
「あ、そうなんだ」
だが、その心配も今消える。
「それより一さん、肉まんの陳列の仕方を教えて頂けませんか?」
「あ、ああ、分かった」
一は考え事を中断して、肉まんの什器に目を向けた。都合の良い事に商品の大半が売り切れている。
「それじゃあ、バックルームから肉まんとあんまんだけを多めに持ってきてくれる? あとは、ナナの裁量で良いから」
「かしこまりました。少々お待ちください」
ナナは綺麗な角度でお辞儀を決め、無駄な動きを極力削った様な歩き方で、それでいて実に優雅な仕草でバックルームに姿を消した。その姿を見届け、一は安堵の溜め息を吐く。
一は何となく、ナナの事が苦手だった。他人行儀な敬語が苦手な訳でも、人間ではないからだ、なんて陳腐な理由でもない。
恐らくは、見透かされている。
一に流れる狼の血。ソレの証。人間ではない理由を、ナナは知っているのだ。彼女は決してその事を表には出さないが、いつ何時自分に襲い掛かってくるか分からない。彼女には好意も、嫌悪も、何も抱かれていない。だからこそ、殺される。もし自分がソレに成り代わる事があるなら、自分を殺すのは恐らくメイド服の格好をしたアレなのだと、どこかでハッキリと分かっていた。
誰かの命令一つで、ナナは一を殺す。簡単に、呆気なく殺すだろう。
「……ビビってんじゃねえよ」
自分にしか聞こえない小声で自分を叱咤する。そうだ、そうなったらその時だ。その時はジェーンと二人でどこか遠いところにでも行こう。……糸原になら、言っても大丈夫だろうか。後ろ暗い後ろめたい事を考えていると、
「お待たせしました。こんなものでいかがでしょうか?」
肉まんの袋を両手一杯に抱えているナナに声を掛けられた。
「……っ。う、うん。良いと思うよ」
一はなるべく平静を装い、什器の蓋を開ける。
「ウチはこういうの、夕方からの方が売れるから、多めに仕込んでおいても問題ないよ。バックルームに残しておいたら三森さんに食べられちゃうしね」
「了解です。他の物はどれくらい仕込めばよろしいですか?」
「うーん、悪いけど完全に経験頼みだね。一週間分の売り上げデータ見て、予測立てるのも良いかもしれないけど。あー、あとは天気は確認しておいた方が良いよ。雨の日だとお客さん少しは減るから、肉まんだけじゃなくて、そうだな、他の物も少なめで大丈夫」
什器に、新しく袋を開けた肉まんを入れながら、一は口を開いた。湯気が入り、むせそうになるのは我慢する。
「……一さん」
「んー?」
「一さんはやはり、一般のお仕事の方が向いていると思います」
「俺もそう思うよ」
「でしたら、今すぐにでも勤務外を辞めるのを強くお奨めします。何もオンリーワンを辞めろとは言いません。一さんの一般業務の技量は非常に高いと、大事な戦力だと、私はそう思っていますから」
ナナの声音には何も含まれていない。ただ、喋るだけだ。口を開けて音を発するのみ。そこには感情なんて存在する余地はない。
「俺もそう思ってる。だけど、今は辞めない」
「でしたら、いつになるのですか? 私はまだ『館』のお話を詳しくは聞いておりません。ですが、一さんはそこでもマナナンガルの時の様な立ち回りをしたのではないですか?」
「もう忘れちゃったよ」
「……いつか、死んでしまいますよ」
「そりゃ人間だもの、いつかは死ぬよ」
一は新しい袋を開け、カレーまんをトングで掴んだ。
「もしかして、冗談を言っているおつもりですか? だとすれば、一さんは性格が悪いという事になりますね」
「茶化したつもりはないけど、気に障ったなら謝るよ。ごめん。でもさ、俺は今すぐに勤務外を辞めるつもりはないよ」
「でしたら、考え方だけでも改めて頂けませんか?」
「考え方って、俺の?」
ナナはゆっくりと頷く。惚れ惚れする様な、機械の様に正確なお辞儀の角度だった。
「俺の、何に対する考え方を変えろって?」
「全てです。もう一度、良くお考え下さい。特に一さん、あなた自身の価値について」
「……善処するよ」
特に言い返そうとも思わない。
「ええ。是非、善処して下さい」
「……なあ、ナナ」
「なんでしょう」
「俺の勘違いだったらごめん、あのさ、もしかして、俺の事心配してくれてんのかな、それって」
何となく、一の口をついて出た言葉にナナはしばらくの間沈黙を守った。作業の手すら止まっている。どうやら、本当に考えていてくれているらしい。それも大分長い間。
「…………」
やっぱり勘違いだったのかな。超恥ずかしい。さっき要らない事を言った自分を殺せたらどんなに楽か! 両手で顔を覆い隠して、店から出て行こうかしら、なんて考えていると、
「心配はしていません」
ナナからバッサリと背中から斬られるイメージ。
「だよね、やっぱ」
「そもそも、私には配る心がありません。心のない人形には人の心配なんて出来ないですから」
「そんな、自分を卑下しなくても良いのに」
「していません。純然たる、純粋な事実ですから。私は人形で、一さんたちは人間。そうじゃありませんか」
「まあ、そうなんだけど」
尚も納得しない様子の一を見て、ナナは呆れた風に息を吐く。
「……一さんが今のままですと、私がやり辛いのは確かです。マナナンガルの時、少し困りましたから。そう考えると成る程、本当ならあなたに死んでもらうのが一番なんでしょうけれど。何故でしょう、私の頭の中に、そうは思えない、死んで欲しくない。そういう気持ちもあるのかもしれません」
「えーと、つまり?」
「申し訳ございません、今の私には分かりかねます。……もしかしたら、今の様な状態を、心配していると形容するのかもしれないですね」
良く分からなかったが、いつも歯切れの良いナナが言葉を慎重に選んでいる印象を受ける。一は曖昧にしたままとりあえず笑っておいた。
「話すごく変わっちゃうけどさ、ナナは音楽って好き?」
「……音楽ですか。生憎、そういった娯楽機能は搭載されていないのです。……ああ、でも」
ナナは何か思い付いたらしく、頭の上のカチューシャを指差す。
「一さん、ここを押し込んでみて下さい」
不思議に思いながら、一は言われたとおりカチューシャに手を伸ばした。ナナの柔らかな髪の毛が触れてしまい、少しドキッとする。
「このまま押せば良いの?」
「はい。何分初めて使うので、誤作動が起こらないよう優しくお願いします」
「よ、よし。ポチっとな」
死ぬまでに一度は言ってみたい言葉ベストテン(駒台在住一一調べ)。
「あっ……」
ナナが艶めかしい息を吐いた瞬間、耳障りな音がカチューシャから発射され、店中に響き渡った。一は耳を手で覆い、騒音から身を守る。
「なっ、なんだこれ!?」
「防犯ブザーです」
「馬鹿じゃねえの!」
涼しい顔で答えるナナ。一は彼女を創ったオンリーワン技術部の感性と神経と人間性を疑ってしまいそうになった。
「少なくとも、私は一さんより知識量が多いと自負しておりますが」
「この音はいつ鳴り止むんだよ!?」
「初めてなので、私にも分かりません」
目の前のメイドに、コンセントが付いていたら迷わず抜きさっているところであった。
音は五分近く一の鼓膜を揺らし続け、ようやく止まった。店内に客がいなかったのが、せめてもの救い、だったのかもしれない。
「別に俺はナナをラジカセ代わりにしようとは思ってないから」
「タイマー機能が付いていれば目覚ましにはなれたんでしょうけどね」
「あはは、くだらねえ」
まだ耳の奥でさっきの音が反響している。
「……一さん。一さんには好きな音楽というのがあるんですか?」
「んー、ないよ。でも今日良い歌を聞いてさ、好きになれそうだった」
「どんな歌ですか?」
「えーっと、何だろ。聞いた事のない歌だったからなあ。とりあえず、英語だったよ」
思い出そうとするが、ブザー音が邪魔して要領を得なかった。
「……羨ましい、かもしれません」
「へっ?」
「好きなものがある。何かを好きになる事が私には良く分かりませんから、一さんや、人間が羨ましいです。いえ、嫉ましい、のでしょうか……」
「分からない?」
モノを嫌いになったり好きになるのは、難しい事なのだろうか。一にはそれが分からない。
「私は多分、そういう風には作られていないと思うんです」
「……人間らしく、だろ。だったら、好きになるのも嫌いになるのも出来るに決まってるよ」
「私の目はソレを見つける為に。手はソレを殴る為に。足はソレを蹴る為に。耳はソレを捉える為に。私は、私はソレを殺す為に生まれたんです」
「あー、いや、そんな事ないだろ」
ナナは首を振る。
「勘違いも、同情もしないで下さい。私は悲しくはないんです。だって、分からないですからそんなの。一さん、私にはあなたの言うような心がないですから」
「……心がなけりゃ、羨ましいとも思わないよ」
「……分かった風な事を言うんですね」
「そりゃそうだろ。俺の方が年上なんだから。確か、ナナはまだ一年も動いてないんだろ」
一は耳の穴に指を突っ込みながら、什器の水を入れ替える。
「だったらまだ、自分の感情とか、そんなの分からないに決まってるじゃん。赤ちゃんと同じレベルだよ。いや、それ以下か。泣く事も知らないんだから」
「……馬鹿にしないで下さい。泣く事ぐらい知ってます」
「知識の上ではだろ。でも、気にする必要はないと思うけどね」
「あの……」
「ん?」
「何だか、変な気分です」
ナナは胸に手を当て、一を見つめる。
「良く分からないものが、私の中に蓄まっていくみたいです……」
「……?」
「今の私の気持ち、の様なものを正しく説明出来ませんが、そう、これは……」
訝しげにする一に近付いていき、ナナは彼の手をそっと握った。
「え、な、何、何だよ?」
「私、多分、あなたが……」
グッと。
「いてえ――――!」
骨の軋む音が響く。
余談、もしくは後日談だが、ナナが最初に覚えた感情らしきものは『怒り』だったらしい。
バイト終了。一は手の甲を擦りながら自室のドアを足でノックした。
「はーい」
部屋の中から糸原の間延びした声が聞こえてくる。扉が開かれ、
「ウチは新聞取らない主義なの」
閉まった。
一は無言で扉を開け、玄関に上がって鍵を締める。
「糸原さんごはんどうしますか?」
「作って」
こたつに入ってゲームをしている糸原に尋ねながら、一はコートをハンガーに掛けた。
「……そろそろ料理の一つも覚えて下さいよ。働かざる者食うべからずって知ってます?」
「だったら赤ん坊は食事にありつけないわね」
「赤ちゃんは泣くのが仕事でしょう」
「女は生きてるだけでも偉いのよ。私らがいないと人類なんてとっくに滅亡してるんだかんね。ほら、私は空腹である。肉を所望するぞ給仕係」
「誰が給仕か」
言いながら、一は冷蔵庫の中身を確認。
「……冷やご飯があるから、炒飯で良いですよね」
「うええ? もっと手の込んだのが食べたいよう。具体的に言うなら牛肉」
「指でもしゃぶっといてください」
棚から玉ねぎを取出し皮を剥く。冷蔵庫から出しておいたベーコンと一緒に食べやすい大きさへと切り刻んでいく。
「お腹空いたー」
「うるさいなあ」
「あむ」
「ぎゃあああっ!」
足の指を銜えられた。一は驚いて包丁を振り回す。
「おわあっ、刃物危ないっ」
糸原は口から一の指を離して飛び退き、抗議の視線を向けた。
「なーにすんのよ」
「指をしゃぶんなボケェ!」
「あんたが言ったんじゃない」
「……自分の指ですよ、人のを銜えちゃいけません。しかも足だなんて、もう……」
誰がこれを育てたのか。親の顔を見て小一時間説教かまして笑いながらパンチの雨を浴びせてやりたい。
「意外と臭くなかった」
「自由人め」
「おい世話係」
「なんですかお嬢さま」
まな板の上で具材を刻む一定のリズム。その音に耳を傾けながら一はぼんやりとあの歌を思い出す。
「ご飯食べたらお風呂行きたい」
「はいはい、分かってますよ。用意しといて下さいね」
フライパンを熱しながら、一はおぼろげなメロディを口ずさむ。
「何よ、ご機嫌じゃん。何の歌、それ?」
「タイトルは知らないんですけど、やけに耳に残ってて。今日、公園で誰かが歌ってたんですよ」
「……ふーん。公園って中央の? へー」
「なんですか?」
「一人で行ってたの?」
責める様に糸原が言うので、一は少し迷ってから「そうです」と答えた。
「…………ふーん」
沈黙が長い。玉ねぎを炒めながら、糸原を盗み見る。彼女は何故だか頬を膨れさせ、拗ねている様にも見えた。
「空気、美味いですか?」
「ああ?」
一は無言で頬っぺたを指差す。舌打ちが聞こえてきたが、油の跳ねる音がそれを掻き消した。
「ねえ、一。どっか行きたい」
「あとで銭湯に行くでしょう」
背中に何かが当たる。視線を落とすと床にスプーンが転がっていた。拾い上げ、糸原に手渡す。
「……どこに行きたいってんですか」
「んー、何かこう、っぽいところに行きたいな。映画館とか水族館とか旅館とかさー」
「公民館ぐらいならご希望に沿えそうですね。卓球でもします?」
次はまな板にフォークが刺さった。もう慣れた。それを横目で見ながら、一は皿に炒飯を盛り付けていく。
「あんたってさー、鈍いのか馬鹿なのか良く分かんなくなるわホント」
「ひでえ言われ様だ」
一は苦笑し、こたつの卓の上に皿を並べていく。糸原は彼から皿を奪い取るみたいに引っ掴んで、持っていたスプーンで炒飯をかき込んだ。
「……分かんないかなー、私はさ、デートのお誘いをしてやってんのよ?」
「デート、ですか」
「何よその微妙な表情。私みたいなウルトラスーパーデラックスな美人とデート出来んのよ? もっと分かりやすく喜びなさい。もっと全身使って喜びを表現しなさいよ」
「裏がありそうで、素直に喜べないってのが……」
百歩譲って財布代わりになるのは良しとしよう。どうせ逆らえないし。だが、それ以上の事を強いられそうで一は心から嫌だった。
「裏なんてないわよ。失礼な奴ね」
「遊園地に連れてかれて、俺一人でコーヒーカップとかメリーゴーランドとか観覧車に乗せられそうで。しかもその間ずっと糸原さんはにやにやしてそうなイメージが」
「…………………………………………しないわよ」
分かりやすい間だった。
「でも、嬉しくないって言ったら嘘くさく聞こえますね。糸原さん、黙ってたら美人さんだし」
「ははーん、私をブランド物感覚で見てるわけ? 良い度胸じゃない」
「優越感みたいなのは期待してるかも」
「安心して勘違いしときなさい。私が特上でもあんた自身は並だから。良くいるじゃん、街歩いてても片方が美人でもう片方がクソ不細工な組み合わせのカップルとか。アレは神様がちゃんとバランス考えてくれてると思うのよね。百点と百点が付き合ってても面白くないし、どうせ長続きしないのよ。つまり、美人の私と普通以下のあんたの相性は世界的レベルで保障されてるの」
「つまり、糸原さんは顔が良くても性格が悪いって事ですか?」
一は冷蔵庫から、二リットルの烏龍茶の入ったペットボトルを持ってくる。糸原はそれを奪い取って、コップに移さず豪快にラッパ飲み。
「ぷはー……、まあ、あんたは性格も悪いけどね」
「行儀の悪い人よりマシでしょう」
「顔が良い女は何やっても許されんのよ、はっはー、悔しかったら美形に生まれ変わってみなさい」
無視して炒飯を片付ける。一は流しに皿を置き銭湯に行く準備を始めた。
「ちょっとー、私まだ食べてないんだけどー?」
「先に出てます」
「ぎゃー、拗ねてやんのー!」
糸原の嘲笑を背に受けながら扉を開ける。冬の夜風が心地良い。見上げれば、真ん丸。アパートの二階から眺める月は、何となく手を伸ばせば、何となく掴めそうだった。
静かで、気持ち良い。
夕方に鼓膜を直撃し、それからずっと耳の奥に残っていた防犯ブザーの音が静寂の中に溶け込み、消えていく様に感じられる。耳鳴りが薄れていくにつれ、昼間聞いたあの歌が鮮明に、一へと返ってきた。今まで聞いた事のなかった歌。声。素晴らしい。
もう一度、もっと聞きたい。
「ありゃ、また歌ってんの?」
「え?」
扉が開き、現れた糸原が小首を一の方に傾げる。
「歌って、ました?」
「うん」
どうやら、無意識の内に鼻歌を歌っていたらしかった。意味もないのに口元に手を当て、照れ臭いのを誤魔化す。
「よっぽど気に入ってんのね。ふーん、私も興味あるかも」
「だったら明日、聞きに行きます?」
「公園まで?」
「公園まで」
「何時から?」
「昼からです」
「……やっぱ良いわ。明日は駅前のパチンコ屋の新装開店だし」
糸原は鍵を閉めながら、そう、嘯いた。
歌とは良いものだ。
歌は歌い手の心を届けてくれる。
楽しければ楽しい気持ちを。悲しければ悲しい気持ちを。やるせなければやるせない気持ちを。
声に乗せて、響かせて、運んでくれる。
心。心を。
では、良い歌の条件とは何なのだろうか。
気持ちを込め、心を届ける事だろうか。
では、気持ちを込めずに心を届けなければ良い歌と呼べないのだろうか。
……心のないモノがうたっても、歌に成り得るのだろうか。