もろびとこぞりて
歌。唄。詩。謡。詠。唱。うた。
心を届かせる為に人はうたう。
誰かに聞いて欲しい。響かせたい。自身を他者に分かって欲しい。
だから、うたう。人はうたう。
駒台の街、その中央に位置する自然公園。平日には森林浴を楽しむ人々で、休日には家族連れで賑わう、駒台住民にとっては人気のある場所だ。
だが、陽が落ちれば公園からは人気が消える。完全に、完膚なきまでにだ。理由は定かではないが、陽が落ちるとここは危険になると、多くの人がそう話す。危険の正体こそ誰も正確に説明できないのだが、それでもここには何かがある。何かが、いる。漠然とした不安。曖昧とした恐怖。それらを内心に薄々と感じながらも、人々は公園を訪れ続ける。恐いもの見たさにギリギリを行ったり来たりし続けているのかもしれない。
日常に刺激と癒しを求め、非日常には卑しい安全を欲して。人々は、駒台の街を今日も生きていた。
母親と子。ベビーカーを押す主婦。ゆっくりと、景色を楽しみながら歩く老人。若いカップル。子供たちが鬼ごっこに興じて走っている。
「平和だねえ……」
駒台中央に位置する自然公園、散歩道に備え付けられたベンチに座り、行き交う人たちを眺める男が一人。その男はオンリーワン北駒台店の勤務外店員、一一であった。
一はつい先ほど自販機で購入したホットの缶コーヒーを両手で挟み、暖を取っている。彼と、公園内を歩く人たちが時折吐く息は白く、冬の清冷さを物語っているようだった。陽は高く、天気こそ晴れてはいるがさすがに寒い。吹く風は剥き出しになっている部分の素肌に突き刺さり、体温をじわりと奪っていく。
「……ふあ……」
だが、心地よい。一は公園内に堆積している穏やかな空気に後押しされ、あくびを一つ漏らした。彼が平日の真昼から、さして大した目的を持たないままこうしてのんびりとしていられるのは、彼が通っている大学の、午後からの講義が休講となったからだ。バイトは夕方からで時間が余っていたので、癒しめいた雰囲気を求めて公園までやってきた。
だが、どうにも居心地が悪い。確かにのどかで和やかで、先日の魔女の事を忘れてしまうほどに素晴らしい環境なのだが、行き交う人たち――特に親子や家族連れ――を見掛ける度に一の心は緩やかに沈殿していく。
一時間はベンチに座っていただろうか、少しばかり冷えてきた事もあって、一は家に帰ろうと重くなっている腰を上げた。
その時、立ち上がった一の両目が珍しいものを捉える。異質。彼は一般人に紛れ込む何かを自分だけが見つけてしまったような、言い難く気まずい気持ちに陥った。『それ』は少しずつ近付いてくる。杖を突いて歩く男性の後ろをおぼつかない足取りで歩く人物。遠めからでも辛うじて確認出来る赤み掛かった茶色い髪。端正な顔立ち。一の視線は『彼女』に釘付けになっていた。
一は逡巡し、ベンチに腰を下ろしてお目当ての女性が来るのを待つ事にする。コートのポケットから飴玉を掴んで包み紙を開いた。
風が吹き、一の体を撫でていく。包み紙が飛ばされないようしっかりと握り締めて近くのごみ箱に捨てた。ベンチに戻る途中、もう一度風が吹く。
「ん……」
口内に含んだレモン味のキャンディ。その香りを吹き飛ばすくらいの強い薔薇の香が一の鼻をくすぐった。杖を突いた老人が彼の傍を通り過ぎ、その後ろの女性がふらふらとしたままベンチに体を預ける。瞼は開き切っておらず、非常に眠そうだった。と言うか寝ている。
「……風邪引きますよ」
「…………ん」
女性はあろう事かパジャマを着ていた。涼しげな水色のパジャマだけを着て、ここまでやってきたのだ。寒くないのだろうか。恥ずかしくないのだろうか。何を話そうか一は悩んで、
「久しぶりですね、ヒルデさん」
そう、話し掛けた。
一がオンリーワン北駒台店の勤務外として働いているのに対し、ヒルデは近々オープンするオンリーワン南駒台店の勤務外店員であった。
北と南。
一とヒルデは南北に分かれていても共に駒台の街を守護する勤務外であり、友、もしくは戦友と呼べる存在である(ヒルデがどう思っているか知らないが、少なくとも一にとっては)。が、それはあくまで一ら個人としての結び付きであり北と南の店自体の関係としては非常に険悪であった。同チェーンの店とはいえ、街の客を奪い合うのだから仲が悪いのは当然とも言えるし、何よりオンリーワンの特殊性に問題がある。
即ち、勤務外サービス。
特殊極まりない存在のソレに対抗する為に特殊極まりない存在の勤務外を擁する店なのだ。特殊、特異、特化、異常、非常、異能、異形。素晴らしく狂っている。人間の客を取り合うならまだしも、彼らはソレを獲り合うのだ。
何故なら、オンリーワンの各店にはソレを倒した分褒賞が手に入るからである。
倒せば倒すほど、目に見えて分かりやすい金と、その後から見えない名誉が付いてくるのだ。自身の活躍が他者の目に留まり地位が向上する可能性は、オンリーワンでは決して低くない。雇われの身から雇う側に出世できる。実力主義と言えば聞こえは良いが、その為の手段は命を賭けて殺し合いを望み、命を懸けて殺し合いに臨む荒々しい力頼み。まるで群雄割拠の戦国時代だ。到底現代の世で採用される手法ではない。
しかし、オンリーワンでは罷り通ってしまう。各社員も雇われの各店長もアルバイトだって関係なく容赦もなく上を見れ、上に行けるシステム。
だからこそ、オンリーワンでは同地区に二店舗以上出店する事を控えていた。いや、恐れていた。単独でさえ恐ろしい、狂った力を持つ勤務外を纏めて配置すれば何が起こるか分からない。仲間割れ。共謀してのクーデター。馬鹿らしい話だが、ありえない事にしてはならない。勤務外になら馬鹿げた事だって可能なのだ。その気になれば街一つ消してもおかしくはない。いやさ街一つ消せなければ勤務外としておかしい。
世界にはバランスが必要なのだ。
しかし、駒台ではそれが起こった。同地区に店が二つ。
とある者は駒台に増加するソレへの対抗手段、戦力増強の為だと語る。尤も、裏では人間同士が己の利益と野心とを優先させるべく、何処までも白々しく何時までも黒々とした策謀と工作と策略と謀略と奸策と詭計とが渦巻いているのだ。
そんな事は露知らず。
「…………ん、キミと会うのは久しぶりだね」
ヒルデは緩々と首を傾け、一に向き直った。
「お元気でしたか?」
一の質問にヒルデは首肯で返す。彼はその答えに満足し、彼女の隣へ遠慮がちに腰を下ろした。
「あの、なんでパジャマなんですか?」
「……?」
「いや、不思議そうな顔しないで下さいよ。幾ら天気が良いとは言え、その格好じゃ寒くないですか?」
それと、恥ずかしくないんですか?
「…………寒さには、強いから」
「あー、なるほど。……ヒルデさん、熱さや痛みにも強いでしょう?」
こくりと、ヒルデは首を振った。多分、彼女は強いのではなく鈍いのだとは、一は言わないでおく。
「でも、やっぱり人目があるから……あ、ほら、さっきの人めちゃめちゃこっち見ていきましたよ」
「…………キミはパジャマ嫌い?」
「嫌いじゃないですけど、せめて何か羽織ってくるとか」
ヒルデの格好について、知人とは言えあくまで他人である自分が口出しするのはどうかとも思ったが、それよりも彼女が他の誰かの好奇の目に晒されるのは快くないと、一は思う。
「じゃあ、コートとか…………」
「ああ、良いですね」
「……ちょうだい?」
「ダメです。情けない話ですけど、俺貧乏なんで」
ヒルデがコートの裾を掴んでくるので、一はやんわりとその手を解いた。
「…………お金、ないの?」
「コンビニのバイトなんて儲かりませんよ。時給も安いし」
「そうなの?」
「……ヒルデさんもコンビニのバイトじゃないですか」
「…………時給、二千円って安いの?」
「はああっ!?」
ヒルデの肩がびくりと震え、硬直していく。
「…………え、え?」
「あ、あああすいません大声出して怒ってないですから」
「ほんと……?」
一は何度も頷いた。
「びっくりしただけです。……あの、時給二千ってマジですか?」
「ん」
「……同じ店なのに」
ちなみに、一般と勤務外を兼任している一の時給はつい最近四桁に達したばかりである。
「キミは、専任じゃないから」
「? え、勤務外だけの方が時給良いんですか?」
「…………ん、分からない。でも私、一応リーダーだから」
「あー」
ヒルデ。ぼけっとした彼女からは想像がつかないかもしれないが、これでも南駒台店の勤務外、戦乙女のリーダーである。一も何度か彼女たちの戦闘を見たが、とてもとても、及ぶ相手ではないと認識していた。
「バイトのリーダーだから時給高いんですかね。良いなあ」
「…………キミはリーダーじゃないの?」
「人の上に立つ気もないですし、そんな器もありませんよ」
上に立てば、責任も増える。平か下っ端の方がまだ気が楽だった。
「……南って、勤務外が何人ぐらいいるんですか?」
「ん、秘密にしろって言われてるんだけど……」
「そりゃそうですね」
「…………キミになら、良いよ」
そう言ってヒルデは薄く微笑む。
「へ? でも……」
「……まず、私たち戦乙女が四人とー」
一の困惑をよそに、ヒルデは指を折って数え始めた。
「野獣が三人、狂戦士が三人、あとはー支部から応援が何人か来るよ」
「……そんなにも。あ、ウールヴヘジンとか、バーサーカーってのは?」
「…………ん。チームの名前、なのかな」
ヒルデは小首を傾げた。
「ふーん、何だかプロって感じがするなあ」
同じオンリーワンの筈なのに、違いがこうも如実に現れるとは。一は少しだけ不安になる。
「……キミは北が嫌なの?」
俯いていた一を、ヒルデが下から覗き込んだ。
「え、と、そーいうわけじゃ」
薔薇の香気が一の鼻孔に直接流れる。彼は驚き、ヒルデから距離を離した。
「あー、でも、人使い荒いし給料も良くないしいじめられたり、いじられるしなあ……」
改めて考えると、やっぱり嫌かもしれない。
「………………こっちに、来る?」
しばらくの間、一はヒルデが何を言ったのか分からなかった。
「え……?」
こっちに、来る。
つまり北から南に移る、と言う事だ。言うなれば引き抜き。
「えーと、冗談ですよね?」
一の意に反して、ヒルデはふるふると首を振る。
「……んーん、本当。今ね、南で北の子たちを引っ張って来るって話が出てるの」
青天の霹靂。寝耳に水。
「なんで、だって南には勤務外がたくさん……」
「…………まだ、欲しいんだって。私はそういうの好きじゃないけど」
「その話、俺以外のみんなには」
「誰にも、言ってないよ。キミにだけ……」
一は少し安心する。
「…………ダメ、かな?」
「魅力的なお話だとは思いますけど、その、俺なんて勤務外と言っても弱いですよ。下っ端も良いところですし、良いところもないですから。それにほら、他の戦乙女の人たちも俺の事好きじゃないでしょう」
主に、糸原のせいで。
「…………シルトたちなら心配ないよ。この話には賛成してくれたから」
「え、そうなんですか?」
「あの子たち、キミを嫌いじゃないよ……」
ヒルデは優しく笑う。
「……うーん? 意外だ」
「それにね、キミは弱くないよ」
ジッと見つめられてしまい、一は気恥ずかしくなって目を逸らした。
「買い被りですよ」
「…………ふふ」
「……でも、北を首になっちゃったら助けてもらおうかな」
「ん、いつでも良いよ」
――ボトッ。
「ちみっ子、おにぎり落としたわよ」
「……お」
「お?」
「お兄ちゃんにデビルハンドが迫っている気がスル」
オンリーワン北駒台店フロア。
「デビルハンドってなにー?」
ツインテールと小さな体と拳を震わせるジェーンを尻目に、糸原は常からすれば黙々とおにぎりを並べていた。
「お兄ちゃんが危ナイ……」
「仕事しなさいよー、私がその分動かなきゃいけないじゃないの」
糸原は包装された商品用の明太子の入ったおにぎりを勝手に開け、口に銜えながら作業を続ける。
「……また、ニューフェイスが……いや、コレは、アタシよりもオールドの……?」
ジェーンは糸原が商品を駄目にした事を咎めずに、そもそもその存在を無視している様子でもあった。俯き、深刻な表情を浮かべて何事かをぶつぶつと呟き続ける。
「…………」
糸原も同様に、ジェーンの存在を無視して作業に没頭していた。これが終われば、今日は終わり。夕方勤務の一を家で待っている間、北から巻き上げた新しいゲームを遊んで、一が帰ってきたらご飯を作ってもらって、ダラダラして。あはは。
楽しい妄想だった。
彼女らの事などいざ知らず。
一とヒルデはゆっくりとした会話のペースを維持し続けている。
「そう言えば、どうして公園に?」
ヒルデの住んでいる駒台山の洋館からここまでは、いささか遠くはないだろうか。彼女が車を運転したり、何か乗り物にでも乗ってやって来たとは一は考えられなかった。失礼な話ながら。
「…………ん、歌をね、聞きに来たの」
「歌、ですか?」
ヒルデは幾分か楽しそうに頷いた。
「ここの公園で、ですか?」
一は意味も無く周囲を見回してみる。歌。ストリートミュージシャンでもいるのだろうか。
「ん、探してもダメだと思う……」
「あ、もう帰っちゃいました?」
「んーん、もうすぐ……」
「詳しいんですね、ヒルデさん」
「…………ん、私、常連さんだからね」
ヒルデは誇らしげに胸を張り、楽しげに髪を揺らせて危なっかしい足取りで立ち上がる。
「……歌、かあ」
一はこの公園内のどこかにいる歌い手を思った。正直、音楽には大して興味がない。皆無ではないが、殆どない。特定の歌手が好きなわけでも特別好きなジャンルがあるわけでもない。勿論、楽しい感じの曲を聞けば楽しくなれるし、悲しい曲なら悲しくなれる。人間なら当然の反応だろう。それでも所詮気分による、錯覚の様なものだろうと、一は思っている。
何故なら、真に悲しい時に楽しげな曲を聞いても真に楽しくはなれない。それどころか火に油かもしれない。音楽、歌を聞いて気持ちが動くのは精神状態がニュートラルだからこそである。ニュートラルだから、外部からの刺激に作用されるのだ。楽しくなろうと思うからこそ楽しい曲を聞くのだろうし、少しでも気分が沈んでいれば悲しい曲を聞いて悲しくなる。おまけに歌詞を都合良く自身に投影して浸るのだ。
――嫌だ。
自分を律してさえいれば、音ごときで心は動かない。
一は頭を掻きながら、目を細めて何かを期待している様子のヒルデを横目で眺める。
「その、歌ってどんなのですか? 日本の人が歌ってたり?」
「…………ん、歌は英語だけど、分かんない。歌ってる子を見た事がないから」
「へえ、そうなんですか?」
別段、一は歌が嫌いというわけではない。特別好きでもないから、嫌いでもないだけの話だが。つまり、どっちでも良かった。この世に、自分の周りに、歌があろうがなかろうが、大して困りはしないだろうと思っている。
「まあ、時間はあるし」
一はそう呟き、ポケットから飴玉を取り出した。包み紙を開け、いちご味のそれを口の中に放り込もうとした時、
「…………ん」
手が止まり、指が鈍って地面に飴玉を落としてしまう。間抜けにも、口は開いたままで。
「――――っ!」
だが、そんな事はどうでも良い。一は落とした飴を放り出し視線を向けないまま必死に耳を傾ける。この公園のどこかから聞こえてくる、美しい歌声を聞く為だけに。
前兆などなかった。声はいきなり響き、届き、飛び込んできたのだ。楽器による演奏も伴奏も何もない。混じり気のない、声、だけ。
「………………」
駒台公園内のどこまでも高らかに、余すところなくどこまでも響いていく。動いていたモノは人間を問わず鳥や動物でさえ、しばしの間、声が耳に入る内は止まっていた。止まらされていた。母親と子。ベビーカーを押す主婦。ゆっくりと、景色を楽しみながら歩く老人も、若いカップルも、鬼ごっこに興じていた子供たちでさえ、歩き方や走り方を忘れてしまったみたいに。まるで、歌声の届く範囲の時間が止まっているように。勿論、一も例外ではない。口を開けたままの間の抜けた格好ではあったが、誰も気に留めるモノはいなかったし、そもそも誰も彼もが一と同じ状況にある。
誰も彼も、男も女も老いも若きも、勤務外も、あるいはソレでさえも、今はただ歌を、歌声を、声だけを聞いていた。清廉で潔白な透き通った声。
それでいて、決して小さな声ではない。公園中のモノには確かにそれが聞き取れる。かといって大き過ぎる事もない。乱暴に、力任せに歌っているのではない。歌い手はただあるがまま、自分の好きなまま、自然に身を任せるままに音を楽しんでいる。同時に、公園中にだけ声を届かせているような、計算的な部分もあるのではないかと、少なくとも一にはそう思える。
「…………主よみもとに」
一の隣に座っているヒルデも美声に聞き入っていた。
彼女の呟いた言葉の意味は一には分からない。それよりも、歌い手の方が気になっている。聴覚だけで判断するならば、十中八九ストリートミュージシャンの正体は女性だろう。年齢までは把握出来ないが、年寄りではないだろうし、子供でもないと思われた。異常なまでに聞き心地の良いソプラノ。天性の天声とでも呼ぶのだろうか。皆、美声に酔いしれ、息をするのを忘れる。
姿が、見たい。一は漠然とそう思った。歌など、この世に必要ない。そう思ったのは誰だったか。そんな奴がいたらぶっ飛ばしてやろうと彼は今、今更ながらに思い直しているところである。
ベンチから立ち上がり、声のする方角に当たりをつけ、進もうとしたところで一は微妙な、本当に気を付けていなければ分からない程度の些細で、微細で、極微な違和感を覚えた。足が進まない。歩こうとしても、足が動かない。動くな、と。まるで、誰かに来るなと言われているみたいに。焦燥感。そうしている内に、声は少しだけ高く、大きくなる。盛り上がる。彼が今までに聞いた事のない歌だったが、もうそろそろ終わりなのだと、強く認識させられた。
「あ……」
世界が、動き出す。
止まっていたモノは皆、ようやく動き方を思い出したかのように歩き、動き、あるいは呼吸を開始し始めた。がくりと、一も肩を落とす。そう、歌は終わってしまったのだ。
「……ふふ、言ったでしょ?」
「何がです?」
「探してもダメ、って」
悪戯っぽく笑うヒルデを見て、一は苦笑しながらベンチに腰を下ろす。
「足が動きませんでしたよ。なんだろ、さっきの歌に呑まれてたのかな」
「…………ん。私はね、歌には力があると思うよ。人が自分の心をうたうんだから。特に、あんなすごいのには、ね」
「力、ですか」
非科学的で何の根拠もない話だが、不思議と信じられた。少なくとも、今だけは。
「ヒルデさんは、今の歌を聞きに来てたんですね」
「ん。ちょっと前からだけど」
「どんな人が歌ってるか気になりませんか?」
「………………なる」
ヒルデは少しだけ迷ってから、緩々と頷いた。
「でも」
「でも?」
「…………そういうのって、なんだろ。手品の種明かしを見ちゃうみたいで」
「……無粋、ですかね。やっぱし」
そうかも。そう言って、ヒルデは眠そうにあくびを一つ。
「…………キミは、今日はどうして?」
一は自分が何を問われたのか考えた後、
「えーと、学校が休みになっちゃって。暇潰しに来たんです。結果的にラッキーでしたけどね」
本当の事をヒルデに話した。嘘は吐いていない。
「歌、良かった?」
「んー、それもありますけどね。ヒルデさんと久しぶりに会えた方がラッキーっちゃラッキーです。一応、立場上は南北に分かれた敵同士、みたいですし」
ヒルデは一の言葉を聞き、嬉しそうに目を細め、
「………………私も、キミに会えて嬉しい」
真っ直ぐに一へと微笑んだ。
その笑顔がやけに眩しくて、可愛らしくて、一の顔に血が上る。赤くなった顔とちょっと気障な事を言ってしまった自分を誤魔化す為に、顔を伏せて話を反らした。
「そ、いえば。さっきの人、明日も来るんですか? その、時間とか」
「……………………んー」
ヒルデはそんな一の目論見には気付かず、小首を傾げて考えを巡らせている。
「今度は違う歌も聞いてみたいなー、なんて」
「…………分かんないけど、来ると思う。キミは明日も来るの?」
「確か、明日はバイト、午前で終わりでしたから。そうですね、うん、行こうかな」
学校はサボっても、もう今更だ。開き直りは人間を形成するにいたって重要なファクターだ。うん。一は自身をそう納得させた。
「残念。私はあさって、かな」
「あー、明日はバイトですか?」
こくり。ヒルデは残念そうに頷き、そのまま俯く。
「それじゃあ、あさっては俺も付き合いますよ。またその時に会いましょう」
長居し過ぎたかもしれない。一は立ち上がり、公園内に時計を探してみた。彼は時計や携帯電話を持たないので時間の経過が分からないのだ。
「…………帰るの?」
「う。あ、えーと。はい、そうです。そろそろバイトの時間なんで」
捨てられた子犬の様な、濡れた瞳を向けられてしまい一はたじろぐ。
「…………残念」
「俺もですよ。もうちょっとゆっくりしたかった、かな」
だが、それ以上に寒かった。風が心なしか、さっきより強くなっている気がする。
「ん、それじゃあまた、えーと……?」
「あさって、今日と同じくらいの時間に会いましょう」
「……ん、分かった」
ヒルデが頷いたのを見届け、
「じゃあ、また。今日は楽しかったです」
別れの挨拶を口にした。
公園の出口に向かって歩く内、思い出してしまう。一は頭から、体から、どうしてもあの違和感が拭いきれなかった。歌を聞いている途中に動こうと歩いた時の、あの、違和感。
確かに、あのストリートミュージシャンの歌は今までに一が聞いていた歌と比べても(と言っても、一は大して歌に興味がなかったので、比較の対象が圧倒的に少ない)何の遜色もなかった。と言うより、今までで一番、気持ちを動かされていた。言葉を尽くせば尽くすほど嘘くさくなってしまう気がしたので、恐らくは『彼女』であろう、あの歌声に対してあまり口にはしたくなかったが。
それでも、それでもだ。あの声を、あの歌を、あの歌声を。あえて、強いて、どうだったのか言えと、誰かに強要されたならば。一はこう言おうと思う。
「――今までに聞いた中で、一番悲しい歌だった」
そう、言おうと思った。
一が悲しいと、そう評した歌をうたう人物、件のストリートミュージシャンと出会うのは今日の次の日。つまり、翌日の事である。
それが一にとって、今までで一番面倒で、困難で、悲しい事件の幕開けともなる。
そんな事にはまだその時、一はおろか――否、一は愚かで、一以外の人物はとっくに分かっていたのかもしれなかった。