09
加賀敏明、24才。
中学時代から全国大会に出場し、高校ではインターハイ100メートル3位。
大学では社会人を相手に戦い、その記録は悪いものではなかった。オリンピックへの道も努力次第というところで、未來がまだまだ楽しみな選手だったのだろう。
そんな彼は、自動車で移動中に亡くなった。自分の運転する車に対向車のトラックが突っ込んできたという。
「無念だったと思います。でも、皆がそんな感傷を理解してくれるわけでもないようです」
僕の声に彼はゆっくりと振り返る。数日前に見た顔――斎藤さんの作業場にあったアンドロイドと同型だった。
アンドロイドはトラック内ではなく、観客席に一人で座っていた。時刻は21時。埋立地に作られた競技場なので風は強いが人気はない。
僕は確認した。
「加賀さんですよね。陸上選手の」
「あと少しで消えるさ。放っておいてくれないか」
「加賀さんなんですね?」
「ああ。多分な」
「隣、座ってもいいですか」
「……お前、誰だ」
「僕は兵藤リンといいます。加賀さんを一時期は探していたんですけど、もうお金ももらえないだろうし、何もしません」
「能力者か」
「そうですけど学生です。必要時以外は使えません」
「好きにしてくれ」
「ありがとうございます」
加賀さんの座る席から二人分ほどあけて座る。しばらく無言が続いたが向こうから話かけてきた。
「駆除しないのか」
「アンドロイドにゴーストが宿っているなんて、はた目からじゃ分かりません」
「お前は俺の名前を呼んだだろう」
「色々と知っている条件が少なかったので、あてずっぽうを出しやすかっただけです。情報は多ければいいというわけじゃないですね」
僕の言葉は長すぎたようだ。加賀さんは黙った。
今度は僕の番だった。表現が難しかった。
「なぜアンドロイドに……つまり、乗り移ったんですか」
「乗り移った、か。体がなくなって、気が付きゃゴーストだ。意識的に見せようとしなけりゃ、誰にも気がつかれない。駆除なんて言葉は俺には関係ないと思ってた」
「ランナーと走っていましたよね。時折」
「走るには程遠い感覚だ」
加賀さんはアンドロイドの腕を動かし、手を握りしめた。
「走るときの感覚なんて無自覚に享受していた。でもゴーストになったら気が付いた。心臓の鼓動、止めた息と肺の感覚、地面を蹴った衝撃、頬で切る風。その全てが人間の特権だった。ゴーストじゃ感じられない。体がなきゃだめだった。誰かと走ってたって、同じ感覚は得られなかった。だからこいつを奪ってみた」
「奪えたんですか?」
「光って見えたんだ。暗い部屋の中に差し込んだ光のように、導かれた気がする」
「導く……」
いったい何が導くというのだろう。それはゴーストだけの感覚なのだろうか。
またしばらく無言が続いた。遠くからサイレンの音が聞こえたがあれは救急車だ。しかし思い出した。
「加賀さんを国の人間が探しています。ようは警察とかそういう面々です」
「そうか。そこまで悪いことをしたのか、俺は」
「いや、そういう訳ではないんですが……ブラックアウト品が動いたからでしょうか」
「こいつはブラックアウト品なのか?」
「はい。知りませんでしたか」
「GPSを消したぐらいだ」
「消せるんですね」
「脊髄チップと同じような感じだ」
「すみません。つけてないもので、分かりません」
ただ、と僕はあたりを見回した。
「時間はさほど無いような気がします。ドローンの使用はないようですが、僕の知らない他の捜索方法もあるでしょうし……充電はまだ2日間は持つでしょうが、現在のエネルギー源が何なのかも分かりません。もしも加賀さんが走りたいと思っているのなら、今ここで走っておかないと次の好機はないかもしれません」
「いや、いい」
加賀さんは頭を振った。
「こいつで移動していて分かった。アンドロイドでも人と同じような感覚は得られない。俺がやりたいことは実現できないと知った。もう記録なんてどうでもよかったんだ。走る感覚を最後に味わってみたかった。この会場で味わうはずだった感覚をな。でももう無理だ。諦めた」
「そう、ですか」
僕は返す言葉を失った。
これはつまり魂の呼応に近づいているということだ。それも達成ではなく諦観からくるものだろう。彼は死してなお走りたいと願い、ここまで行動して諦めたのだ。いやここまでしたから諦められたのだろうか。
僕はそれがとても悲しいようなことに思えた。
「加賀さん、僕の体に乗り移れないんですか」
「お前の? 何を言ってる」
「そこまで諦めているのなら、最後に挑戦してみてください」
僕は強く願っていた。どうせ消えてしまうのなら、最後に満足して消えてほしいと。これまでにいろいろなゴーストを諦めさせてきたがその全ては実現が難しい物だった。今とは違う。
「しかし、お前にどうやって……いや、もしかしたら……」
「いけそうですか?」
どうやってゴーストが乗り移るかなどは知らないが、太古より霊は人に乗り移っているではないか。できないとは思えない。
「いけそうな気がする。いいのか? 俺は体を返さないかもしれないぞ」
「その時は別の誰かに助けてもらいます。いつもそんな人生ですから」
「そうか……なら遠慮はしない」
ふっと、目の前のアンドロイドから力が抜けたように見えた。何事もないような数秒間が続いたあと、
「がっ……」
僕の胸の奥底にトラックが追突してきたような衝撃が走った。
*
気が付くと、僕は自分の部屋にいた。どうやら寝ていたようだ。
「おはようございます、ご主人様」
「……ああ、おはよう」
天井が隠れるほどにシロの顔が視界いっぱいに映っている。のぞき込まれていたらしい。
「えっと……僕なんでここにいるのか知ってる?」
「はい」
シロは頷いた。
「ご主人様は明け方に帰宅されました。その後少しお休みになってカレーを食べてから、手紙を書かれた後、突然意識を失われました。そして目を覚ましたのが今です。三時間ほどのことでしょうか」
「……うん」
経緯がよくわからないが、とにかく無事だったらしい。
起き上がると、ものすごい筋肉痛だった。
「大丈夫ですか、ご主人様」
「シロ、何か僕と話をした? 帰ってきてからの僕と」
「はい。いたしました」
「どんな?」
「カレーがとても美味いと褒めてくださいました。あと、目が覚めたご自分に端末をみせてほしいと」
指し示された端末にはメモソフトが起動されていた。最後に加賀敏明と記名がある。どこまでが本当かは知らないが満足してくれたようだ。
「シロ、ありがとう」
「いえ。では、朝食を召し上がりますか? 記録では最後のお食事から12時間以上が経過しております」
シロはそんなことを聞いてきた。いつも通りの対応といえるだろうか。それでも少しおかしい。
「僕、少し前にカレーを食べたんじゃないの?」
「……はい。そうです」
気まずい雰囲気がでるほど、シロの表情が動くことはない。
「でも食べようかな。シロのカレーはおいしいしね」
「かしこまりました。ありがとうございます」
シロは僕ではない僕と何を話したのだろうか。
少なくともカレーを食べた記憶は僕にはないのだから、今一度日常の味に浸るとしよう。
パソコンの前には小さな結晶が落ちていたが、換金することはやめてしまっておくことにした。
*
後日、作業場で轟さんから報告を受けていた。
すでに素体は見つかった後だった。
「不思議なことにGPSが突然復活したんだよねえ」
「そうですか」
「ねえ。ちなみに兵藤君、この件に必要以上に絡んでないよね?」
「いや、別に」
「暗くてわからないんだけど、現場に二人の影があるのは確認できたらしいんだよ。ねえ兵藤君、何か知ってるとかないよね? まさかだけど」
「そうですか」
「もう一回聞くけど、兵藤君関わってないよね?」
「そうですか」
「ええ! ちょっとちょっと! その反応は――」
「――うるさい」
その声は僕じゃない。斎藤さんだった。ものすごく機嫌が悪い。
轟さんが必要以上に慌てた。
「あ、ナ、ナツさん、つまりですね」
「そいつが違うといっているんだ、違うんだろ。私の素体を返さないくせに人を疑うな」
『違う』とは言っていないが、そういうことにしておこう。
斎藤さんはブラックアウト品が国に没収された上に、なんの保証もされないことに腹をたてていて、なんなら警視庁を相手に喧嘩を売ってもいいぐらいに怒っているのだ。そして轟さんはその組織の人間であるから、斎藤さんの敵と認識されているのかもしれない。
しょぼん、と肩を落とした轟さんが少し不憫だ。助けてあげたいとも思うが、どうだろうか。蒸し返すとまた余計な話が始まりそうだから止めておこうか。
外から蝉の声が聞こえる。
80年もの時間が経とうとも夏の風物詩は大して変わらない。
夏休みも中盤。まだまだ日差しは高く、外の熱気は強い。
「兵藤。暑い。涼しくしてくれ」
わがままモードに入った斎藤さんに「りょーかいです」と応じて、冷気の出力を上げた。
「ちなみに轟さん。今使っている僕の能力って、法で定められている『必要時の使用』に値するんですか?」
あーすずしー、と気持ちよさそうにしていた轟さんがハッとした様子を見せる。
腕を組み天井を見上げて考え始めると、直に答えを口にした。
「暑いと死んじゃうから必要時じゃないかな。まあ見逃すよ、俺は現場の声を重要視する男だからね!」
「ほら斎藤さん、轟さんが助けてくださいましたよ。心が広いですね。国の法律よりも、僕らを優先しています」
僕の意図に気が付いたのか、轟さんがぱあっと顔を輝かせた。
「ふん」
斎藤さんの声もどこか和らいだ気がする。
人間同士が分かり合うということは『心が通じ合う』というが、それは魂の呼応と同じではないか。ならば人間にあって機械にないものは魂であり心であるということになる。哲学モードに入った僕はそんなことを考えながら、普段より頑張ってもう1℃だけ室温を下げた。
『兵藤様
頬にあたる風が気持ちよかった。ありがとう。とはいえ片足が義足だったから生前とは違う感覚だったな。(嫌味ではないんだ、気を悪くしないでくれ)
というわけで、しばらく感じていなかった睡眠と、食ってなかったカレーを頂いたことで、俺は満足を得られたんじゃないかな。これで終わりだと思うよ。
本当にありがとう。お礼をしたいところだが何も持っていない。この後どうなるのかは知らないけど、もしもお前がこっちにきて道に迷っていたら、走って迎えにいこう。
じゃあそういうことで。突然の出会いだったが感謝している。また会う日まで。
追伸
彼女、大事にな。
加賀 敏明』