私を毒殺しようとシタ夫と復縁するわけがないですよね?
「……愛しているよ、セシリア。君が死ぬその瞬間まで、僕がそばにいる」
あのときの彼の声は、とても穏やかだった。私は寝台の上で病に伏し、すっかり細くなってしまった手を、彼がやさしく包んでくれていた。
両親を早くに亡くし、公爵家の後継として育てられた私は、ずっと孤独だった。社交の場では“気の毒なお嬢様”とひそひそ噂され、誰も私に近づこうとはしなかった。
そんな中、初めて手を差し伸べてくれたのが、彼——エドガーだった。
「ひとりで退屈そうだね、公爵令嬢」
あの夜会で、私に話しかけてきた彼の笑顔を、今でもはっきりと思い出せる。きらびやかな会場の隅で、私はただ静かに座っていた。そのときの彼の声が、私の世界に初めて色を差したのだ。
それ以来、彼は時折私を訪ねてくれるようになり、書物を読んでくれたり、季節の花を持ってきてくれたりした。そんなささやかな時間が、私には何よりも大切なものだった。
だけどそんな幸せな日々は、長くは続かなかった。
ある日、私は高熱を出して倒れた。
その知らせを聞いた彼は、何も言わずに医師を手配し、すぐに私のもとへ駆けつけてくれた。
――医師の診断は残酷なものだった。持病の進行。余命は、長くて数年。
けれど、彼はそんな私を見つめて、穏やかに言ったのだ。
「たとえセシリアがあと数年で旅立ってしまうのだとしても、その間に人の一生分の思い出を僕と作ろう」
「そんなこと……言われたら、希望を持ってしまうわ」
震える声でそう返すと、彼は微笑みながら、私の手をぎゅっと握った。
「それでいいんだ。君が望むなら、どんな未来でも」
あれが、彼なりのプロポーズだった。
私はその言葉を、心からの愛だと受け取った。夢を見てもいいのだと、初めて思えた瞬間だった。
十六歳の誕生日、私は彼と結婚することを決めた。
ただ一人、私の決意に反対したのが、近衛騎士のレオンだった。私より二つ年下の彼は、幼い頃からずっと私のそばにいてくれた、無口な子だった。
「やめておけ、あの男は……」
あのときばかりは、珍しく声を荒げていた。
「どうして? エドガー様は、私を受け入れてくれたのよ」
「……お前を、心から案じているようには見えない」
私はそれ以上、彼の言葉を聞かなかった。ただ微笑んで、そっと言った。
「ありがとう。でも私は、信じたいの」
エドガーの手を取ったとき、私は確かに思ったのだ。
——あなたとなら、短い人生でも幸せ。
そう信じていた。あの頃は、本当に。
◇
セシリア・アルフォート、公爵夫人。
結婚して、もうすぐ三年が経とうとしていた。
「子供ができなくてもいい。君に負担はかけたくない」
そう言ってくれたのは、結婚した日の夜だった。私はその言葉を真に受け、無理をしないよう心がけてきた。病弱な体を労わってくれる、優しい夫——そう、思っていたのだ。
けれど、現実は少しずつ、しかし確実に変わっていった。
公爵家の当主となったエドガーは、忙しさを理由に次第に家を空けるようになった。彼の不在は日常となり、顔を合わせることすら珍しくなっていった。
私はそれでも、信じようとしていた。会話が減っても、目が合わなくても、彼の背中が冷たく感じられても。私は、信じることしかできなかった。
衰弱していく体を抱えながら、私は静かに暮らしていた。読書が趣味だった私は、本の中の世界に心を預けた。時折、ベランダに出て花の香りを吸い込み、季節の移ろいに小さな喜びを見出していた。
——私は、彼さえいれば生きていける。
そう思っていた。
けれど、その日。
「ただいま」
聞き慣れた声が玄関から響いたとき、私は無意識に微笑んでいた。思わず膝掛けを整え、立ち上がろうとしたその瞬間——
「セシリア、お前に客を紹介しよう」
足音と共に現れたエドガーの隣には、見知らぬ女が立っていた。
華美なドレスに、厚化粧。まるで舞踏会帰りのような装いで、彼女は私を見下ろしながら、唇の端を釣り上げた。
私は言葉を失った。動けなかった。目の前の光景を理解するのに、しばらく時間が必要だった。
エドガーの瞳は、氷のように冷たかった。
「医者から聞いたぞ。お前、もうすぐ死ぬそうだな」
その声には、哀れみも、気遣いもなかった。あるのは、ただ愉悦だけ。
私は静かに頷いた。平然とした顔で、まるで何も感じていないふりをした。
「やっとだな。病気で無能なお前は、生きているだけで公爵家の財産を食いつぶす。正直、早く死んでくれたほうが助かる」
「そう、ですか」
わずかに唇が震えた気がしたが、私はすぐに平静を取り戻した。
彼は、心底楽しそうに笑った。
「ああ、最初からこうなることは分かってたさ。病弱で親もいないお嬢様、都合のいい公爵家の箱入り。お前を口説いて、籍を入れた時点で俺の勝ちだった」
その声には、愛情のかけらもなかった。
「家柄だけ立派で中身は空っぽ、死期も近いお前は“理想的な足場”だったんだよ。なにもせずとも財産と地位が手に入る、最高の投資先だったってわけだ」
「あとは“自然に”病死してもらえば、誰も疑いやしない。完璧な後継者計画だったよ」
「そうすれば、この子と公爵家を継げる。お前のような役立たずより、よほどふさわしいだろう?」
私は微笑んだまま、何も言わなかった。いいえ、言う必要などなかった。
なにより目の前の男が吐く息を、微塵たりとも吸いたくなかった。
勝ち誇ったように肩を揺らしながら、エドガーは愛人の女とともに部屋を後にした。
その足音が消え、ドアが閉まる音だけが、やけに静かに響いた。
私はしばらくの間、その場から動けずにいた。
絶望した? 驚いて何も言えない?
――いいえ。
(思っていたよりも、ショックはなかったわね)
心の奥底ではずっと前から気づいていたのだ。
あの人はもう、私の知っているエドガーではない。
ゆっくりと立ち上がり、カーテン越しの月明かりに手をかざす。震えも、痛みも、もう感じない。
「……そろそろ潮時ね」
小さく呟いたその声は、かつての私よりも遥かに力強かった。
病床に伏していたこの数年、私はただ寝ていたわけではない。本を読み漁り、薬草学、経済、法律、そして領地経営の仕組みを、徹底的に学び続けていた。
毒を盛られていた? ええ、もちろん気づいていたわ。
そしてもう一つ——あの医師も、私の計画の一部だった。
彼は元々、私の主治医でありながら、エドガーの命令で知らぬうちに私に毒を盛っていた。罪の意識に苛まれていた彼に、私はある提案を持ちかけたの。
『このままでは、あなたもただの加害者。でも、私を助けることで救われるとしたら?』
その言葉に、彼はすぐに頷いた。
それ以来、彼はエドガーにこう告げる役割を担うこととなった。「奥様はもう長くはありません」——私が仕組んだ“偽りの余命宣告”を。
私はあえて病弱なふりを続けた。すべては、逆襲の準備を整えるために。
最初こそ熱や倦怠感に悩まされたけれど、日を追うごとに耐性がつき、今ではむしろ以前よりも体調が良いほど。
「むしろ高価で遠方の貴重な毒草を、タダで提供してくれて感謝しておりますわ」
誰に聞かせるでもなく、私はくすりと笑った。
机の引き出しを開ける。中には分厚い帳簿と、証拠書類の束が収められている。
私が表に出ることは少なかったが、領地の財政はすべて私が裏から動かしてきた。農業改革の進行状況、商人との契約書、収支バランスの報告書——
それらすべてが、エドガーの“空虚な実績”を否定する動かぬ証拠となる。
そして私は、一人の男の顔を思い浮かべた。
——レオン。
幼い頃から私の傍にいた、無骨で不器用、だけど誰よりも誠実な騎士。
彼ならきっと、私のこの“逆襲”に力を貸してくれる。
私は身支度を整え、夜の冷たい外気に身を晒す。屋敷の裏門を抜け、城下町の一角にある小さな屋敷へと向かった。
扉を叩くと、無造作に髪を乱したままの男が現れる。
「……ようやくその気になったか、お姫様」
◇
御前会議の朝は、重苦しい雲に覆われていた。
王都の王宮にある玉座の間——そこは、国政に関わる重臣や有力貴族たちが一堂に会する、最も格式高い会議の場だ。威厳と静けさに包まれたその空間は、普段であれば国家の重要な決定が下される場として機能する。しかし今日、その空間はひとつの家を裁くために開かれた。
公爵家の内部問題であろうと、王家の威信と関わる以上、ここで裁かれるべきと私は判断した。
だが、私の心は澄み渡っていた。恐れも迷いもなかった。
玉座の間に並ぶ貴族たちの視線が、一斉に扉へと向けられる。
私が姿を現すと、その場の空気が明らかに変わった。
エドガーが目を見開き、口元を引きつらせた。
「セ……セシリア!? どうしてお前がここに……?」
驚くのも当然よね、死にかけの女が現れたのだから。
彼の狼狽する声を背に、私は静かに壇上へ歩を進めた。
「公爵夫人――いえ、現公爵にふさわしき者として、本日ここに参上いたしました」
ざわめきが一気に広がる中、私はゆっくりと場の中心に立った。
「本日このような場にて発言の機会をいただいたこと、感謝申し上げます。まずは一つ、皆様にお詫びと報告がございます」
朗々とした声で告げながら、私は一冊の帳簿を卓上に広げた。
「長らく病に伏していたふりをしておりましたが、それもすべて、証拠を掴むための布石でございました」
玉座の間にいた誰もが息を呑み、次の瞬間、エドガーがわななく声で何かを言いかけたが、それは誰にも届かなかった。
続いて、私は医師の診断記録、薬草の調合表、そして毒草の摂取履歴を提示する。
「この毒は、夫エドガー・アルフォートによって継続的に盛られていたものです」
さらに、私が記録していた全財政資料を順に開いてみせる。
「そしてこちらが、わたくしが裏で領地経営を行っていた証拠になります。農業改革の報告書、商業ギルドとの取引契約書、税収の運用記録すべて——公爵家を支えていたのは、彼ではなく、この私です」
玉座の間に集った貴族たちは、目を見開いて私を見つめていた。
「……まさか、そんな……」
エドガーが顔を引きつらせたまま、震える声で言葉を探しているのが見えた。
私は静かに彼に向き直り、冷ややかな笑みを浮かべた。
「あなたが何も知らなかったのは、私がすべてを裏でやっていたからです。あぁ、"裏"といえばあなたがコソコソとやっていたことの証拠もありますわよ?」
最後に、私は決定的な一枚の文書を差し出した。
毒の購入記録、そして裏取引の証言書。それは、エドガーが家臣を欺き、公爵家の当主としての責務を裏切った動かぬ証。
「以上の証拠をもって、夫・エドガーの爵位の剥奪、資産の没収、および国外追放を求めます」
毒を盛ったという行為だけでも、決して軽くはない罪。けれど、彼が一番やってはいけなかったのは——公爵家に対する殺害未遂。王家の血筋を色濃く継ぐ者を、私欲のために排除しようとしたのですから……その罪が、どれほど重いものであるかは、言うまでもありませんわ。
しばしの沈黙。
やがて王家の勅使が席を立ち、厳かに宣言した。
「セシリア・アルフォートの主張と証拠を確認。よって、エドガーにはすべての爵位剥奪、全資産没収、ならびに国外追放の裁定を下す」
エドガーは血の気を失った顔で、ただ呆然と立ち尽くしていた。
彼の唇が何かを言おうとして震えたが、私が一歩踏み出すと、その声は掠れてかき消えた。
「最後まで、私を甘く見ていたようですね」
彼が呆然と立ち尽くしたままのその傍らを通り過ぎながら、私はふと立ち止まり、振り返ることなくもう一言だけ告げた。
「……でも、あなたのおかげでここまで強くなれました」
ひとつ深く息を吸い、そして皮肉めいた笑みを含ませる。
「そこだけは、感謝しておりますわ。「セ、セシリア! すまなかった! 今からでも僕とやり直さ」……さようなら、エドガー様」
それだけ告げて、私はその場を後にした。
これからは、私の手で、公爵家を、そしてこの国の未来を守っていくのだから。
◇
数か月後。
陽だまりの中、公爵家の庭には、初夏の風が心地よく吹き抜けていた。
私は、アルフォート公爵。今や名実ともにこの地の正統な領主として、日々政務に励んでいる。
「セシリア様、今日の市場巡視は……」
侍女の報告に軽く頷き、私は羽織を翻した。小さな鏡に映る自分の姿には、もはやかつて病に伏していた頃の面影はなく、凛とした眼差しを湛えた女性がいた。
市場に出れば、民たちは笑顔で声をかけてくる。
「今日もお美しいですね、公爵様!」
「ほほほ、元気そうで何よりだわ」と笑顔で返せば、子どもたちが花飾りを差し出してくれる。名ばかりの称号ではなく、心から信頼される存在として在れることが、どれほど誇らしいか。
けれど、そんな日々の中でも、ふと心に影が差すことがある。
思い返せば、エドガーと結婚した当初、私は彼を信じて疑わなかった。けれど、心細くなる夜、私の声に最初に応えてくれたのは、彼ではなかった。
本当に私の傍にいてくれたのは、レオンだった。
病に苦しみ、孤独に押し潰されそうになった夜。扉越しに聞こえた低い声、そっと手渡された温かな薬湯——そのひとつひとつが、私にとってどれほどの救いだっただろう。
何も言わず、ただ黙って傍にいてくれた。その優しさに気づきながらも、私はそれに甘えることを自分に許せなかった。あの頃はまだ、エドガーという幻想を信じていたから。
けれど、その幻想はやがて裏切りとなり、私は目を覚ました。
——私が彼と出会わなければ、ここまで強くなれただろうか?
毒に蝕まれながらも、どこかで私は、彼に「強くなれ」と促されていたような気がしていた。
そして、その背中を支えてくれたのは、いつもレオンだった。
彼がいたから、私は立ち上がれた。無言の眼差しと、黙して語らぬ優しさが、私に“復讐の先にある未来”を見せてくれた。
「まだあんな男を引きずってるのか?」
ぶっきらぼうな声に振り返ると、そこには昔と変わらぬ、不器用だが温かな瞳を宿したレオンがいた。
彼はもともと父に仕えていた忠義の騎士。身分の差ゆえに、彼の想いは長らく語られなかったが、それでも——私はもう、知っている。
「いいえ。むしろ、もう振り返る必要もないと思えたの」
レオンは照れ隠しに顔をそらし、ぶつぶつと何かを呟く。その不器用さが、昔から私の心を和ませていた。
「あなたがいてくれたから、私は立てたのよ」
その一言に、彼の肩がわずかに揺れる。
「……ったく、そういうのは本人の目の前で言うな」
背を向けたままの声は、少しだけ照れていた。
私は彼の背中を見つめ、そっと微笑む。
「……次は、愛しの旦那様を私が幸せにさせる番ね」
過去に傷つき、失ったものは多かった。けれどそのぶんだけ、私は強くなれた。
そして今——私の隣には、ようやく手を取り合える相手がいる。
私の人生は、ここから本当に始まるのだ。
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