08 大人の嗤い声
獣が人だとわかったところで、それを確かめる機会は訪れなかった。
最終日の除雪を終え、午後の授業を受ける。今日は計算について学習をした。世の中には便利な法則性があり、今まで習った足し算を応用した、かけ算の存在を先生は丁寧に教えた。子どもたちはいつもと変わらず内容を聞かずに思い思いの時間を過ごしている。授業はほぼ自由時間だった。彼らはその自由を表に出さず、頭の中に描いている。時に机に表現されていたりする。女の子二人に至っては、手帳の切れ端を交換し合っている。この中で集中しているのはヴァルコのみだ。
私も大半の子どもたちと同じく、思考実験を繰り返していた。今日は獣と仲良くなったら何を話そうか、何をしようか、頭の中で列挙していた。
「このように、かけ算は数が多くなった足し算を一度にやることができます」
黒板には「1+1」が数え切れないほど書かれている。その周りは円で囲まれ、矢印の先に「1×9」と黄色い文字で書かれている。先生はこんなに便利な方法を思いついた人は偉大な研究者だったのだろう、と声を弾ませていた。子どもたちは誰も頷かない。ヴェルコさえも黙々と鉛筆を走らせている。
この授業は、果たして意味があるのだろうか。これを学んだところで、どこで使うのだろう。
黒板の文字を手帳に写しておく。結局忘れてしまうのであまり意味はないが、後で先生に見つかると小言を言われる。子どもたちもふと思いついた時にせっせと鉛筆を走らせる。
そうしてベルの音が鳴らされた。男子は競うように部屋を出ていく。女子二人は荷物をまとめながら手紙の内容について話している。ヴァルコは先生の元へ手帳を持って行っている。私はまだ黒板の文字を写し終えていなかった。
女子二人が部屋を出ていくと、すれ違いざまに大人の男たちが入ってくる。彼らは疲労を顔に浮かべながら煙草に火をつけた。煙が充満し、空気が臭くなる。
苦労して写し終えた手帳を、大人の男たちが取り上げた。煙草の先を赤くさせ、息を手帳に吹きかける。
「綺麗に字を書けよ」馬鹿にするように男が笑う。「ヴェルコのやつはもっと上手いぜ」
ちらりと黒板の方を伺うと、こちらを向いたヴェルコと目があった。真黒い瞳は細められている。除雪中に見合わせた目の色と少し違っていた。彼女が何を言いたいのかはわからないが、ある種の軽蔑を宿しているように思えた。
視線を戻すと、手帳は破られていた。薄い一枚の紙を男は手にし、その紙先に煙草の火を押し付ける。じゅう、と音を立てて火が移った。燃えた部分は一瞬茶色を作るも、あっという間に黒くなる。それが全体に広がっていき、男が手を離した頃には跡形もなく燃えてしまった。机の上に紙だった燃えかすが散らばる。私は普段見られないものを見たため、その光景が新鮮で面白く思った。
男たちが笑い、二本目の煙草に火をつけようとする。そして、煙草が舞った。ヴェルコと黒板の前にいたはずの先生が、男の顔に拳を振り抜いていた。男は女子二人の机を倒した。私が異変に察知する前に、ヴェルコが私の手首を握っていた。
「何してんだよ、先生……お前が生きていられるのは俺たちのおかげなんだぜ」
男の声が低くなる。威嚇をする獣と同じ音をしていた。あの倉庫の獣とは違う、大人の獣のようだった。腹の底からひねり出される、獲物を見つけた獣声。先生は静かに立っていたものの、握った拳を解こうとはしていない。
私の手首が強く引かれ、その結末を見ることは叶わなかった。部屋を後にする頃には殴り合いになっていた。廊下にまで拳で殴りつける音、罵声、机がずれる音、そうした雑音が鳴り響いていた。私はヴェルコの後ろ姿を縋るように見つめていた。
建物を出て、踏み固められた茶色の中心地を横切って、子ども棟へと戻ってくる。
ガラス戸を締めると、ヴェルコは何事もなかったかのようにその手を離した。手首は彼女の手の形が赤く残っている。触れられていないのに、まだ握られているように感じる。
「あ、ありがとう……助かったよ」
そう言った時には彼女はすでに私から背を向け、あんな大人にはなりたくないね、と呟いた。