03 獣
『あいつ』と称された人は食堂棟や子ども棟とは違う、別の建物に居る。そこへ向かうには再び外を出歩かなければならなかった。私は億劫だと思う。夜の吹雪は寒さを通り越して「痛み」でもって肌を突き刺してくる。外套を羽織ろうが効果はない。
私は子ども棟に戻ろうか考えたが、彼らの意地悪い顔を思い出したくなかった。
鉄の扉を開けると、外気との気温差に指先が震えた。
光のない外界は風の吹く音だけをそこに残していた。昼間に見た雪煙は、ここと同じものだったのだろうか。夜になっただけで世界ががらりと変わったようだった。目に映らないことに恐怖を感じた。しかしそれは本物の恐怖ではないように思えた。そこに存在していることを私が知らないだけで、世界は私が居ようが居まいが関係なく生きている。私がベッドで夢に落ちていようが、子どもたちに叩かれようが、全く関係がない。食事を持っていくことも、関係ない。吹雪は私を拒んでいない。ただ単に、吹いているだけだった。
頬がぎしぎし、と鳴るようだった。顔が石になったかのように動かない。鼻の先は一瞬でその感覚をなくしてしまった。乾燥した唇の端に痛みが走った。外套を取りに戻るにはまだ冷静ではなかった。私は暗黒の雪原に足を踏み入れた。
ぎゅむ、と間抜けな音がする。私はこの、革靴で粉雪を固める感覚が好きだった。なんだか踏んではいけないものを踏んでいるような——例えば、出かかった植物の芽とか、友達の足とか——そんな心地がする。踏んでしまったことに対する小さな罪悪感が這い上がってくると、背筋がぞくぞくとする。もう一歩を出すことが禁忌を破るように思われる。しかし一歩を出すと、また間抜けな音がして、私はぞくぞくとするのだった。
この時も同じ快感を味わっていた。身体の寒さと粉雪を踏む感覚で差引勘定をすると、やはり外套を取り返したほうがよかったのだろうか、と思われた。振り向くと、食堂棟の扉はそこにはなかった。私は先に進むことにした。
子どもは外で遊ぶものだとされていたため、昼と同じ世界ならば、夜でも建物の位置は手に取るようにわかった。頭の中で景色を思い浮かべながら、「あいつ」のいる場所へと向かう。トレイに置かれた食器は終始ガタガタと音を立てていた。
やがて目の前に小さな建物が現れた。倉庫と同じ性質を持つ棟だ。鉄の扉は重く、右肩で押して開ける。金属錆を煎じたような重い匂いが漂っている。その無機質な中に私は足を踏み入れた。
「……ご、ご飯うぉ、も、持ってきたよ……」
寒さで声は震え上がっていた。暗闇の奥に私の音が飲み込まれていく。まるでずっと先まで続く穴のようだった。穴の底は見えなかった。
革靴の音がコツン、コツンと鳴る。足音を消そうとしても無意味だった。私は自分の身体が自分のものとは思えなくなった。操り人形のように誰かが私に糸を垂らし、勝手に進むように操っていると思った。
やがて足が止まる。目の前には依然として闇が広がっていたが、私はここがひとまずの穴の果てであることを知っている。トレイを左手で持ち、空いた右手を前に突き出す。探るように闇をさまよっていると、針を刺すような痛みがした。反射的に引っ込め、また伸ばす。恐る恐る、存在を確認する。そこにある棒状の物を掴んだ。ぱりぱり、と剥がれる音がした。
棒を掴んだら、右に四本、下に六本進む。
四本、六本、と頭の中で教えられたことを反芻する。
四本、六本。
四本、六本。
穴の果てから吐息が聞こえた。
私は数えていた棒の数を忘れた。獣の唸るような風音に、トレイがガタガタと鳴りだした。棒を握る手に力が篭る。相手は私の姿を捉えているのだろうか? いくら一日中この中にいるとしても、認識できるほどの夜眼が効くとは思えない。第一、恐怖を感じたところで逃げ出す勇気もない。食事を与える任務を続行するほかない。
右手で順路を戻ろうとする。ゴン、と大きな音が鳴った。膝に何かが当たった。痛烈な痛みに声を上げずに悶える。つい先日もここにぶつかったことを思い出した。ともあれ、これで目的の場所を把握したのが不幸中の幸いである。右手で輪郭を探る。板状の物が四方を作る、入り口だ。私はその場に屈み、両手で持ったトレイをその中に差し込んだ。ぎい、と内側についた扉が錆びついた音を立てて開く。小さな扉の向こうに漂う空気はこちら側の冷たさとは違う、何か異質なものが流れているようだった。指にまとわりつく冷気が、私を穴の果てへと誘おうとしている。不思議な感覚に、全身が震え、尿意が催されたが、我慢した。
トレイが床に着いた。食器のぶつかる音が立つ。
私はゆっくりと手を引こうとした。
「ご飯、お、置いたよ……」
そう言い切る前に、トレイが穴の奥に引きずり込まれた。私は手を引っ込めた。内側に開く扉の淵に腕を挟み、ざるざると肌が擦れた。
スープを飲む、喉が鳴る音がする。パンを喰い千切る音も、イチジクを貪る音も、はっきりと聞こえる。獣のような食べ方だった。私はじんわりと痛む腕を両手でさすりながら、食事が終わるのを待った。終わりはあっという間だった。トレイが乱雑に置く音がした。
再び呼吸の音が聞こえてくる。ときおり大きなおくびが立った。
「あ、あの……おいしかった、ですか」
「おまえ、こぼしただろ」
「はぇ」
言葉が返ってくるとは思わなかった。今まで声が返ってきたことなんて一度もなかった。私は一瞬、言葉の持つ意味を忘れていた。獣の声は、女のような声であり、男の声でもあるような、中音域を持っていた。腹の奥に響いてくる声、と言えば感覚的だがわかりやすい。私たちの中でもこのような特徴的な声を持っている人はいない。男の子の声も女の子の声も高いし、大人も男は低く、女は高い。獣の声はこの中心を闊歩している。私はどうしてか、胸を打たれる思いを抱いていた。
「おい」苛立つような大声を獣は立てた。「話す気がないなら話しかけてくるな」
「話す気、ある……で、なんだっけ?」
もういい、と嘆息交じりに獣は言った。私は再び言葉を忘れてしまったため、これ以上かける言葉も見つからずに、そのまま建物を後にした。吹雪は少しだけ弱くなっている。手に持ったトレイがカタカタと揺れる。