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ボブ・ディランを聞きながら


 ボブ・ディランを聞きながら、何もない一日の今を過ごす。


 レコードの回る、アナログな時間。時間は概念ごと消えていた。


 デジタルの時代に、あえてアナログに過ごす。世界は一秒一秒じゃなく、一歩一歩進んでいく。そこには確かな感触があった。


 時間のない時間。無限の時間。終わりのない時間。今この瞬間すらない今。 

 時間なんていらない。白いフローリングに真っ白なソファ。生き物は僕と、窓辺に置いた大きな鉢の観葉植物だけ。


 昼下がりの、緩く弛緩した空気に漂うけだるさがどこか心地よい。窓から入るまどろむような緩やかな風。ふわりとしたレースのカーテンがゆったりと揺れる。

 空間は宇宙ごと消え、世界はすべて僕のものだった。


 昼食は、村上春樹の小説に出てくるような、ちょっとこじゃれたパスタとサラダを自分で作って食べる。飲むのはちょっと高級な、本物のリンゴ100%ジュース。

 心まで満たされる味わい。幸福はその瞬間、最高で最大だった。


 どうでもいい午後。何もやる必要がない午後。路上であくびをしている猫だけが、知っている午後。

 自分を中心に世界を回す。


 自由――。叫び出したいほどの自由。何の囚われもない、自由という概念さえもない自由の中に溶けている何者でもない存在。


 読んでいる本は、ジェームズ・ボールドウィン。時間は無限。横になったソファは、ふわふわとどこまでも心地よさに沈み込んでいく。 

 今は今がよければそれでよかった。贅沢は、くだらない、砂粒の数を数えるような愚かで無駄な行為だった。


 白い人間と黒い人間と、ただそれだけを理由に、人は憎み、嫌悪し、見下し、傷つけ、殺しまでする。人間のその滑稽な行為は、しかし、至極真剣で真面目なのだった。

 白い色と黒い色。人間のそう識別する能力の概念的世界の作り出す錯覚の中で踊る人間たちの現実。妄想と共同幻想の中で、どこまでも愚かになれる人間のその残酷さが、人の歴史の本質であって欲しくはないと願いながら、しかし、やっぱり、歴史は繰り返す――。


 見た目の差別はこの国にも厳然としてあるけれど、でも、みんなそれを言葉にして語ろうとはしない。そんな世の中で、醜く生きることの惨めさをみんな知っているはずなのに、誰もそれを差別と認識しようとすらしない。

 この国では、差別はいつも差別としては行われないのだった。


 すべての存在を許せてしまう温かい太陽の光。すべての生命に幸福を与えてくれる南風。愛はないけれど、それ以上の何かがあって、世界のすべては穏やかだった。

 

 明日は雨だけど、まだ雨は降ってはいない。それだけでよかった。

 余計なものは何もいらない。


 とにかく今は、抽象に浸っていたい――。



 誰も気づかない平和という奇跡。


 結局、いずれみんな死んでしまうけれど、


 もう別に誰に怯えることもない人生。


 いつの間にか生活のすべては数字に置き換わっていて、世界は二進法でカチャカチャと動いていた。

 パターン化された世界で生きるためのパターンを見つけ、要領よく生きていくパターンを身につける。それだけの人生。


 見たい映画は山ほどあって、でも、時間もお金も全然ない。そんな地獄みたいな日々――。


 生きることを恐れていたあの日々は終わった。

 今はただ、ゆったりとコーヒーを飲んで、ふかふかのソファで横になり、本を読みながらうつらうつらと心地よく夢見心地で眠れたらそれでいい。

 

 世界はやっぱり戦争をしているけれど、それを憂う心を僕は持っている。世の中にはそんな当たり前の心すら持てない人間もいる。

 だから、僕はとてもラッキーだ。

 嫌いな奴は山ほどいるけれど、人が死ぬのはやっぱり嫌だ。


 常に何かに追われ、何かを求め、何かに怯え、何かに不安な、そんな今の時代誰しもが生きている人生の、そんな呪いから逃げて逃げて、誰も傷つけず、誰も蹴落とさず、誰にも勝たず、誰もが欲しい愛の証しをまったく持たずに、でも、そこには僕の求めているすべてがあった。


 誰かに許してもらう人生ではなく、誰かを許す人生。もう手遅れな失敗を、悔やんで悔やんで、でも、ポケットにそっとしまったやさしさは決して忘れない。そんな人生。

 世界のすべてを救うことはできないけれど、目の前のおばあさんすら助けることができないちっぽけな存在だけれど、その幸福を思いやる心の痛みを持っている。そんな人生。

 愛なんていらない。そんな劇薬じゃなく、穏やかなやさしさだけあればいい。そんな人生。


 頭のいいあの人たちはいつも口先だけだった。だから、僕は捨てたんだ。この世界に蔓延している、誰もが手に入れなきゃいけないその価値を――。

 

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