もう一度あの日からやり直せるのなら、必ず
「久しぶり」
そう声を掛けられて顔を上げた。少し年齢を重ねた顔がある。
「お久しぶりです。お元気ですか?活躍はときどき聞いていましたが」
梨紗は口角を意識して上げて返事をした。
「ああ、元気だよ。西田さんは?」
「私も、元気です」
そう答えながら梨紗は鎖骨の窪みにあるペンダントトップを触った。角を残してカットしたペリドットに意識が向いて落ち着く気がする。
「ーーー渡辺さーん」
遠くから大希を呼ぶ声がする。梨紗が振り返ってそちらを向くと、声の主は申し訳ないと言ったジェスチャーをした。
「じゃあ、また」
軽く頭を下げて梨紗は大希が呼ばれているのとは反対の方向に進んだ。
大希も小さく返して声のした方に大股で歩いて行く。梨紗は少し進んでから振り返って、もう1度ペンダントを触った。笑えていたらいいけど、と思いながら目的地を目指して歩みを進めた。
今日は年に一度の社内表彰式。梨紗は同部署の新人を連れて運営の手伝いに来ていた。本社に来ることの少ない新人はキョロキョロとしながら楽しんでいる。金曜ということもあり、週末の開放感が漂っている。
今日ここで大希と会うだろうことはわかっていた。大希が企画課だから当然だろう。大希は梨紗が入社時のメンターだ。入社からの1年、精神的にすごく支えてもらった。会社のメンター制度である1年が終わり大希が本社に異動になると聞いたとき、とても不安だった。
「いつでも連絡してくださいね。私からも時々連絡します」ともらった新しい名刺にLINEのIDが書いてあった。
すぐに登録はしたけれど、それを知らせる連絡以外長い間使うことはなかったけれど梨紗が4年目になる時、異動が決まって連絡した。
「すごく不安です」
そう感じるのは当然だと分かっていたが聞いてほしくてメッセージを送ると、すぐに食事に行ける候補日を3つ送ってくれた。
「改めまして、今日はお時間作ってくださりありがとうございます」
乾杯しながら言うと
「メンターですから。私としては独り立ちするんだなあ、と感慨深いですよ」
と答えてくれた。そこからはちょこちょこ食事をしたり、飲みに行ったりするようになった。梨紗の部署のある建物が比較的本社に近いというのもあるかもしれない。「今日、ちょっと話したいな」というときに誘えるような距離だった。
メンターとメンティの関係が崩れてしまったのはいつだったろうか?梨紗が異動後の冬、寒い日だった。そうだ、年始だったと思う。正月休み明けのバタバタした時期が抜けて、ご褒美に食事に行った日だった。
「ここしか空いてないんだけど、いい?」
よく使っていた店で大将はそう言った。予約の団体のための席配置で、ベンチシートの2人席という変わった席が生まれていた。
確認するような渡辺の目に対し「大丈夫です」と笑顔で返して、2人で並んで座る。なんだか落ち着かないけれど、話しは進んだ。
「あ、そういえば」と言いながら梨紗が左手をベンチシートについて体の向きを変えたとき、2人の手が重なった。その瞬間、2人の纏う空気が変わって店の端でそっとキスをした。
「ごめん……でも、付き合わないか」
重なった手を見つめていると、かすれた低い声がする。
「でも、渡辺さん、お付き合いされていた方がいましたよね」
それだから今まで気持ちに蓋をしていたのに、と梨紗は思っていた。
「少し前に別れた」
2人の間には重苦しい沈黙があったけれど、お店は退店客の対応で賑やかになってきている。
「しばらく考えてよ」
そう言って大希は前を向いて、ビールの最後の一口を煽った。
その日の帰り際、横断歩道で別れるときに「じゃあ、また連絡しますね」とフランクな敬語で言いながら手を握られたのを梨紗は覚えている。その手の温かさに顔を上げるといつも通りの優しい顔でこちらを見てくれていて、帰りの電車で返事を送った。
初めて一緒に朝を迎えた日の大希の一言も忘れられない。
「メンティには絶対手を出さない、って心に誓ってたのになぁ」
天井を仰いで話す緩んだ頬を見ていると、なんだか可愛く思えて、梨紗は厚い胸板に手を置いた。それに気づいて大希は体を起こし、梨紗の首に触れながらそっと唇を重ねる。
「私もメンターなんて好きにならない、って思ってました。なのに……」
「なのに?」
「気づいたら好きになっちゃってて」
「俺も、気づいたらもっと一緒にいたいと思ってた」
見つめ合い優しく微笑んでそのままもう一度体を繋げた。
社会人の交際はルーティンになりがちだ。会いやすい日が決まっているのに大希は「なるべく早く会いたい」とメッセージを寄越した。梨紗はそのときのなんとも言えない不安を覚えている。付き合い始めてそんなに期間は経っていなかった。
「元カノから妊娠してたって連絡が来た」
夜遅くカフェで話したとき、大希は拳を握りしめていた。
「もう、後期だって話だから、俺と付き合ってたころの子供で間違いないと思う。それで、父親の責任を果たそうと思うんだ」
そう言われれば梨紗には何も言えなかった。
「分かった」と答えると「楽しい日々を過ごしてくれてありがとう」と言って、大希は店を後にした。
梨紗もすぐに店を出た。店で泣くなんてことはしたくなかった。
あの日以来、全く会わなかったわけではない。同じ会社だ、4年の間にすれ違ったり同じ場にいたりということは何度かあった。会釈だけの挨拶を交わし、大人然とした交流はしていた。ただ、今回のように言葉を交わしたのは初めてだ。いくら交際を誰にも伝えていなかったとはいえ、誠意の塊のような大希が仮にも元カノに声をかけるなんて、と梨紗は疑問を抱いていた。
「後で少し話せないか?人目があるところがいい。ロビーか隣のカフェか。連絡待ってる」
しばらく後でそんなメッセージを受け取った。どうしてだろう?そう思いながらも「今日ならいつでも。場所もお任せします」と返した。
大希の仕事が終わる時間に隣のカフェで待ち合わせた。梨紗は一緒に来ていた新人に「メンターに久しぶりに会ったから、お茶して帰る」とわざわざ伝えた。
「来てくれてありがとう」
少し深みを増した、懐かしさを感じる声が後ろから聞こえた。
「お疲れ様でした」
梨紗はニコリと笑って返事をする。今日の仕事の話を適当にして、ただ再会を懐かしむ2人を装っていた。
そんな話題も尽きた頃、大希は目を逸らしたまま言った。
「ごめん、元メンターとして気になって。何か困ってることありませんか?」
そんなことありません、と言いながら梨紗はまた首元の石を触る。
「ああ、お子さんは?」話題を変えようと梨紗が言うと「その話は後で答える。だから何に困っているのか話してくれないか?」
親密だったあの頃のように話しかけてきた。
「なんでそう思うの?」
梨紗は確かに困った事態になっているが、今日まで誰にも気づかれずにいた。なのに、急に、ほんの短い会話を交わした人が気がついた。昔の交際相手だから、と言うのは理由にならない。
「梨紗は不安を感じると首元をペンダントとかネックレスとかを触る癖がある。あの頃から気づいていたけど、あの話をした日もそうやって触っていたことに気づいていたけど、気づかないふりをして梨紗を置いて店を出た。だから、と言うわけではないけど、今回は見ないふりはしたくない」
一度膝の上に手を戻したけれど、またいつのまにか石を触っていた。コーヒーを一口啜る。もうぬるくなっていて、酸味を感じる。視線を合わさないまま梨紗は言った。
「夫が……不倫しているの。少し前に気づいちゃって」
相手が誰かは知らない。上手く隠しているつもりなのだろう。今日もきっと帰りが遅い。帰ってこれば「最近忙しくて」と言いながら少しだけ夕飯を摘み「ごめんお腹空いてないや」と言いながら風呂に入って寝てしまう。
先日、ふとしたときにネット配信映画のレンタル履歴を見たら、明らかに夫の趣味ではない映画を借りていた。そこから気になって夫を観察してみれば、スマホはどこへでも持って行くし、寝る時は枕の下に入れている。仕事に着て行ったスラックスのポケットからは仕事場でも家や乗り継ぎの駅でもない場所のコンビニレシートが出てきた。極め付けはもちろんスマホに届いたメッセージだ。キッチンで冷蔵庫からビールを出そうとしながらスマホを触っていた夫の後ろを通ったとき、ちょうど新しいメッセージが着信した。「明日から一緒に過ごせるなんて嬉しい」とかわいい絵文字付きのメッセージにスタンプが添えられている。翌日からは2泊3日の出張だと聞いていたけれど。
「そう……それは悲しかったね」
梨紗がコーヒーを飲むために話を止めると、大希は気持ちを共感するようにそう言って自分もカップに指を絡めた。
梨紗もさすがに初めは怒りを抱いたけれど、よく考えれば別に前からこんな感じだったのかもしれない。元々休日にべったり一緒に過ごすわけではなかった。恋人だった頃は確かに燃え上がるような気持ちを彼に感じていた。ただ、本当に一瞬で結婚と同時に義実家近くに引っ越したこともあり、アポ無し訪問も日常で、ラブラブ新婚生活のようなものもなかった。だから、今の生活を変えようとか、夫に制裁をということはあまり考えていない。ただ、大希のように自分をよく知る人から近況を聞かれると困ってしまう。
そっか、と答えてもうすっかり冷たいコーヒーに手を伸ばしている大希に梨紗は聞いた。
「渡辺さんは?お子さんはいくつになったんだっけ?」
大希はテーブルに伸ばしていた左手を少し捻って手の甲を梨紗に向ける。中指と薬指の間から親指を出してトントンと軽く動かした。そこには指輪の跡だけが残っている。
「別れたんだ。子供はもうすぐ5歳。俺の子じゃなかったけどね」
梨紗の息は声にならず、喉の奥で空気が動く音をたてた。
「いわゆる托卵だよ。弁護士にも最近多いって言われたんだ」
2、3歳で動くようになってきて、目鼻立ちがはっきりしてきても、少しも大希に似ていなかった。母親である妻にも似ておらず、正月に集まった親戚がふざけて「知らん男の子供なんじゃないか」と言ったときの青ざめた妻の顔で気がついた。その直後に子供が胃腸炎で入院したときの血液型検査で疑いは確信に変わる。
非は完全に妻にあった。本来は慰謝料も取るべきだろうが子供を育て続けなければいけないのだからやめた。それよりも早く別れたくて財産分与なし、子供へは2度と関わらない、という条件で別れた。義両親は娘の不義を心から詫びてくれ、すぐさま実家に2人を引き取ってくれたため比較的スムーズに進んだ方だと弁護士からは言われた。それでも、子供の戸籍から父親の記載を消すための親子関係に関するやり取りや引っ越し、人事への離婚の手続きなど、本当に面倒でもう2度とこんな手続きはやりたくない。
「全然知らなかった……」
「言いふらすことでもないからね」
ーーじゃあ、あのとき、別れる必要はなかったの?
喉元まで出かかったその言葉を梨紗は飲み込んだ。今更言ったって何も変わらないから。悲劇のヒロインぶってみたって状況は改善しないことも、ここ数週間で痛いほど分かっている。
「俺ほどじゃないとしても、離婚は本当にエネルギーがいる。西田さんがそのままの生活でもいいと思うのなら、それでもいいと思うよ」
大希に西田さんと呼ばれるのはおかしな気分だ。すっかり馴染んだ新姓だが大希に呼ばれたことは今日まで一度もなかった。
「うん」
重苦しい空気が2人を包む。店のBGMが『蛍の光』に変わる。
「出るか」
そう言いながら大希は鞄の中を探った。その間に梨紗が2つ分のカップを片付ける。あの頃のように大希が梨沙のリュックを持ち、「ありがとう」と言いながら手渡した。
「これ」
いつかのような横断歩道の手前で大希は名刺を差し出した。
「俺が世話になった弁護士。もし必要になったら使って。じゃあ」
そう言って大きな道を横断して行った。
梨紗は手渡された小さなカードを手帳型スマホケースの一番奥に収めて顔を上げた。明るく光る街灯の周りに光の輪が見える。目元を拭って帰ることにした。
気にしない、気にしない、と思っていても本当に夫は帰ってこない。1人分の食事を作るのも面倒で簡単に買ってきた。そんなイライラにさらに追い討ちをかけるのは義母からの連絡だ。
ーー明日会いたいのだけれど、いつなら在宅?
そんなこと知らない。そう返事ができればよかったのに。私に会いたいわけではないだろう。自分の息子に会いに来るなら本人に連絡してほしい。ま、夫は彼女に夢中で返事なんかしないのだろうけれど。
ーー拓海さん忙しいみたいでまだ帰宅していないんです。私じゃ分からないので本人に連絡してみてもらえますか?
そう送って全ての通知を切った。
あれから半月ほどが過ぎた。私の状況は何も変わっていない。家庭では日々小さなイライラが溜まっていく。気にしないようにしていても、だんだんと水槽の水が少しずつ溜まるように、心に澱のような重いものが溜まっている。
あれ以来、大希とは連絡をとっていなかった。当然だ。この5年、それまでだって連絡などしていなかった。業務上名前が出ることはあってもそれだけだ。
あの週末明けには一緒に行った新人くんから「メンターさん、お元気でした?」と話しかけられ、その時は部内で話題になった。誰が誰のメンター、メンティなのか、誰が同期なのかと。ただ、それもひとときで皆すぐに忘れてしまうだろう。日常とはそれほどまでに「いつも」かどうかが重要なのだと思った。
季節は巡って、もう心の水槽に溜まる澱には目を向けずに日々過ごせるようになっていた。その頃になると夫も麻痺しているのか、共用のアカウントを使って注文した通販やデリバリーフードを、彼女の自宅で受け取る設定にしていた。図らずも住所を手に入れてしまう。他にも飛行機の予約メールが共用メールに来ていて名前と年齢も知ってしまった。だからといって、何かしたいわけではない。
夫が家にいない暮らしは楽だ。時々「なぜこの人の洗濯物を私が?」と思うことはあれど、もののついでだと思えば気にならない量だ。最近は私が先に寝てしまうのをいいことに朝帰りをして着替えだけを家で済ませ出勤している。タオルやパジャマを使った形跡がないことに気づかないとでも思っているのだろうか。
ただ夫なりの罪悪感は感じるようで、時折機嫌伺いのメッセージを寄越したり、私の好きなケーキを買ってきたりしている。結婚当初から財布も別で、家賃は夫が、食費や光熱費は私が支払ってきた。家賃さえ支払ってくれるのならこのままでもいいかと思っていた。
「今日、私も遅くなる。歓送迎会があるの。22時ごろには帰ると思うけど」
夫にメッセージを送った。このような業務連絡はこれまでもお互いきちんとしていた。ただ、私は勘違いをしていた。今日の会場は忙しい立場になった元部長の都合に合わせたため、梨紗の自宅のほど近くだ。帰宅時間は早まるだろう。30分程度の差は夫には関係ないに決まっていると、連絡をせずに帰ったら夫が自宅にいた。
玄関を開けると靴が2人分ある。もちろん1つは知らない女性ものだ。
「そろそろ出ないとあいつが帰ってくるだろう?」
「えー、でも、お家に来られて嬉しいんだもん」
香りまで漂ってきそうな甘ったるい声が気持ち悪い。わざと大きな声で「ただいま」と言った。
「お、かえり」
面食らった顔でこちらを見る夫は開き直るでもなく謝るでもなく、ただ驚いていた。後ろから見知らぬ女性が顔を出し「初めまして。会社の後輩の千崎です」と笑顔で言った。
なんと答えたのだろう。ペンダントトップを触りながら廊下を進むとすれ違いざまに「俺、また、会社に戻るから」とあからさまな嘘をついた。Tシャツにデニムで出勤するのだろうか?それとも荷物に入れたスーツにどこかで着替えるの?そんな疑問を本人にぶつけるのは面倒で、何も言わずにいたのをいいことに、その女性が梨紗だけに聞こえるように言った。
「なんだ、知ってるなら早く別れてくれればいいのに」
捨て台詞のように夫には聞こえない声量で言われて、つい売り言葉に買い言葉となってしまった。
「いつでも別れる準備はあるの」
「じゃあ、別れてよ。私、早く西田の名前になりたいの」
夫はその女性の肩を抱き、とりあえず出ようと言っている。
「弁護士から連絡します。待ってて」
夫は聞いていたのだろうか。腹が立って玄関ドアのチェーンを音を立てて締めた。寝室には行きたくない。きっとリビングソファにも座っただろう。家のどこもが気持ちが悪くてそのまま廊下にうずくまった。左手で胸元のチェーンを触りながら右手に持っていたスマホのロックを開け、震える手で番号を探した。何度目かのコールの後「はい」と聞こえたときに堪えていたものが全て溢れ出てしまった。
「大希……」
嗚咽をあげて泣く梨紗の声に大希は腹の奥底が煮えるような気分だ。今までこんなに感情を露わにした梨紗を知らなかった。今すぐにでも駆けつけて抱きしめたいのに、それはできない。梨紗が落ち着くまで電話を繋げたまま自宅の狭いリビングを歩き回った。
「梨紗、聞いてくれ。その家にいられないのは分かった。どこかに泊まれるところはある?知人の家かホテルか」
泣きながら家が気持ち悪くてと言った彼女の心が落ち着く場所が必要だ。できれば誰か知り合いの家が良いと思ったが梨紗はホテルに行くと言った。
「分かった。それと、早く電話を切ったほうがいい。梨紗が相手とどんなふうに決着をつけるにしろ、梨紗に他の男の影があるのは良くない。分かってる、向こうの有責だけれど、痛くもない腹を探られる隙は与えちゃいけない。明日になったら渡した名刺のところに電話して。ちゃんと持ってる?そうか。力になれなくてごめん」
そこまで言うと大希から電話を切った。
きちんと家を出られるだろうか、誰にも邪魔されない寝場所を確保できただろうか、心配は募る。明日、梨紗のいる支社まで顔を出そうかと思ったけれど、話を聞くことももちろん抱きしめることもできない。誰かにメールを送って出社しているかどうか確認することだってできない。ただの同僚でしかない、しかも部署だけではなく勤務地も違う、他人という立場を突きつけられていた。
「では、時間になりましたので始めますーーー」
翌朝10時からのオンラインミーティングの参加者リストに梨紗の名前があるのを大希は見つけた。同課の担当者に興味があると言って参加させてもらい、画面に映る梨紗の姿を確認する。普段とは違いメガネを使っている。泣き腫らしてコンタクトが使えないのだろう。それでも出社の確認ができて安心した。
その後も社内のメールやミーティング情報で出社していることは確認できるけれど、それ以外は何も分からない。梨紗の支社に行く機会があって無駄に社内をうろついたりロビーで時間を潰してみたけれど会うことはできなかった。会っても何もできないけれど。時が流れても梨紗のことは常に気になった。小さな棘が刺さっているかのように何かの度に意識が向き、囚われてしまう。
どれくらい期間が経った頃だろう、ある仕事終わりに、本社の1階で梨紗が座っているのが見えた。大希にとってはかなり長い期間だったように感じるが、もし離婚調停がなされたのだとすれば比較的短い期間だったと思う。状況がわからないにも関わらず大希は吸い寄せられるように近づいて、椅子の隣に立った。そっと遠い方の肩を抱くと、梨紗の頭が太ももに向かって倒れてくる。少しして震えが大きくなり泣いているのだとわかる。
「梨紗、隣に行こう。ここは良くない」
握りしめていたハンカチで顔を押さえて梨紗は1人で立ち上がった。大希は手を出そうかと思ったけれど先に進み、道を示すだけにした。
あの日とは違い、店の奥の、周りに誰もいない席を選んだ。2人分のコーヒーを手に、誰にも見られないようにと願いながら、梨紗の隣に腰を下ろす。
「やっと、全部、終わった」
ほとんど息だけの声で梨紗は小さく言った。大希は本能のまま梨紗を掻き抱く。
「よかった、よかった」そう言いながら無意識につむじに口付けていた。
「ほんと、もうやりたくない」
大希が腕の力を抜くと梨紗の体がもたれかかってきた。大希は好きにさせ、髪を撫で続けている。
「もう、クタクタ」
梨紗は大きく1つ深呼吸をした。近寄って初めて感じる、慣れた香水の香りがリラックスを誘う。
「大希、コーヒー飲んでいい?」
しばらくして梨紗がそういうと、ああ、とかなんとか言って大希は体を離した。
「聞いてもいい?」
カップを置いた梨紗に大希がそう言うと、梨紗はぽつりぽつりと話し始めた。
あの大希に電話をした翌日、弁護士に電話をして離婚への準備を始めた。幸い相手の住所も名前もわかっていて、家でのやり取りはスマホのボイスレコーダーで録音していたので、弁護士が言うには順調に進んだ。もちろん慰謝料のやり取りでは相手はゴネる。夫にも相手にも慰謝料を請求し、彼らとやり合うだけでなく、義母からも電話やメッセージで罵りを受けた。家にも来たみたいだ。
それらの対応を進めながら引っ越しをする。あの気持ち悪い家から必要最低限のものを持ち出し、早々にホテルに引き上げておいたため、ホテル室内の荷物量はなかなかだった。大型家具の手配をする気力がなくて、マンスリーマンションに引っ越し、今もそのまま住んでいる。全て終わったと思っていたけれど、腰を据えられる住処を見つけてはじめて「終わり」と言えるのかもしれない。
今日、夕方、弁護士から連絡があり、夫と女性の双方からの支払いが確認できた。ついに終わった、という気持ちだ。
「この後はどうする予定?」
この後?梨紗は戸惑って大希を見た。この日まではなんとか頑張らなくちゃ、と突っ走っていたけど、確かに日々は続く。
「今、思いつきで話しているから、本気にしないでね。仕事辞めたい。休みたい。"お家"でだらだらして元気になるまで何もしたくない」
「わかるよ」
精神的疲労が大きすぎて何も考えられない、考えたくない、と大希も2日ほど休みをもらった。
「名前、どうした?」
「戻しました。その手続きも面倒で、本当に信じられない』
銀行、クレジットカードの名義はとりあえず急いで変更したけれど、さまざまな会員登録は終わっていないものもある。使うときにやればいいかと思う反面、いつまでも過去に囚われてしまいそうだ。
「名前変えた方は、それが大変だよな。ってことは会社や冗長にも……」
「伝えました。気が重いですよね。本当にもう嫌」
梨紗は机に肘をついてコーヒーカップを両手で包むと、そっと口に運んだ。もう、熱くはないのに、さも熱いものを飲み込むような仕草だ。
「周りが知っているなら、仕事も休めばいいのに」
そういわれて梨紗は考えてみたものの、休んだところで考え込んでしまいそうで、首を振った。
「家探し、一緒に行こうか?」
「え?なんで?」
なんで、か。大希は考えてしまう。心配だ、とかそういう気持ち以外には目を向けたくない。
「1人では雑務辛いなら、一緒に行くよ、って」
「大丈夫、ひとりで行ける。ありがとう」
「今日、1人で過ごせるか?一緒にいようか?俺の家……」
梨紗は掌を大希に向けて話を遮った。信じられないという顔をしている。
「ねえ、私のこと誘おうとしたの?私、今、男の人とどうにか、なんて考えられないの。止めて。でももし、ただ心配してくれて……」
大希はさっきの梨紗と同じジェスチャーで話を止めた。
「ごめん。心配なのは確かだけど、下心がないとは言えないから。その先は言わないでいい」
2人の間に妙な空間ができた。冷め切ったコーヒーを飲んでも埋まらず、つい梨紗は首元を触る。
「心配してくれて、ありがと」
小さく声に出して、そのまま、頭の中で浮かんだことを呟いた。
「ねえ、私たち、あのとき別れずにいたらどうなってたと思う?」
大希は答えず、場は沈黙に支配される。遠くでコーヒーマシンが動く音がする。レジでの会話やカップとソーサーが立てる音も気になる。
「それは、言わないでほしかった」
大希の絞り出した苦しみの滲む声が、梨紗を不安にさせる。
「子供と親子関係がないとわかったとき、苦しかった。梨紗と別れる必要はなかったのか、と後悔したからだ。梨紗との温かい時間が好きだった。側にいられたあの日々はとても幸せだった。あのまま別れずにいたら梨紗と温かい家庭が築けたんじゃないか、と夢見たことは一度や二度じゃない。
でも、どうなってたのかなんて分からないよ。俺も梨紗も辛い体験をすると思って結婚したわけじゃなかったんだし」
「そうだね」
梨紗は忘れることにした。幸せだった大希との日々を。夫との結婚生活やその後のことも。忘れられるわけはないけれど、忘れる努力はしたほうがいい。
梨紗は空になったカップとソーサーを軽く押して、テーブルの向こうに追いやった。ふう、と息をついてベンチシートにだらんと腕を投げる。目を瞑って全ての意識を一度手放そうとしていた。
右手に何かが乗る。温かさを感じて目を向けると、大希の手が重なっていた。
どこかでみた光景だ、と顔を上げる。
「もう一度、あの日からやり直してくれないか?」
大希の声が聞こえる。ゆっくりと目を閉じながらあの日のように顔が近づいてくる。梨紗はその光景をスローモーションのように感じていた。つられるように目を閉じながら、重なっていた右手を指を絡めるように繋ぎ直した。