300秒に込めた、104日間の想い
沖縄県西海岸。岬に近い病棟の窓を、集中豪雨が叩きつけていた。
「病院、変わるの……?」
「そう、弁の置き換え手術が決まったから……しばらくは……」
高校に入学してすぐ知り合った翠は、アキラと読む珍しい名前の生徒だった。知り合ったと言っても、教室でではない。生まれつき心臓弁膜症を患う本人は、人生の大半を病院で過ごしていた。入院中はクラスの生徒が交代で、見舞いがてらノートやプリントを届けるのが決まりだった。
僕はそのターンが回ってくるのを、初対面の日から心待ちにするようになった。翠の出会いは、新しい自分との出会いだった。
「……どのくらい」
「分からない。何せ、手術だから。俺の状態次第で決まる……」
次はいつ会えるのか、分からない。滝を作る窓に顔を向けたままの様子が、そう物語る。限られた面会時間だというのに、いつもとは比にならないほどの沈黙がこの場を占めていた。意地悪く、豪雨が互いの時間を急かすようだ。
「こんな雨んなか来てくれたのに……悪いな……」
ベッドテーブルに広がるスケッチブックには、病室から見渡せる海景色が描かれていた。美術が好きなところから、感性の豊かさを感じ取れる。数々の見た事のない色の色鉛筆を駆使して生み出す景色は、今にも波や風の音が聞こえそうなほどに生々しいものだ。そんな素晴らしい風景画を書くところよりも惹かれてしまう、白く細い手。いつもなら色鉛筆を握っていて分からないペンだこが、今はよく見える。何も持たない、力無く丸まった手元は、ただ虚しく暗い空気に触れているだけだった。
「緑? おい」
僕は漸く、翠の声に顔を上げた。ぼさっと座って本人の手元に見惚れてしまっていた。先程まで窓の外を向いていた真っ直ぐな二重の目が、心配そうに瞬いている。色白の肌に薄くかかる黒髪が艶やかで、清涼感がある顔立ちだ。しかし今は、まるで外を眺めているような面持ちだった。
「ロークっ! しっかりしろ、何か言え」
翠は僕の肩を揺さぶる。次に会える日が分からず不安でいるところを、捉えているのだろう。慌てる様子はいつもの表情だった。自分の病気の事よりも僕を気にかける。覗き込む優しい面持ちに、胸を締め付けられていた。気付けばこの時間が癒しだった。初めて名簿にある本人の名前を見た時、似た意味を持つ自分の名前を重ねた。そしてただ順番がきたから本人を訪れた。それが、最高の出会いだった。
きっとまた会える、戻って来ると、簡単に思えなかった。病気はいつだってやってくるし、蝕む。いつでも必ず次があるだなんて、無いだろう。
「なぁ……あと五分しかないぞ……」
いやらしい事に、世界中を騒がせた感染症を機に面会時間が限られるようになった。律儀に時間管理までされ、もたついていれば急かされる。そんな邪魔が入ってしまう前に、言うべき事を言ってしまう方がいいのかもしれない。次がいつなのか、分からないのだから。
しかし怖かった。散々調べつくして自分が何者かを悟った時から、今日の様な日が来た時は本音を打ち明けようと決めていた。とは言え、そんな日など果たして来るのだろうかと思っていた。まさかと碌に気にせず呑気に生きてきた矢先、早々に来てしまった。油断していた。何の心の準備もしていないどころか、この瞬間を迎えている事すら信じられない。
その時、無意識に俯いて握り締めていた両手に、冷たい手が触れた。
「見ろよ、止んだ。また虹が出るかもしんねぇ」
僕は、何とも無さそうに顔を上げさせようとする翠の声に釣られた。一筋の陽光に自然と手を翳した時、飛び込んだエメラルドの大海原が水面を揺らしていた。
「これ、やるよ。俺とお前の名前、そのまんまだろ?」
陽の光を真横に受ける翠の顔が陰っても、表情は勇ましいものだった。色白なところは乙女の様にも見えるが、角度が変わると凛として男らしくなる。互いにエメラルドの意味を持つ名前に、気付いてくれていた。些細に思える気付きが大きな嬉しさに変わった時、僕の目が僅かに潤んだ。さすがにそんな顔は見られたくなく、強引に絵を受け取ると立ち上がって窓辺に急ぐ。
窓に拳を当てた時、既に温かった。豪雨で急激に冷やされたと思いきや、一瞬にして外気を温める。もう、すっかり夏を迎えていた。夏休みになれば、これまで以上に翠に会える。そう思っていたのにと、拳が震えてしまう。この気持ちを、何て言えばいいのだろうか。引いてしまうだろうか、聞き流されてしまうだろうか。それなら、ただの友達としてこの先もいられるようにすればいいのだろうか――
「ほら、緑みろ! 二本出てる!」
体が大きく揺れたかと思うと、急に体温が上昇した。翠はベッドから飛び出して僕の体を掴み、虹景色に興奮していた。まるで、明日からも変わらずずっとここにいるかの様に。
岬に広がる煌びやかな水面に、薄っすらと二本の虹が差していた。鮮やかな青空は、先程までの豪雨などなかったかの様だ。辺りの木々が涼し気に揺れ、光る雫が風に乗って舞い散る。
「また会えるよ、俺達」
病弱だというのに力強い言葉をくれる翠に、耳を疑った。焦って目を合わせると、そこには太陽そのものと呼べる笑顔があった。
不意に口が開いたと同時に、病室の引き戸の音が合わさる。看護師が退室を促した拍子に、掴む絵に力を込めた。
「僕は……僕は君が――」
「お時間ですよ」
その声に、翠の視線が逸れてしまう。それでも、関係無かった。
「僕は君が好きだよ!」
涙の代わりに、滝の様な冷や汗がシャツを濡らした。言ってしまった。やってしまった。意を決して握り締めていた絵が、手が震えてならない。目前の二人の視線のやり取りが、怖い。逃げよう、もうこれまでだろうから――
僕は制カバンを掻っ攫うとドアまで駆けかけたその時、誰かが腕を取った。振り解けない。細くて冷たい手を、振り解く訳にはいかなかった。しかし、あまりの恥ずかしさに振り返れない。始業式から今までの気持ちを、たった五分の内に晴らしてしまう事になるなど誰が想像できただろう。どうにも整理できず、乱れ切った自分を見て欲しくなかった。
「放してよ!」
「ありがとう」
僕は思わず、翠に振り向いた。今、何て言ったのだろう。
広大な海景色に、くっきりとした二本の虹が空を彩っていた。色濃く主張するそれはまるで、僕達を包むようで安心できた。
「必ず帰る。その時は、最初に会いに来てくれよ」
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