≪閑話≫ 忍び寄るは心の綻びへ
「そんなに……心配しなくても、大丈夫よ」
「――エリーヌ」
「いつものこと……じゃないの」
この会話は床につくようになって3日経った日の事だった。
布団の中で弱々しく言葉を紡いだ彼女は、クスト・ハイウェルの最愛の女性である。
結婚してもう30年以上経つが、いつまでも初めて見た時に抱いた胸の高鳴りを感じる、儚く可憐な笑みを湛える女性であった事を思い出す。
思えば、元々彼女は体が弱く陽に当たることないまま過ごしてきた事で、透き通るような肌と潤んだ瞳を持っており、クストの庇護欲を掻き立て一瞬で恋に落ちたのであろうと後に分かる。初めての出会いは、つまらない夜会を抜け出して外に出た時だった。一目見た時、まるで精霊と出会ったのだと勘違いする程心ときめくものだった。
エリーヌに一目ぼれをしたクストは、彼女に話しかける事も出来ないまま、彼女が夜会の途中で帰って行く姿を目で追っていた。後から聞いた話では体調がすぐれず、早々に帰宅するところだったという。
その運命の出会いとも呼べる一瞬から、気付けばクストは名も知らぬ彼女の事を探していた。
そうして夜会から半年もして突き止めた彼女の正体は、男爵家の長女、エリーヌ・カルダーニであると分かった。
当時彼女は17歳、クストが20歳の時である。
生まれついて体が弱く滅多に夜会へは顔を出す事はない彼女をクストが見掛けた際、その時はたまたま体調も良く、婚約した兄を見守る家族として挨拶のために出席したという事であった。
そして人に酔って体調を崩し、早々に帰るところをクストが見掛けたのだ。
元来、体の弱い彼女は結婚する気もなく出来るとも思っておらず、クストが婚約の申し出を行ったところ、即座に断りの返事が届いたほどだ。
格上の伯爵家からの申し込みにも係わらず断ってくるとはと、クストの父親などは激怒していたが、クストはそれでも諦めなかった。
そうして1年が経った頃やっとクストと話をするという機会を設けてもらい、焦がれる彼女と対面すれば、目の前に現れた彼女は一回り小さくなっていて、ずっと寝付いていたのだと打ち明けられた。
「このようなわたくしですから、結婚などとても……」
伏し目がちに無理に笑う彼女は、クストには女神にさえ見えている。この1年で想いは募るばかりだった。
「傍にいてくれるだけで良い。どうか……どうか……」
こうして何度か顔を合わせる内にクストの心に寄り添ってくれるようになった彼女は、やっと首を縦にふってくれたのである。
こうしてようやく結婚したクストとエリーヌは誰が見ても仲の良い夫婦となり、その後妻が望んだ子供も儲ける事が出来たものの、クストの愛情は依然エリーヌ一人へと向けられたままだった。そうして穏やかに年を重ね、心安らかな日々を送っていた。
それは永遠に続くものではないと分かっていたものの、クストには余りにも突然であった。
2年前の冬、然程雪は降らないとはいえ急激な気温の変化で咳が続いたある日、彼女は吐血し倒れた。
ハイウェル家お抱えの医者の診断では肺炎。だが普通の薬ではもう対処できない程に悪化しており、王都の医者の処方でなくば治す事は出来ず、体力が尽きれば終わりであろうという話だった。
城にある医術局はこの国内外からの選りすぐりの者達が在籍しており、常に新薬の研究もされている部署である。
クストは早急に王家へと手紙をしたためた。時間がないのだ。
ハイウェル家の医師の診断書を添え、妻の為に薬を用意して欲しいと。全財産を差し出す覚悟でクストはその手紙を、自身が雇う自警団の傭兵に託したのである。
「これを王都へ届けてくれ。大至急だ」
「かしこまりました」
焦燥にかられながらも、クストは王都からの連絡を待つ。
3日経ち10日経ち、流石にそろそろ何かの連絡があるはずだと首を長くしていても、それ以降も城からの連絡は梨の礫だったのである。
どんどん体力もなくなり弱って行く愛しい妻を見て、クストは絶望にかられた。
本来ならば自分が直接城へ赴き奏上するべきところであるとは分かっていたが、どうしてもこの場を離れる事は出来ず、願いを込めた手紙を託したのだ。それなのに愛しい妻を助ける事が出来ないのか……。
そうして次第にエリーヌは会話をする事も出来なくなり、「ヒュー、ヒュー」と空気が鳴る音だけを発するようになった。時々目を開けて何か言いたそうな顔をするが、クストは手を握り「わかっている」と頷いてみせる。会話をすればそれだけ体力を消耗する。もうその体力も削る事は出来ない程、愛しい妻は弱っていたのだ。
そんなある日、見知らぬ行商人だと言う男が訪ねてきた。
最初は歯牙にもかけずに追い返していたのだが、その男は薬を扱う行商人で、「奥方様を少しでもお楽にしたい」と言い募られ、最終的には藁にもすがる思いでクストはその男を家の中へと入れることにしたのだ。既に街ではハイウェル家の奥方が病に伏していると言う噂が広まっていた為、それを知って訪ねてきたらしい。
そして荷物の中から出した薬、これは気分を楽にする薬だと言った。クストは手ずから粉を水に溶かして少量ずつ口の中に入れてやれば、少ししてエリーヌの表情から苦痛が消えたのである。
依然顔色は悪いままだが、苦痛を取るだけでもしてやれることはあるのだと、クストは以降、その行商人から度々薬を購入し、愛妻の看病をする毎日となった。
「この薬は高価な物でしてぇ」
「金ならいくらでも払う」
そうは言っても、一度に支払っている薬代はかなりの金額だった。クストは家にある装飾品も手放す覚悟だ。
「もしお金が心配でしたらぁ、この地で採れる小麦を都合してもらっても良いですよぉ。わたしの知り合いがぁ、小麦を仕入れたいと言っていますのでぇ」
「……小麦は国に管理されている。出荷量を減らすことなど出来るはずもない」
「でしたらぁ、徐々に減らしていけば気付かれませんよぉ?」
「………考えておく」
「はいぃ。良いお返事を期待しておりますぅ」
それから1か月後、クストの全てであった最愛の妻は、その腕の中で静かに息を引き取ったのである。
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「父上、いつまでそうしておられるのですか」
妻が残した1人息子は、クストが視線を向けてくる事もなかった者。幼い頃は侍女たちにその育児を任せ、クストは妻だけに視線を向けて来た。
それがいつの間にか大人になり、既に齢30も過ぎているらしい。いつまでも身を固める事もなく、何をしているのかクストが知るはずもないが、エリーヌがいなくなった館にはこの息子しか残されなかった事に、クストは絶望すら感じていた。
執務室に飾られているエリーヌの肖像画を見詰めていたクストは、いつの間にか入って来ていた息子サイクスへと視線を向けた。
ただしその目に輝きはなく、表情さえも抜け落ちているが。
「王都のタウンハウスをくれてやる」
「え? 本当ですか?」
「何度も言わせるな。お前はそちらで暮らすと良い」
「――ありがとうございます父上! それでは早速準備にかかります」
嬉しそうにいそいそと出て行った息子の背中を眺め、クストはため息をつき再び肖像画へと視線を向けた。
息子であるサイクスからすれば、初めて父親から何かを贈ってもらったという喜びで溢れていた。だがクストにはもう要らぬタウンハウスを、要らぬ息子にくれてやったまで。そんなすれ違う心を互いに気付く事は、永遠にないだろう。
「エリーヌ。君だけが傍にいてくれれば良い……」
優しい微笑みは、絵の中のエリーヌにのみ向けられていた。
「いつまでも君を想っている……。仮令君の体が亡くなろうとも、心はいつでも一緒だ」
この時から既に、クスト・ハイウェルは壊れていたのかも知れない。
普通の家族であればしない判断をし、最愛の妻が残した息子さえ追い出したのである。
クストが目を瞑れば、出会った時からのエリーヌの顔が次々に思い出された。
そうして長い間執務室に籠もっていたクストの下へ、王都の近衛だと名乗る男が来たのは、この直ぐ後の事である。
明日は96話を投稿いたします。