9. 桃色の花
レインがいる川瀬から20m上流、水面に桃色のスカートが広がり、まるで花が流れている様だった。
川の両脇はまだ浅瀬でレインの膝位の水位だが、川の中ほどは水が青くなっており、目視でも多少の深さがあると判る。
レインは桃色の花を目で追いつつ浅瀬を上流に向かって駆け出し、中央を流れるその花に向かって躊躇なく飛び込んだ。
― ザバーンッ! ―
レインが立てる水しぶきの音で、流石に焚火の周りにいた者達も気付く。
「あ!ユミィが流れてる!」
一早く声を上げた男の子が帽子を掴んだまま流れて行く女の子を指させば、大人達も手に持つ物を放り投げ慌てて走り出した。
しかしレインはそこまで視界には入っておらず、目の前に流れてくるものを注視する事で精いっぱいだった。
勢いよく飛び込んだ中央部の水深は2m程で、レインも足が届かない。それが子供であれば尚更、流れに身をゆだねるしかないだろう。
流れてくる女の子は顔を上に向け、手に掴んだ帽子に縋るように水面に浮き沈みしながらこちらへと向かってきた。
しかし、いくらゆったり流れてくるとはいえ川の流れは真っ直ぐでなく、岩があれば軌道も変わり、そうして左右に漂いながら流れてくるものにレインは手を伸ばす。
女の子もレインが見えたのか、その手を掴もうと手を伸ばした。
その指先が触れた時レインは体を伸ばし、その細い腕をガシリと強く掴む。
そして急いで胸に抱き込むように引き込み、レインの肩に上半身を担ぎ上げた。
― バシャンッ ―
女の子はやっと縋るものができたというようにレインの首に強くしがみ付きつつも、ゲホッゲホッと呼吸をする事に意識を向けている様だった。
「もう大丈夫だ。しっかり掴まってるんだぞ」
レインは片手でしっかりと女の子の体を押さえ、片腕だけで水をかいて泳ぎながら浅瀬へと戻って行く。
その距離はたった8m程。
そしてレインが流されつつも浅瀬に近付いて行けば、レイン達を追うように集まって来た6人がその先で待っており、浅瀬で体を起こしたレインが抱き上げる子供に、女性たちが涙を浮かべ手を伸ばす。
「ユミィ!」
「ユミィちゃん!」
「……ぅう…ぅうわぁぁーん!!」
レインは伸ばされた女性たちの手に女の子を渡してから、その子の周りに集まってくる者達に場所を譲る。
(傍にいては、皆を濡らしてしまうな…)
数歩下がりながらレインはそんな事を考え、手で顔を拭ってから視線を上げた。
するとすぐ目に前に20代位の男性が一人立っており、レインは咄嗟に一歩下がる。しかしレインの動きに合わせてその男性も近付いてくる為、慌てて手を伸ばしてレインが首を振った。
「あの、濡れるので…」
しかしレインの気遣いもむなしく、濡れる事も厭わずにレインが伸ばした手を、男性はガシリと両手で掴んで頭を下げた。
「娘を助けていただき、ありがとうございました!」
「いえ、当然の事をしたまでですから」
「いいえ!本当は私が見ていなければならなかったんです!それなのに…。貴方は娘の命の恩人です!本当にありがとう!」
掴んでいる手が震えている事に気付き、レインはもう片方の手で頭を掻いて気安い笑みを向けた。
「いえ、助かって良かった。偶然通りかかったんですが、気付いて良かったですよ」
とあくまでも偶然を装ってレインが答えれば、やっと頭を上げた男性が顔を高揚させて涙を浮かべていた。
「俺の事よりも先に、彼女を温めてあげて下さい」
レインはまだそこに居るままの皆を示し、その男性にやんわりと指示をだす。
「あ、はっはい!」
その話で我に返ったのか男性が慌てて皆を促し、女の子を抱き上げて焚火の場所まで戻って行く。
そんな様子に笑みを浮かべたレインは、踵を返して荷物のある木々の中へと一人戻って行った。
レインは別に、礼が欲しいという意味で助けた訳ではない。
そもそも騎士に志願したのは父親の影響もあるが、ただ皆を守りたいからというそんな思いからである。
今回の事もその延長線上にあって、たまたまレインが今日起こる事を知っていたからであり、知っているからこそ不幸な事故を未然に防ごうとしただけ。
だからレインは、小さな女の子が助かっただけで十分なのだ。
そうしてひっそりと木々の中まで戻ったレインは、持ってきていた荷物から手ぬぐいと上着を出し、木陰に隠れながら手早くシャツだけを取り替えてフードを被るとその場を後にした。
騎士団員は迅速を貴ぶため、着替えも早いのである。
そしてその頃になれば、忘れ去られた女の子の帽子だけが滝下に漂っていたのだった。
それから街へと戻ったレインのズボンも、2時間が経過した今は殆ど渇き、見た目には濡れた事もわからなくなっていた。流石にブーツは途中で一度脱いで少し乾かした為、ブーツも少し色が変わっている程度にまで乾いていた。
(ちょっと寒くなってきたな…流石にやばいか)
街中を歩きつつ、俯き加減に視線を向けるレインだったが、そんなレインに声を掛けるものがいた。
「おい、レインか?」
レインが顔を上げて声の主を振り返れば、今朝顔を合わせたギルノルトが制服姿で立っていた。その隣には今日の組になっている2人が立っており、ギルノルトがこの時間に街中の巡回当番であった事をレインは思い出した。
「あぁ、ギルか。お疲れ様…」
歯切れの悪いレインの返事に、ギルノルトが訝しんで近付いてきた。
「どうしたんだ? 少し顔色が悪いか…?」
(顔にまで出ているか…。やはり日陰の中を通ったから、冷えてしまっているのかも知れないな)
レインは苦笑しつつ何でもないと首を振る。
そこでギルノルトの少し後ろにいた2人も近付いてきて、レインの顔を覗き込んだ。
「あ、本当にレインだった。良くわかったなギルノルト」
「俺には、怪しい奴にしか見えなかったぞ?」
クククと笑う2人はレインと一緒のレッド班で、先輩のヒュースとミウロディだ。
ヒュース先輩はレインの5歳上で23歳。焦げ茶の髪をオールバックにして、左眉に走る傷を勲章のように見せている為少し怖い人物にも見えるが、実は面倒見の良い先輩である。
そしてミウロディ先輩はレインの3歳上の21歳。レインが入団する一年前に入団していて、レインとギルノルトをいつも揶揄ってくる気安い人物でもある。そしてラズベリー色の髪のトップだけを伸ばして後ろで三つ編みにして垂らしており、少し変わった髪型をしている為によく目立つ。
「ヒュース先輩、ミウロディ先輩もお疲れ様です」
レインが苦笑しつつも先輩達に挨拶を返す。
「レインは今日デートだって聞いたんだけど、一人なのか?」
(ギルが、この2人にも話したんだな…)
ミウロディが周りをキョロキョロと確認するように言い、レインはフードを落として頭を掻いた。その手は少しヒヤリとして、髪はまだ少し湿っているようだと気付く。
「はい。一人でピクニックに行ったんですが、ちょっと川に入って濡れてしまったんで、早めに帰って来たんです」
「ああ…確かに湿っぽいな…」
ヒュースがレインの頭をガシガシとかき混ぜ、まだ湿っているなと眉間にシワを寄せた。
「ほんとは、落っこちたんだろう?」
ミウロディは心配そうなヒュースとは違い、そう言っていつもの様に揶揄ってきた。
「ははは。まあそんな感じです」
とレインは抵抗する気力も湧かずそう流せば、流石に反応がおかしいと気付いたのかミウロディも渋い顔になった。
「おいレイン、今日はもう早く帰って寝ろよ」
そこでギルノルトが引き留めた事を後悔したかの如く、先輩たちに割って入り早く帰るように促した。
「そうだな、早く帰って体を温めるんだぞ?」
ヒュースも心配そうに言ってくれた為、レインはそこで挨拶をして解放された。
(流石に、濡れたまま時間が経ちすぎたな…)
いくらレインが着替えをしたからとは言え、冷えた体は動いても温めきれなかったらしく、段々と足も重くなってきているとレインは気付く。
明日は通常勤務の日であり、1度目の日だ。
明日が何もない2度目の日ならばこれでも問題はなかっただろうが、流石に1度目の日は情報を集める為に寝込んではいられないのだ。
だが少女を助けられて本当に良かったなと、虚ろになる思考の中、足早に宿舎のある丘の上へと戻って行くレインだった。




