8. 風の悪戯に
首都キュベレーは、郭壁に囲まれた城郭都市だ。
街を囲む壁は高さ30m程、その形は八辺形であり南面に正門と呼ばれる大きな門が設置され、人々はそこで検問を受けてキュベレーへと入って来る。
入ってすぐの大通りが曲線を描きながら緩やかに登り坂となっており、その道を蛇行して登り切れば、その頂にある城壁へと辿り着く。そして城門を潜れば正面に美しい庭園があり、常緑樹で区切られた庭園の両脇に騎士棟や演習場、城で働く者達の宿舎棟、菜園や工房、倉庫や厩などが配置され、最奥の丘の上にこの街の中枢となる王宮がそびえ立っているのだ。
レインの宿舎は東側の演習場の奥にある。そこから出たレインは、まだ人もまばらな演習場を横目に城門を通過する。
今日の服装はもちろん制服ではなく、飾り気のない生成りのシャツにグレーのパンツを穿き、動きやすさを重視した服装だ。その上からフードの付いたコートをすっぽりと被り、知り合いに話しかけられないように足早に正門へと下って行った。勿論そのコートの下には短剣も隠されている。今日は休暇日であり、流石に国から支給された長剣を持って出る事は憚られたため、これはレイン自前の短剣という訳である。
レインは昨日の情報で、ある程度の場所を既に特定していた。
というのも、レインが外回りの時に川のある西側の討伐に加わった事がある為で、その時に滝のある場所は把握している。
しかしレインは、彼らがピクニックに行っている場所を知らない。
最終的に子供が流されたのがその滝であって、それよりも上流である事しか今は分からない為、レインは滝を起点にしてその場所を探す予定にしていた。
王都キュベレーは国の北に位置し、その北側には“勇壮な”という名のフォルティス山脈が連なっている。この山脈がある為に、ローリングス国へはそこを通過して入国する事は困難であり、実質この山脈が首都キュベレーの背後を護っていると云っても過言ではない。
そんな街の西側にはフォルティス山脈から続く川が流れており、その川の恩恵も受けながらキュベレーは営みを続けている。その豊富な水を取り込んだ堀が街の郭壁を囲み、首都の治安を確固たるものとしている事も一例だが、街中の生活もその資源があるからこそ潤ったものになっているのだ。
目的の滝がある場所は、正門を出て右側。門を出たレインは街道をはずれ、北西に向かって行った。
その滝は少し上流に位置しており、山脈から流れる小振りな川に一か所あったはずだ。レインは記憶を頼りに、朝の木漏れ日が差す木々の中を抜けて進んで行った。
過ごしやすいこの時期は魔物の活動がひと段落した事もあり、毎年森や川辺などにピクニックに出かける家族も少なくない。そんな楽しい日であるはずのひと時が悲しい思い出になって欲しくないと、その一心でレインはそこへ向かっている。
レインにも、弟を失った時の記憶はまだ残っている。
その弟は今も元気に暮らしているが、あの時の後悔と絶望を知っているからこそ、そんな思いは誰にもして欲しくないと思うレインだ。そんなレインだからこそ、ユニークスキルが巻き戻す日々を利用して、悲しむ人が一人でもいなくなるようにと願っていたのだった。
こうしてレインが王都を出て2時間程が経過した頃、時刻は既に10時近くになっている。
酒場で聞いた情報からは正確な時間を知る事はできなかったが、昼の用意をしている間に居なくなったということから、後1時間もすればその出来事が起こってしまうだろうと考えられた。
(確か、この辺りに滝があったはずだ)
レインは水の音がする方へと意識を向け、下草を踏みしめながら進んで行く。
そうして木陰から出たレインが、その眩しさに額に手を添えて視線を向ければ、目の前には幅7m程の早瀬が現れ、下流5m程の地点からその先は見えなくなっている。
(あった…滝だ)
レインは川に沿って下流へと向かって行く。そして際に立てば、川から流れた水は15m先の眼下まで瀑布を作り水煙を上げていた。
「結構な落差があるな。こんな所に落ちてしまえば、まず命は助からないだろう…」
レインは眉間にシワを寄せ、瀑布を見つめて呟く。
この滝の下流には他の川との合流地点があり、更に流れも早く川幅も広い。その為、家族連れで遊びにくるならば、流れの緩やかなこの川の上流という事も頷けた。
「よし!」
とレインは気合を入れ直し、振り返って川を辿って上流に向かっていった。
そうして30分も歩けば人の気配がある事に気付き、レインは川から離れて木々の中に入ると、足音を忍ばせてその方向へとゆっくり近付いて行く。
そして木の陰に隠れ、30m程離れてその場所をうかがった。
「お母さん、もうお腹空いたー」
「もう少し待ちなさい。まだお昼前なんだから」
「え~!だってお腹空いてるんだもん!」
「僕もお腹減ったよ」
「朝から走り回っていたからなぁ」
「ふふ。男の子は元気よね」
ハハハと笑い声が響く温かな日差しの中、河原に敷物を広げて男女4人がそこに座っていた。この場所の川幅は15m程で、水深も浅く流れもゆったりしている。
その2組の家族連れには子供が3人いるようで、その内の10歳くらいの男の子2人が女性たちの周りで棒を握り締め、お腹が空いたと騒いでいる様だった。そしてその敷物の脇では、桃色のワンピースに赤いリボンが付いた麦わら帽子をかぶる3歳ほどの小さな女の子が一人、小石を積み上げて遊んでいた。
(良かった…間に合ったようだな)
昼食はまだだという話を耳にして、レインは胸を撫でおろす。確か女の子が流されたのは、親が昼食の支度をしている間の出来事だったはずだ。
レインはコートを脱いでその上に座ると、そこから暫く様子を見守る事にしたのだった。
それから少し経ち、食事はまだかと騒ぐ少年達に根負けしたのか、母親たちがヤレヤレと渋々腰を上げた。
時刻は11時を回った頃で、そろそろお昼にしようかと大人達も折れたようだった。
「ちょっと待っててね。スープを温める為に火を熾すからね」
「あったかいスープ?」
「ええ。体を冷やすといけないからね、温かい物を飲みましょう」
「確かにいくら過ごしやすくなったとは言え、じっとしていると体が冷えるからな」
川辺には風が通り抜けていくが、それは山からの冷たい風も含まれている。確かに少し冷えてきたなと、レインはシャツの両腕をさすった。
そうして大人達が敷物から少し離れた河原に集まり、火を熾し始めた。少年たちが嬉しそうに周りに落ちている木の枝を拾ってきたりと、一応手伝いはしているようで、皆楽しそうに昼食の準備を始めていた。
とその時、まだ敷物の近くで一人遊んでいた女の子の帽子が、風に飛ばされてふわりと舞い上がった。
「あっ」
小さく呟いた女の子の声は、男の子たちとの会話に忙しい大人達には気付かれてもいない。
女の子は帽子を目で追ってから大人達の方を振り返ったが、再び帽子に視線を戻すと立ち上がった。
その帽子は先程の風で、女の子の3m先に飛ばされていた。その為まだ帽子は目と鼻の先にあるものの、それは3歳の女の子には少し距離があった。
足元の石によろけながら、ゆっくりと女の子は帽子の方へと歩いて行く。そうしてやっと手が届きそうな場所へ来た時、再び風がその帽子をさらってふわりと舞い上がった。女の子が「あっ」と手を伸ばしてみたものの、その風は再び帽子を川端へと連れて行ってしまったのだ。
(これはまずいな…)
レインはこの先の出来事が手に取るようにわかるが、まだ出て行く事はできない。その為、レインはグッと手を握り締め、女の子に無事であれと心の中で祈った。
だがレインが考えた通り、女の子は帽子を追いかけて川の淵まで近付いてしゃがみ込むと、目の前で辛うじて石に引っ掛かっている帽子に手を伸ばしたのだった。
― グラリッ ―
(あぶない!)
― ポチャンッ ―
入水する音は小さな体を反映し、とても小さな音だった。その為か、近くで火を囲む者達には誰一人聴こえた様子もない。
(チッ、ここで気付かなければ助からないんだぞ!)
レインは勢いよく立ち上がると、10m先の川に向かって駆け出して行くのだった。