112. 微笑み
領主の館前にある庭は、昨日レインが残した戦闘の爪痕が残されていた。
傀儡が拳を突き付けた地面はえぐれ、芝生が輝いていた庭は発掘現場の様な有り様だ。他にも誰かが弾き飛ばされたのか、周りにある木々の枝も折れ無残に垂れ下がっている。
まぁひとことで言えば、貴族が管理する庭には見えない状態という事である。
そんな庭を進むレインは、開かれたままの屋敷の扉へと向かって行く。
その扉の前にも当然ながら、黒い制服を纏った団員が厳粛な面持ちで立っていた。
レインはその彼らに会釈をして通り過ぎる。
会話は聞こえていないにしても門前でのやり取りを見ていたのか、彼らもレインへ頷いて何も言わずに通してくれた。
正面からは初めて入るレインは足を止め、玄関ホールの天井の高さに驚く。入口の空間は2階までの吹き抜けで、灯りは灯されていないが、どこからか陽の光が差し込んでいるのか薄暗いながらも広い空間を見渡す事が出来た。
入口から見える上階には、装飾のされた腰まである飴色の手すりがこの空間を囲むように続いており、それが内廊下になっていて左右の棟を繋いでいるようだ。レインが2階で見た突き当りだと思った左側の先は、このホールに繋がっていたらしいと、今初めて知る事になった。
そんなホールの足元には、繊細な金色の柄が施された朱色の絨毯が敷き詰められているものの、随分とこの空間に馴染んでいる様子から古いものだと分かる。
それに、玄関周りにありそうなゴテゴテした装飾品もなく、ポツンと使われていない花瓶が1つ台に置いてあるだけだ。貴族はもっと見栄えを気にしていると思っていたが、建物自体は立派なものの、中は案外質素なんだなとレインはそんな感想を抱く。
そんな1階の両サイドには曲線で縁取られた枠から廊下が続いており、レインはロイの気配を探る。
だが1階からは人の話し声はせず、ロイはここには居ないのだろう思う。だとすれば、昨日話し声が聞こえた部屋であろうかと見当をつけ、レインは足を踏み出すと迷わず左へと向かって行った。
昨日入った場所を思い出しながらいくつかの扉を横目に進んで行くと、レインの視界に見覚えのある階段が現れる。
ここまでの間に人の気配は全くなく、今使用人たちは息を潜めるように隠れているのだろうと思考する。
昨日は屋敷の中で突然始まった戦闘に続き、その後傭兵たちが全て拘束されたのだ。流石に使用人たちも身の危険を感じたに違いない。それは領主の敷地内での出来事であり、仕えている領主は捕まってはいないものの、その後も監視されている屋敷に逃げ出す事も出来ずに怯えているはずだろうと。
ここは昨日も人気の少ない屋敷だったが、今日は更に重苦しい空気だけが流れているようだった。
そんな中を、レインは粛々と階段を上って行く。
階段を上れば昨日見た風景に出る。
そして昨日向かった方角へと進めば、廊下の壁に出来た無数の穴が目に入る。
それはダラクという者が付けた剣の痕。レインはダラクの名前すら知らなかったのだが、最後に仲間が言葉にした事でその名を知ったのだ。まあ既にこの世にいないのだから、今更という感じではあるが。
そうして1つの扉の前に到着すれば、思った通りに中から人の気配がした。
一人はロイ、もう一人はリーアムのもの。そして知らない気配があるので、それがこの館の主であろうと推測する。
だがレインは中に入らず、扉の前で立ち止まったままだった。
流石に急いでロイの後を追ってきたものの、レインが立ち入って良いものかと今更ながらに考えたのだ。
ロイもリーアムも、仮令伯爵に襲われてもそれを返り討ちにするだけの強さがある。
それに貴族の事は近衛の担当であり、レインの担当領域からは超えてもいる。その為今頃レインが駆け付けたところで、要らぬ存在ではないかとも思ったのだ。
(ここで待機して、何かあれば入る事もできるしな……)
レインは扉を守る近衛の様に、壁際に立って様子を見守る事にしたのだった。
しかしレインのそんな考えが無駄であったかのように、すぐに中から何かが割れる音が聴こえてくる。
―― ガシャーンッ! ――
「$∥#‘∬%“!!」
その音を感知したレインは、弾かれた様に扉を開けて中に入った。
そして扉の前で、目の前の光景を目にして足が止まる。
そこには執務机の前にあるソファーから崩れ落ちた白髪の男が、血を吐きながら絨毯の上でもがき苦しんでいたのだった。
「どうした!」
声を掛けたのは、その向かいのソファーに座ったままのロイと、その隣に立って剣に手を添えているリーアムに。
「自ら毒を飲んだらしい」
ロイの答えは感情の起伏もなく、淡々とした声色だ。もがき苦しむ男を前にしても、ロイの姿は王族という身分の装いに見合う落ち着いたものだった。
ロイの前にあるテーブルには2客の飲み物が用意されていた様で、ロイの前のカップは手を付けた様子もなかったが、男の前にあるソーサーは割れ、カップも粉々に砕けて液体と共に絨毯に散乱している。
「おい、助けないのか?」
困惑するレインには、冷静なロイの声が続いた。
「ここには解毒剤もない。それにもう手遅れだ」
隣のリーアムも剣から手を下ろし、睨むような視線を倒れる男へ向けている。
「それに、ロイ様の飲み物にも同じ毒が仕込まれているようです。王族を殺害しようとしただけでも死は免れないのですから、ここで死のうが結果的には同じこと」
と、リーアムは当然の様に補足した。
「ハイウェル伯は、私が来ることを予測していたのだろう。伯爵は王都の息子が捕まった事も、既に知っていたようだからな」
ここまで彼と何を話していたのかは知らないが、ロイはレインへそう言い添える。
もう一度男に視線を向ければ、そこで倒れていた男はこの短時間で既に動きを止め、その顔はどす黒く変色していた。
「―?!―この毒は」
「ああ。王都で使われていた毒と同じものだろう」
「やはりこいつは王都の店とも繋がっていたって事か……」
「それはもう聞く事はできないが、恐らくは」
苦々し気に言うロイは、そこで徐に立ち上がった。
その顔を見れば、やはりロイもここで死なれるよりは王都へ連れ帰り、この男に一連の証言をさせたかったのだろうと思い至る。
「ロイ、なんで小麦を出さなくなったのかは聞いたのか?」
「いいや。話は殆ど出来ていなかった。我々が席についてすぐの事だ」
「そうか……。色々と謎のままって事だな」
「…………」
そんなロイに、レインは問いかけるように眼差しを向ける。
「だが、この状況を変えられるとすれば……?」
「―――今日はルーナか」
「そうだ」
レインの返事に、ロイは考え込むように倒れる男へ視線を向けると、「はぁ~」とため息にも聞こえる息を吐き出す。
「レイン、ソールではもう少し早く来られるか?」
「ああ問題ない。ロイが宿に戻っていた気配は薄々感じていたから、その時に合流すれば」
「そうだな。それではそこで私にこの事を話してくれ」
「わかった」
ロイ達はハイウェル伯が亡くなった事で、ここでする事もなくなったのだ。
「引き上げるか」
「それでは外の者に、この部屋の事を伝えて参ります」
「頼む」
「畏まりました」
一足先に部屋を出て行くリーアムに続き、レインとロイはゆっくりとその部屋を退出する。
そうして誰もいなくなった部屋の壁に掛かる肖像画だけが、残されたハイウェル伯の亡骸へと優しく微笑みかけていたのだった。




