106. 潜入
― トンッ ―
壁に軽く手を添えて飛び降りれば、隔壁の壁に体重を分散させたお陰で殆ど音も立てずに着地する。
隔壁も元は土であるため、レインは“牽引”という魔法を使っていた。
この魔法は元々地中に引き込む為に使うもので、相手の足を拘束する時などに使ったりもする。ただその魔法もレインが改良し、支えてもらう用途で使えるようにしたのだ。体重を分散させるため、添えた手を“引っ張ってもらう”という形である。
地面に着いて、目の前にある木の陰に隠れ様子を見る。
今の音で誰かに気付かれたかと気配を探るが、今のところ人影もなく気付いた者はいないようで息を吐き出す。
今日の行動は云わば“賭け”だ。
本来危険が伴う事をする場合は警戒する意味もあり、必ずと言って良い程ルーナに行動を起こしている。今回のソールで全く違う行動を取る事は、通常ではありえないと言っても良い。
しかしルーナで盗賊と傭兵たちを捕縛した事を踏まえ、同時にボンドールの動きも把握するべきだとレインは考えた。もしかするとロイ達の動きも、こちら側で知られているのかも知れないからと。
そうなれば明日ここへ戻ってくるはずのロイ達は、領主や残った傭兵たちに何かされる恐れがある。戻ったところを襲われる可能性も否定できないのだから、誰かが内部を調査する必要があると考えたのである。
ここは屋敷の裏で、普段は人目に付かぬ場所だ。裏庭の様なスペースにはシーツなどの洗濯物が干してあり、辛うじて人が住んでいる様子が伺えた。ただし建物からは物音もせず、ひっそりと静まり返っている。
レインは木陰から建物へ近付くと、近くにある小さな出入口の扉脇で立ち止まる。耳を澄まして扉内の様子をうかがうも、物音ひとつ聞こえなかった。
レインは扉の取っ手に手を掛け、ゆっくりと引く。
小さく隙間を作って中を覗き込むもやはり人の姿はなく、レインは建物へと素早く身を滑り込ませていった。
入った場所は狭い廊下だった。
廊下は真っ直ぐに伸びており、その途中にはいくつかの扉が見える。
レインは貴族の館に足を踏み入れた事はないが、ここは使用人たちが使う場所なのだろうと見当をつけ、簡素な廊下を進んで行く。
周辺には今人の気配がない所をみると、屋敷を整える為に使用人たちは動き回っているのだろう。日中は主の食事の用意や掃除に洗濯など、普通に考えてみても広い建物にはやることが沢山あるのだろうと思えた。
廊下の突き当りはまた扉になっており、その扉は艶やかな光沢を持ちこの廊下にある扉とは素材が違う物だと分かる。ゆっくりと引いた扉の隙間から辺りをうかがえば、扉の隙間から緩やかに風が通り過ぎていく。
その風に、レインは鼻にシワを寄せた。決して埃臭いという訳ではなかったが、何となく重い空気が流れている気がしてレインはげんなりとする。
(貴族の家は、こんなに辛気臭いのか?)
こんな中で生活する者達が、笑顔を見せあう家族のようには到底思えなかったのだ。当然レインは、この家には当主一人しか住んでいない事を知らない。だがそれを知っていればレインですら、この重い空気も“当然だ”と思ったかもしれないが。
(傭兵の姿はないんだな……)
レインがこの場所に足を踏み入れたのは始めてだ。
その為、レインは屋敷の中にも傭兵が見張りに付いているのかと思っていたのだが、それは杞憂だったと知る。思いのほか動きやすくなった、とレインは口角を上げ直ぐに足音を忍ばせて廊下を歩き出す。
入った場所は建物中心の裏手だった様で、扉の前には左右に続く幅広い廊下があり、レインはまず右へと進路を取った。
人の気配もない廊下を少し歩いた所で、カチャカチャと何かが当たる音が近付いてくる。レインは手近にあった扉を開いて体を滑り込ませ様子をうかがう。その音は次第に近付いてきて、それがレインの居る扉の前を通過していった。ほぅっと息を吐いて扉に背を預けた。
振り返ったレインの視界にあったものは、ただの広い部屋だった。
カーテンはしっかりと閉じられており薄暗い。目を凝らせば、天井からは薄暗い中でもキラキラと輝く石が付いた、豪華な照明が垂れ下がっていると分かる。今は灯されてはいないそれは、明かりをつければ広い部屋も十分に明るくなるだろうと想像がつく大きな物だ。
更に視線を下げれば、広い部屋の壁際に白い布が掛けられた物が並べてあった。布の隙間から細い棒の様なものがみえるため、それらはテーブルや椅子などだろうと思い至る。
この広い部屋は綺麗に片付けられていてるものの、すぐには使う予定の無い部屋なのだと想像がついた。
レインは扉の向こう側の気配を探り、誰もいない事を確認して廊下に出る。そうして再び気配を消して歩き出して行く。
辿り着いた先には4人が並んで歩けそうな幅の階段が設えてあり、緩やかに弧を描きながら上へと続いている。
階段の下で一度身を潜めたレインは、もう一度辺りを確認して階段を上って行った。
階段を上り切った先で壁を背に、気配を探る。
2階は1階とは異なり左右の突き当りが見え、人の気配もあると分かる。目を凝らせば、いくつかの扉を確認する事が出来た。人の気配は……こちらだな。
そしてその気配を辿り、レインはひとつの扉の前に着く。
中からは微かな話し声が聞こえるところをみれば、何人かがこの部屋にいる事が分かり、レインは扉に耳を傾ける。
「今回は予定が狂ってなぁ」
「……そうか」
「今回は小麦を回収できないぜぇ。どうするんだぁ?」
「……勝手に持って行け」
「そう言われてもなぁ。人もいやけりゃ馬車を手配する時間もねえんだよぉ」
「好きにしろ」
「それじゃあ、ここにある馬車をもらって行くぞぉ? 残っている傭兵を使って運ばせるからなぁ?」
レインは今聞こえた話し声に、唾を飲み込む。
恐らく今の会話は、今回の襲撃が失敗した事を既に知っていての内容だと思えたからだ。
(どうなっているんだ、こいつらの情報網は……)
レインですらルーナに自分で見聞きした為に知っている事であって、今ここにいる者が既にそれを知っているという事に衝撃を受けていた。
それにしても情報の伝達が早すぎる。既に商人を諦めて別の動きに変えようとしている事を知ったレインは、眉間に深い皺を作った。
今は何故それを知っているかではなく、変更した計画を阻止し、ロイ達が返ってくるまで奴らをここに留め置く必要があるだろう。今の口調では直ぐにでも出発し、森の倉庫へ向かいそうな雰囲気だった。
しかしそれを止めるには、傭兵たちを行動不能にするしかないように思える。もしくはこの中にいる男を行動不能にするか、だ。
だがどうやって……。
この時のレインは思考に飲まれ、注意を怠っていた事は否めないだろう。
そうして急に感じた気配に背後を振り向いたレインの目の前には、「隊長」と呼ばれる男が立っていたのだった。
「てめえ、どうやって入った……。ああ? しかも見た事ある顔だな」
ギクリと体を強張らせたのは、この男の殺気のためか顔を認識されたためか。どちらにせよレインは、この男が剣に手を掛け引き抜く様を視界に入れているのに、一瞬気圧されていた事は否めなかった。その為に初動が遅れ、男が瞬時にして振り下ろした剣にかすってしまった。あと1秒でも身を引くのが遅ければ、背中はザックリと切られていただろう。
レインは体勢を立て直して抜刀すると、隊長と呼ばれる男の正面で構えを取った。剣がかすった背中には熱が籠る。だが筋肉までは切られなかったようで、戦闘するには支障はないと判断する。
「ほう? てめえ、少しは使えるみてえだな。おもしれえ」
本当に楽しそうに嗤う男は、心底遊びたい、とそう言っている様だった。
― ガチャ ―
「なんだぁ?」
その時2人の間にある扉が開いて出がらしの様な男が顔を覗かせ、その落ち窪んだ目玉を左右に振った。
「チッ、邪魔すんな」
「邪魔とは失礼だなぁダラク。そんでこいつは誰だぁ?」
「知らん」
「知らない奴だぁ? 捕らえろよぉ」
「必要ない。こいつはここでぶっ殺す」
「ヒッヒッヒ、よっぽど暇してたんだなぁ。――あぁそうだぁ、残った傭兵たちを出してぇ、森の倉庫に行ってくれよぉ」
目の前のレインを差し置いて、2人は会話を続けている。だが隊長は、こちらへの興味を失っていない事だけはわかった。ピリピリとした気配をレインに向け続けているのだ。
「自分で行け。俺は忙しい」
「ここに呼んだのは、こいつと遊ぶためじゃぁ無いんだけどぉ……。じゃあ終わったらなぁ」
「いいだろう」
隊長の実力を疑っていないのか、扉から顔を出していた男はそれだけ言うと、再び部屋の中へと引っ込んで行ってしまう。
完全に無視をされた形のレインは、そうとは分かっていても、目の前の男の事で思考は塗りつぶされていたのだった。