後編
まさかすぎる展開にオリバーが戦々恐々としている内に、三人はアレスの部屋の前に辿り着く。
「さすがにこのまま全員で――というわけにはまいりませんので、リアーナ様とオリバー様は少々お待ちくださいませ」
そう言って、ロルカは恭しくも控えめに部屋の扉をノックする。
「ロルカです。アレス様に、ご相談したい儀があるのですが」
「ロルカ? ……ああ、お前か。入って構わんぞ」
扉の向こうから聞こえてくる、二〇代の若者とは思えないほどに落ち着いた声音を聞いて、リアーナが今にも天に昇っていきそうな顔をしていることはさておき。
アレスの物言いにどことなく引っかかるものを覚えたオリバーが眉根を寄せている間に、ロルカは一人部屋の中に入っていく。
そしてその数分後――
「お待たせしました、リアーナ様、オリバー様。どうぞ中にお入りくださいませ」
促されるがままに、オリバーはリアーナとともに第三王子の私室に足を踏み入れる。
王子にしてはいやに質素な部屋の中央に、金色の髪と鋭い双眸が目を引く第三王子――アレスが佇んでいた。
まさか本当にお目通りが叶うとは思っていなかった一方で、心のどこかでこうなる予感もしていたオリバーが、その場で跪拝しようとするも、
「そのままで構わぬ、オルストイ男爵。王族といえども己はいまだ若輩の身。人生の先達に膝を突かれるほどの器ではない」
その言い回しがもう国王どころか覇王じみた器を醸し出している気がしないでもないが、かといってアレスの言い分を突っぱねるのは、それでそれで相手の顔に泥を塗るようなものだと思ったオリバーは、素直にアレスの言葉に従うことにする。
一方リアーナはというと……憧れの第三王子とのご対面に感極まる以上に緊張してしまったらしく、微妙に顔を赤くしながらガッチガチに固まっていた。
そんな愛娘に、アレスの鋭い視線が向けられる。
「して、リアーナ嬢。例の噂についてだが……こうして貴女の方から弁解に来た以上、己からはとやかく言うつもりは何もない。そもそも噂自体、そう目くじらを立てるほどのものでもないからな。仮に父上が噂についてお許しにならなかったとしても、この己が責任を持って説き伏せることを約束しよう」
その言葉に安堵すると同時に、明らかにおかしな点があったことにオリバーは眉をひそめる。
(貴女の方から弁解に来た?)
リアーナは呼び出されて王城に来たというのに、それはさすがにおかしいのでは?――と訝しんでいたオリバーだったが、突然アレスが、リアーナに向かって跪拝したことに、今脳内に浮かんだ疑問はおろか、度肝すらも吹っ飛んでしまう。
「ア、アレス様!?」
まさかの第三王子の行動に、さしものリアーナも目を白黒させ、ロルカですらも意外そうな顔をする中、アレスはリアーナに向かって謝罪する。
「すまない、リアーナ嬢。己は貴女の想いに応えることはできない」
当然といえば当然の返答に、リアーナが「ぇ……」とか細い声を漏らす中、アレスは続ける。
「これは父上にしか伝えていないことであり、相手が別の国の姫君ゆえにお許しを得られた話になるが……己には将来を誓い合った相手がいる。己は生涯、彼女のことを愛すると決めている。だから、彼女以外の女性を娶るつもりは、己にはない」
そう言って、跪拝したまま、頭を垂れながら、アレスはもう一度「すまない」と謝罪の言葉を口にする。
男爵令嬢に対してはあまりにも過分で、あまりにも誠実な第三王子の謝罪を前に、半ば茫然自失となっていたリアーナはただ一言、
「わかり……ました……」
と、忘れてしまった我以上に、茫とした調子で答えることしかできなかった。
その後――
アレスは第三王子としての執務に戻らなければならなくなったため、オリバーたちは部屋を辞することとなった。
茫然自失としているリアーナを、このまま館に連れ帰るのはどうかと思ったオリバーは、ロルカに頼んで応接間に戻ることにした。
応接間に辿り着き、中に入って扉を閉めると、ほどなくしてリアーナがポツリポツリと語り出す。
「わかっていましたわ……ええ……わかっていました……。わたくしは所詮、男爵令嬢……。王子であるアレス様と婚約なんて、天地がひっくり返ってもあり得ないことくらい……わかっていましたわ……」
言っていることは真実だし、むしろ第三王子とエア婚約なんてやらかしたリアーナの方が色々とおかしいことはわかっている。
だが、それでも、あからさまにショックを受けているリアーナの様子には、オリバーも、ロルカでさえも、痛々しさを覚えずにはいられなかった。
「そんなことよりもお父様……見ましたか? 聞きましたか? アレス様のお素晴らしいお姿を……。お素晴らしい声を……。わたくし如きに跪いて……謝る必要もないのに……本当はわたくしの方が謝らなければならないのに……とても……とても真摯に謝ってくれて……」
言葉を積み重ねていく度に、リアーナの目尻に涙が溜まっていく。
「本当に……本当に……アレス様は素敵な御方ですわ……それこそ、わたくしが思っていた以上に……」
そして、
「そのアレス様に……わた……わたくし…………っ」
もう堪えきれないとばかり、涙が溢れ出す。
もう堪らないとばかり、父の胸に抱きつく。
そして、
「……ぁ……あ……あぁああぁぁぁあぁあぁぁぁああぁっ!!」
完膚なきまでに失恋したリアーナは、声上げて泣きじゃくった。
さしものオリバーも愛娘にかける言葉が見つからず……今はただ、リアーナの気が済むまで胸を貸してやろうと心に決める。
そんな二人の様子を、ロルカは見守るように、あるいは食い入るように見つめていた。
リアーナが失恋してから半月が過ぎた頃。
社交界において、どうやらリアーナの妄想癖はオリバーが思っていた以上に有名な話だったらしく――親としては頭を抱えたい話だが――第三王子とのエア婚約を真に受けた貴族はほとんどいなかった。
数少ない真に受けた貴族も、周囲の反応から色々と察して……今日に至る頃にはもう、エア婚約について噂する者は一人もいなくなっていた。
こうして、リアーナのエア婚約騒動は終わった。
終わったからこそ、リアーナは今日に至ってなお塞ぎ込んでいた。
オリバーは、リアーナの好きな焼き菓子を持って彼女の部屋の扉をノックするも、
「ごめんなさい、お父様。今は気分が優れませんの……」
アレスと婚約したと宣っていた時の溌剌さはどこへやら。
扉の向こうから悄然とした返答をかえしてくる愛娘に、オリバーは悄然とため息をつく。
どうにかして娘を元気にさせてやりたい。けれどその方法が思い浮かばない――と、懊悩していたオリバーのもとに、長年オルストイ家に仕えている老執事がやってくる。
「オリバー様。貴方様とお嬢様宛に、お手紙が届いております」
「吾輩とリアーナに?」
眉根を寄せながら、オリバーは老執事から手紙を受け取り、差出人の名前を確認する。
「なッ!?」
思わず、驚愕を吐き出してしまう。
差出人の名前は、カルロス・アール・ペンタグラ。
この国の第六王子でありながら、王位継承権を放棄した挙句、いまだかつて社交界に一度も姿を見せたことがない、謎多き人物だった。
「リ、リアーナ! 吾輩とお前宛に、第六王子のカルロス様からお手紙が届いている! な、中に入るぞ! よいな!?」
さすがに王族からの手紙を無下にするわけにはいかなかったのか、リアーナは渋々といった風情で部屋の中に入ることを許してくれた。
リアーナの髪がボサボサになっていたり、目の周りが赤くなっていることには、今はあえて触れないことにしたオリバーは、早速封を開けてリアーナとともに手紙を検める。
手紙の内容は簡潔だった。
カルロスが、リアーナとの婚約を望む旨を、簡潔に書かれていた。
あまりにも理解が追いつかない出来事に、オリバーが呆気にとられる中、どこまでもブレないリアーナが微塵の躊躇もなく答える。
「お父様……カルロス様には申し訳ありませんが、この話は断ってくださいまし。わたくしはカルロス様のことを全くご存じありませんし、アレス様に振られたからといって他の王族の方とお付き合いするのも不誠実な話ですし」
男爵家の当主としては、愛娘には是が非でもこの婚約を受けてもらいたいところだけれど。
愛娘だからこそ、人生の伴侶は娘自身に決めさせてやりたいと思っていたオリバーは、涙を呑んで「わかった」と返した。
兎にも角にも、断りを入れる以上は返事は早い方がいい。
そう思ったオリバーは、老執事に紙とペンを用意させようとするも、いつの間にやら姿が見えなくなっていることに眉をひそめる。
ならばと声を上げて呼ぼうとしたところで、いつの間にか廊下の向こうにいた老執事がこちらにやってくる姿が目に映り、思いとどまる。
老執事は、これまたいつの間にやら届いていた、二通目の手紙を携えていた。
まさかと思ったオリバーは、老執事に訊ねる。
「その手紙も、カルロス様からなのか?」
「はい、その通りです」
そうして二通目の手紙を受け取ったオリバーは、リアーナと一緒にその内容を検める。
※ ※ ※
おそらく、というか間違いなく、リアーナ嬢なら断るだろうと思って、もう一通手紙を送らせていただきました。
リアーナ嬢。
よろしければ私と、お茶会友達になってはいただけないでしょうか?
これは私のワガママになりますが、断られるにしても、私という人間の人となりを知られてからの方が諦めがつくと思いまして。
お茶会を開くのは、私の方からでも、リアーナ嬢の方からでも構いません。
どうか、このささやかな願いを聞き入れていただけることを願っています。
アレス兄上の従僕をフリをしていたロルカ、もとい、カルロス・アール
・ペンタグラより。
※ ※ ※
「はぁ~~~~~~~っ!?」
リアーナの口から、驚愕と呆れが入り混じった声が飛び出す。
オリバーはオリバーで、開いた口が塞がらない思いだった。
同時に、得心もする。
オリバーとリアーナがアレスにお目通りする前、アレスはロルカの名前を聞いた際に、聞き馴染みのないような反応を示していた。
そして、お目通りした際も、アレスは「貴女の方から弁解に来た」と言っていた。
直後のアレスの跪拝で全て吹っ飛んでしまったが、オリバーはその言葉に疑問を抱いていた。
仮に、リアーナを王城に呼び出したのがカルロスの仕業であり、アレスに対してはリアーナの方からエア婚約について弁解に来たと吹き込んでいたならば、オリバーに疑問を抱かせたアレスの反応や言葉に説明がつく。
(しかし、なぜそのような手の込んだ真似を……いや、それ以前に、カルロス様にはリアーナのやべーところばかりをお見せしたというのに、いったい全体娘のどこを気に入ったというのか……)
不意に、最近歌劇でよく耳にする「オモシレー女」という言い回しが脳裏をよぎるも、いくらなんでもそれはないだろうと思ったオリバーはかぶりを振ってから、リアーナに話しかける。
「あの時の従僕がカルロス様だったとは、まさかもいいところだな」
「本当にまさかですけど……さすがに、こういったやり口は好きではありませんわ。男らしいアレス様とは真逆もいいところですし」
本当にどこまでもブレない愛娘に、オリバーは苦笑しながら訊ねる。
「ならば、お茶会の話も断るのか?」
リアーナは、ゆっくりとかぶりを振る。
「さすがにそのお誘いまでお断りするのは、カルロス様とご兄弟であるアレス様の心証を悪くするやもしれません。ですので、少々気が進みませんがお受けいたしますわ。というか何ですの? お茶会友達って? 王族ならば、もう少し言葉選びというものをですね――……」
と、ところどころ言葉遣いがおかしい自分のことを棚に上げてぶつくさ言っている愛娘を見て、オリバーは頬を緩める。
婚約云々はともかく、結果的にリアーナは元気を取り戻してくれた。
そういった意味では、手紙を送ってくれたカルロスには感謝したいくらいだし、婚約についても男爵家の当主としては応援したいところだが、
(決めるのは、あくまでもリアーナだ。吾輩は一人の父親として、ただその行く末を見守ればいい)
一人そんな思いを抱きながらも、いまだぶつくさ言っている愛娘を、オリバーは温かく見守った。