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真夜中に降る雪

作者: のまいと

真夜中に降る雪は、まるで画家が漆黒のキャンバスに配置してゆく白色のようだと…ある詩人が言いました。

兄と妹の物語です。

でも少年と少女の物語でもあります……。



静寂のなか雪が降っていた。


沈黙を奏でている窓越しの真夜中を、淡い白は彩ってゆく。


エアコンの暖房の微かな音が室内に柔らかく流れていた。

紗羅さらはベッドに半身を起こして硝子ガラス越しの闇を見つめていた。


僕は枕元の椅子に座り、妹の静謐せいひつな横顔を黙って眺めていた。


14歳の彼女の頬は透き通る程に白く削げ落ちている。

短く刈られた髪をイエローグリーンのニット帽で隠して、痩せ衰えた腕を少し恥ずかしそうに長袖で覆い、掛け布団の上に乗せていた。


時計の秒を刻む音が響く。


僕の視線に気付くと紗羅は小さく微笑した。


自宅の二階にある彼女の部屋。

壁に貼られた外国の街を写したポスター。

木製の大きな本棚と一杯の本。


可愛いらしいピンク色の置き時計の針は深夜の1時半を回っていた。


僕と3歳違いの妹。


両親は階下で眠っている。

いや、きっとこんな寒い夜は起きているだろう。

2人はベッドの中でまんじりともせずに紗羅のことを案じて想っている。


幼い頃から病弱だった妹を、父も母もいつも心配して精一杯の愛情を注いで育んで来た。


それは僕が17年間見つめて感じてきた変わらぬ光景。


 「コーヒーでも飲む?」


僕の問いかけに紗羅はゆっくりと首を振る。


 「お兄ちゃん。眠くないの。私なら大丈夫だよ……」


彼女は真っ直ぐに僕を見つめて言う。

言葉とは裏腹にすがるような視線が僕を捉えている。


 「いいんだ。もう少し側に居るよ」


紗羅は安心したように微笑む。


その表情が儚さを漂わせて映る。


生まれた時から体が弱く、医師におそらく16歳までは生きられないと宣告された妹。


そっと枯れ木みたいな彼女の手を両手で包む。


紗羅ははにかんだ笑みを浮かべて掌を引っ込めようとする。


僕は微笑んで紗羅の眼を見つめる。

彼女の瞳の色が揺れて、何かが移ろい握る僕の手を強く握り返してくる。


そのまま、目を瞑り(つむり)半身を大きな枕に委ねた。


心を僕に預けながら……。


沈黙のなか暖房の温かな風が僕たちを包んでいた。

紗羅の細い体を覆う淡いブルーのパジャマの襟元が微かに揺れて、真白な肌からほのかな彼女の体温の匂いした。


僕の胸に行き場所のない憤りの感情が湧いて、絶望に似た哀しみが支配する。


混沌とした想いは深い闇に留まって、僕を力無く俯かせた。


窓越しの漆黒に雪は音もなく降り続けていた。




罪がある。


法律では裁かれないゆえに自分の根源の本質的な罪。


僕はきっと煉獄の炎に灼かれるだろう。


幼少の頃から紗羅は両親の愛情を一身に受けていた。


逆光のなか見上げる表情の分からない父親の胸に紗羅は抱かれている。

その側に母親の影。

眩しい光の渦に響く穏やかな笑い声を耳朶じだに納めながら、僕は静かに微笑んで拳を握り締めている。


足元の雑草を見つめていた。

其処に自分の求めるものが有る訳でも無いのに。


太陽の陽射しを独占する一輪の可憐なアネモネの真白な花。


僕という存在はいつも陰に追いやられて、自分の健康な体を疎ましくすら思うことがあった。


あの夜も雪が降っていた。


僕は小学5年生で季節は真冬だった。


7歳の紗羅はその時、熱を出してベッドに小柄な体躯を横たえていた。

その額に濡らしたタオルが添えられている。


寒い時期が来ると彼女は決まって体調を崩した。


妹の枕元で心配そうに看病する母親に、僕はしつこく纏わりついていた。


凍てついた外の空気と裏腹に、室内にはよく暖房が効いていて、思わず冬の季節だということを失念してしまう程だった。


空調の微かな音。

目を瞑り熱い呼気を吐く妹。

浮かない母の相貌。


僕の場違いな陽気で空疎なはしゃいだ声が延々と響き渡る。


母が柔らかく僕をたしなめた。


いつもならそれで自室へと戻るはずの僕は、その日に限って止めどなく甘えることを続けていた。


よく喋り、熱のある妹の直ぐ側で何かに憑かれた様に騒ぎ立てることを止めようとしなかった。


僕の胸の奥には、もう愉しいという感情は無かった。


何か別の感情、苛立ちに近いものが支配していた。


僕は本当のところ紗羅のことなど考えていなかった。


いつもの事だと割り切ってしまっていたし、多分聞き分けの良い優しい兄という立場にうんざりしていたのだと思う。


僕は淋しかったし妹がいつも与えられている愛情と保護が、心から羨まし(うらやまし)かった。


 「いい加減にしなさい!」


母が語気荒く僕を叱った時、子供なりの自己抑制は限界を超えたのだろう。


僕は乱暴に手近にある絵本を持つと、ベッドに寝ている紗羅に投げつけた。

幸い外れて事無きを得たが、母は悲鳴を上げて僕の頬を打ち据えた。

乾いた音が響いた。


大声で泣く僕と立ち竦む母親。


僕の視界に枕に髪を委ねた紗羅の表情が映った。


一瞬、ほんの僅かな時間だったが、彼女は確かに嘲るような勝ち誇った笑みを浮かべた。


それは自分が特別に愛されていることを認識している人間だけが出来る傲慢ごうまんで残酷な冷笑だった。


熱を帯びて薄紅色に染まった彼女の頬の鮮やかさまで今も思い出すことがある。


僕は泣き止むと静かに自室へと歩き始めた。


母は安堵したように優しい言葉を掛けてくれた。


やっと聞き分けてくれたのね。

紗羅は病弱なのだから。

さすがお兄ちゃんね。


背中をそっと押す母親の掌の温もり。

足裏のカーペットの柔らかな感触。

静謐な空調の音。


でも、僕のなかでは世界から色彩が消滅していた。

機械的に足が進んでいる。


僕の胸を支配していた感情は、おそらく生まれて初めて持ったであろう純粋なまでの憎しみだった。


憎悪という名前の氷の結晶。


握り締めた指が小刻みに激しく震えていた。

噛んだ唇から僅かに血が滲んでいた。


僕は自室に戻ると電灯も点けずにベッドに潜り込んだ。


冷え切ったシーツの凍てついた感覚が僕の全身を包んでいた。


暗闇のなかで僕の心は紗羅の死をひたすら願っていた。


微かな迷いも後ろめたさも無いある意味での完璧な殺意だった。


それが叶うなら他には何も要らないと10歳の少年は誓ってすらいた。


壁越しの隣室の妹の部屋から聞こえる穏やかな笑い声。

枕元の自分の指すら見えない深い漆黒。


僕は妹の死をいつまでも念じ続けていた。



それまでは時折は元気な日もあった紗羅の容態は、その夜を境にして確実に悪化して行った。


食事の席で心配そうに会話する両親を見つめながら、僕が味わっていたのは醜く歪んだ悦びの感情だった。

無言で皿の上の肉片をフォークで突き刺しながら、おそらく僕の口元には満足の冷笑が浮かんでいた。




オーディオ装置から静かなクラシックの調べが流れている。


モーツァルトのピアノ協奏曲21番。


優しい穏やかな曲調が室内を満たしていた。


紗羅は大きな枕に背中を委ねて目を瞑っていた。


綺麗なまつ毛がほのかに揺れていた。


その額は蒼白くまるで凍った雪原のように見える。


窓越しの雪はなおも激しく降り、画家がキャンバスに白色を配置してゆくように、闇に鮮やかな彩りを添えていた。


僕はサイドテーブルの籠から林檎をひとつ取り出して、妹の為に小さな果物ナイフでゆっくりと皮を剥き始める。


手に持ったナイフの柄の硬質な感触は、僕の意識をあの明け方へと連れてゆく。


中学2年生の冬の早朝。

家族の寝静まった静謐なキッチン。

ステンレスに淡い光が反射して物音ひとつしなかった。


悪化していく紗羅の病状と笑顔の消えてゆく両親の相貌。


友達というものを僕はどうしても作ることが出来なかった。


教室は深い海の底のように暗く伸し掛かる。

僕のなかにある言葉たちは出口を求めてあがいていたが、微かな灯はあまりに遠くて、辿り着けるとはとても思えなかった。


僕は反射的に棚の果物ナイフを握った。


朝の清澄な光を受けて刃先が煌めいていた。


首筋に冷たい質感が来る。


僕の内部では激しい渇望があり混沌があった。

熱い渦は脳裡を満たして、硬質な柄の手触りは他人事みたいに確かだった。


小さな金属の匂いが鼻口に充満して指に力をこめる。


歯を食いしばった。


荒々しく手を振り果物ナイフを床に投げ捨てた。


乾いた音がして反動のように沈黙が訪れた。


僕は崩れ落ちながら床にしゃがみ込む。

小刻みに指が震えていた。

心臓の鼓動の速さを認識する。


キッチンの棚の真っ白な皿や透明なグラス。

コンロに掛かった銀色の鍋。

穏やかな木目調の収納ケース。


鳥の鳴き声が聴こえていた。


陽の光が床一面を満たして、僕は揺れながらまだ暮らしていくであろう世界をただ見つめていた。


紗羅に対して優しくなれたのは、その日からだった。


日常の事から細やかな心配りまで、僕は自分に出来る最善を尽くした。


学校が終了すると真っ直ぐに帰宅して、少しでも愉しい話を懸命にベッドの彼女に語った。


本が友達である紗羅の話に何十分でも耳を傾けて、その瞳を見つめていた。


彼女の額の汗をそっと拭い、痩せた肩にショールを掛け、掌の温もりを伝えた。


眠らないことなど何でもなかった。


僕と紗羅の間に柔らかな時間が流れ始めて、それは想像以上に僕たちを癒してくれていた。




時計の針は午前3時を過ぎていた。


紗羅は微かな寝息を立てて眠っている。


僕は椅子に座って、その夢見るような表情を見つめていた。


漆黒のなか白い雪たちは無数の小さな蝶のように舞い上がり、闇を真白に染めてゆく。


肉付きの薄い紗羅の体にそっと毛布を掛けた。


妹の唇の色が泣きたくなる程に蒼かった。


今まで話したことも、ちょっとした仕種も、煙るような笑顔も、僕は全部覚えていよう。


もしも、紗羅の命の灯が後数年で消えるのならば、彼女の想い出だけでも生きて行って欲しい。

僕の胸の奥に記憶という形で世界に在り続けてゆく。


 「……お兄ちゃん」


そう寝言を呟くと紗羅はふっと微笑む。


僕は明かりを消すと椅子に座ったまま暗闇を見つめていた。


沈黙が静かに僕らを包みこむ。


漆黒のなか窓の外に降る雪を眺めた。

朝にはきっと街を白く染めるだろう。


紗羅がいつか語った物音。


彼女の創った雪の精の少女。

その恋物音。

継ぎ接ぎだからけの、でも懸命で一途な恋。


 「どうかな。面白かったかな、お兄ちゃん」


 「とても良かった。素敵だったよ」


 「嘘だよお。もの凄く眠そうな顔してたもの」


 「うっとりしてたんだよ」


笑いながら温かいコーヒーを傾けた。


これから先の僕の人生が耐え難い程に辛い時があろうとも、僕は生きなければならない。

どんなことになろうとも。


紗羅の記憶がこの世界に少しでも、例え1秒でも長く在り続けるために。


雪の精の少女は僕の瞳を見つめている。


その眼差しの透明な真摯さは、真っ直ぐに僕を照射していた。


彼女が小さな声でささやく。


 「抱きしめて……」


僕は自分に出来る精一杯の丁寧さで少女を包んだ。


凍てついたその体を、ただ温めてあげたかった。


他には何もなかった。


雪の精の少女の掌が僕の背中に触れる。


 「……一緒に死んでもいいんだよ」


僕は心からの言葉を言った。


彼女の髪が僕の腕のなかで、ゆっくり左右に揺れる。


温もりが胸の奥に伝わり仰いでいる少女の瞳は僕を映していた。


もう一度優しく抱きしめる。


少女の瞳から涙が零れた。

彼女は泣きながら微笑んでいた。


僕はそっと唇で綺麗な滴を拭きとった。


 「……覚えているよ」


僕の震えている言葉が漆黒のなか佇んでいた。

永遠の真白な粉雪が果てしなく舞い散っている。


 「絶対に君を覚えているから……」


窓越しの街に雪は無音で降り募っていた。


やがて、雪は溶けて、滴となり流れゆき蒼い海に辿り着くだろう。


いつか空に還るその日を待ちながら。


僕の想いを静謐な暗闇がゆっくり呑み込んでゆく。


紗羅の安らかな寝息が聴こえる。


僕の指が暗がりのなか彼女の掌を優しく握りしめる。


温かだった。

確かに此処ここにそれは存在していた。


雪は真夜中にまだ降り続いている。


静かに祈るように僕は目を瞑っていた。

運命に対して人間の出来ることは…少なくて。

流されてゆく者はその瞳で、愛する人を懸命に見つめて、胸の奥に大切にしまうことしか出来ないのかも知れません。

この物語をもしも気に入って下さったのならば……嬉しく思います。

ありがとうございました。

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