五・家 -2
黒いニット素材のワンピースに着替えた肖子は、漂ってくる鰹出汁の香りにつられて台所へ足が向いた。
そこにはルシファー似の深町がいた。ルシファーが甚平を着ている姿がしっくりくるような、こないような、不思議な感覚だ。振り返った深町と目が合ってたじろいだ。
「待ちきれずに来たのか」
「はい。あ、いえ、お手洗いと洗面所の場所を……」
「ああ。それなら向かいの扉の奥だよ」
苦笑しながら深町が扉を指さす。
「お借りします」
肖子は動揺した顔を見られないように、深町が指さした扉をあわてて開く。
入った目の前に洗面台があった。
ほぅ、と、小さく溜息をつく。
顔を洗いながら、昨日、店で何があったか、記憶を辿っていた。
いつもとは違う、なにか別のことが起こった気がする。
無意識に左の手のひらを見る。
特に何も変化のない左手だが、昨日は何かが違った。
店のママの霧もだが、富樫も、百合も、桶川も変わった人たちだ。周りに居る人たちとは違う種類の人間だと思った。
洗面所を出ると、
「居間にうどん持っていってあるから食べな」と、深町が声を掛けてきた。
「すみません。ありがとうございます。あの、深町さん、今日お仕事は?」
「しばらくは家に籠もって仕事だから気にするな」
そう言うと深町は調理済みの鍋を洗い始めたので、肖子は居間に向かった。
たっぷりとネギがのった丼からは湯気が立ち上っている。肖子の胃を刺激した鰹出汁の良い香りが漂う。
「いただきます」
小さく声に出し、レンゲで汁をすすると、旨味が胃に染み渡る。
こういう手作りの料理はいつ以来だろう。ふいに、祖母が作ってくれた筑前煮の味を思い出し、胸が熱くなる。
「味はどうだ」
冷たいお茶を入れたポットを持ってきた深町が居間に入ってくる。
「すごく美味しいです。出汁も自分でとってるんですか?」
「ああ。家に居るときは体に良いものを食べる主義。料理にはこだわっている」
「すごいですね。私なんて料理はまるで駄目です。大学の四年間は寮生活だったから食堂で食べていたし、卒業してからも外食ばかりで」
「鶴見氏のところでも?」
肖子は正面に座った深町をチラリと見て、それから静かに丼に視線を落とす。
「鶴見さんは家で食べる習慣がないので。キッチンには調理道具はありませんでした。私が買うわけにはいかないです」
「なるほど」
「──本当に、いろいろありがとうございます。食べたら出ていきますね」
「不動産屋に行って、部屋を借りるのか」
「はい」
「また家具付きのウィークリーかマンスリーマンション?」
「とりあえず、すぐに入れるところだと、そうなりますかね。何も持ってないし」
深町は肖子をまっすぐ見て言う。
「本気で鶴見氏のところから出て行くと決めたなら、『とりあえず』で家具付きの部屋を借りるんじゃなく、じっくり家探しをすべきだ。中途半端だと、また彼の元に戻るんじゃないか?」
「それは……」
今回は違う。戻らないと決心した。家具付きの部屋を選んでしまうのは、また別な理由で……そう心の中では答えたが、声にすることができなかった。
肖子が黙ったので、深町は言葉を続けた。
「この家はオレしか居ないし、当面はさっき寝ていた客間を使っても構わないよ」
「え?」
驚いて深町を見た。冗談を言っているわけではなさそうだ。
「それで、じっくり部屋探しすれば?」
「それはあまりにも深町さんに申し訳ないです」
「隠す理由もないから言うけど、富樫さんにはきみを出て行かせるなと言われてる」
「え?」
「今日、富樫さんは日帰りで栃木に行ってる。そこで絵画関連の仕事があってね。それがなければ強引にきみを連れ帰っただろうな」
「……」
「富樫さんは、またきみに会いたいんだろうね。だから近くに居てほしいんだと思う。それに、きみも気にならないか?」
「何をですか?」
「あのキーホルダー」
「……」
「昨日の出来事が、いろいろ中途半端なままでいいと言うなら、別に止めない。富樫さんには、出て行ったと言うだけだ」
「なぜ富樫さんは私をそこまで気に留めるのですか」
「さあね。でも橘さんは確かに似ているよ。富樫さんの昔の恋人に。オレも写真でしか見たことはないけどね」
「恋人?」
「そう。『coffin』に飾られていた絵のモデル」
「ああ……あの人は富樫さんの恋人なのですね」
「富樫さんは、きみに刺して貰いたいんじゃないかな」
「え?」
「右の心臓を」
「……」
「どうする? 出て行く? 此処に居る?」
「──ここにはお一人……ですか」
「オレを警戒してるか」
「いえ、そんなことはないです」
「この家は祖母が住んでいたんだ。祖母が他界したあと、オレが一人で住んでる」
「ご両親は?」
「二人とも海外」
「ちなみに、此処の最寄り駅は……」
「ああ。此処は昨日橘さんが言っていた池袋モンパルナスと呼ばれていた界隈だ。池袋駅までも歩いて行ける」
「池袋モンパルナス……」
肖子は考える。何かが変わり始めている。
目の前には、展覧会が始まってから毎日眺めていたルシファーに似た深町がいる。ルシファーと同じように、一点を見つめている。自分を見つめるその目を見ていると、何かが変わり始めているのだという予感がする。
「いま開催している特別展はあと数日で終わります。そしたら休館日に入って、じっくり物件を探す時間がとれます」
「で?」
「なので、それまでお世話になってもいいですか。宿泊代はもちろんお支払いします」
「宿泊代? 別にいいよ。空いてる部屋だから」
「いえ、そういうわけにはいかないです」
「じゃあ、食事代くらいもらうよ」
「ありがとうございます」
「なら、食べ終わったらシャワー浴びれば? 酒も抜けるだろ。洗濯機も使うなら教えるし」
「いろいろすみません」
「謝る必要はなし。まあ、よろしく」
深町はそう言って小さく笑った。