五・家 -1
──千奈津の作品を観て、肖子は言っただろう。怖いと。螺旋状になっている二種類の石が、互いを締め合っているように見えて苦しいと。
それを聞いたとき、肖子に他の女とは違う感情を持ったよ。
あいつは怖い女だよ。あいつが作ったネックレスはまるで僕とあいつを見ているかのようだ。絡んで、絞め殺していく蛇だ。
いや、僕とあいつではないのかもな。あの女にとって、僕は眼中にすらないだろうから。父とあいつを象徴しているのかもしれない。
どっちにしろ絞め殺し合って、勝つのはあの女だよ。
そのくらい怖い女だよ。野心のかたまりだな。
──僕と肖子の似ているところ?
世の中を少し諦めているところかな。あがいても、どうにもならないことがある。
あのときこうしていればと思ってみても、過去には戻れない。もし戻ったところで、結局は大きな釈迦の、いや、権力の掌の上なんだよ。
それでもこうして肖子と居ると、あいつとの結婚を承諾しなければ、どうなっていたかと考えてしまう。いや、考えてももう遅い。
──好きだよ。でもやっぱり無理だ。分かってくれるよね。僕は此処からは逃れられない。あいつから逃れることはできないんだ。だけど、このまま此処に居てくれるよね?
背中が痛くて、何度か寝返りを打つ。
何故だろう。いつもはもっと柔らかいマットなのに、今日はやけにかたく感じる。
柔らかいベッドの中で、鶴見が言葉にしたことを、彼の寝顔を見ながら何度思い出しただろう。
肖子は寝返りを打つ。夢うつつのなかで、閉じている自分の目から涙がこぼれたのを感じた。
そうだ。出てきたんだ。
奥さんが来日して、私は荷物を持って出てきた。
鍵は郵便受けのいつもの場所に置いてきた。もう此処には戻らないと、誰に言ったっけ……昨日は誰と飲んでいたっけ……
──此処は何処?
ぱちりと目を覚ます。
天井が見えた。格子状の和室の天井だ。格子の中に浄土画でも描かれていれば、立派な寺のお堂になりそうだ。
寝たまま肖子は視線を移動させた。
障子窓が見えた。床の間があり、朧月の掛け軸が飾られている。ここは旅館だろうか。
右側を向いたとき、心臓が驚きで早鐘を打った。隣に布団が敷かれていたからだ。
慌てて起き上がり、自分の姿にさらに混乱した。
知らないTシャツを着ている。スカートは履いておらず、下着姿になっていた。
混乱したままあたりを見回すと、昨日着ていた服は枕元に畳まれて、ショルダーバッグと並んで置かれていた。
昨日、そうだ。富樫という画家に出会った。
そしてゴールデン街のはずれにある『coffin』というスナックで飲んで、そこに居た人たちに鶴見のことを話して、そして……そこから記憶がない。
おそらく寝てしまった私を誰かがこの旅館に連れてきたのだろう。そして、この部屋で一緒に寝たのだろう……キャリーケースは何処?
部屋にキャリーケースは無かった。唯一の持ち物。あれが全てだ。
混乱しながら布団から出ると、頭がぐらりと揺れた。どうやら二日酔いらしい。
そのとき、部屋の襖が開いた。
「起きたか」
そう声を掛けてきたのは、紺色の甚平姿のルシファー、いや、深町冬馬だった。
「あ……あの……」
「これ、水」
深町は肖子にグラスを手渡す。素直に受け取り口にすると、脱水状態の胃が喜ぶのが分かった。深町は肖子の隣に敷いている布団の上にあぐらをかいた。
「昨日のことは覚えてるか?」
「すみません。途中から記憶が無いです」
「まあ、あれだけアブサン入りの酒を飲んでいたら記憶も飛ぶよな」
「あの、此処はどこですか? 私のキャリーケースが無いんです」
「此処はオレの家。キャリーケースは玄関に置いてあるよ。安心しな」
「深町さんの家……」
「名前は覚えているんだな」
深町はくすりと笑う。
「昨日、橘さんは話をして寝てしまってね。最初は富樫さんが連れて帰ろうとしたんだ。もし富樫さんが連れ帰っていたら、きみは絶対丸裸にされて、目が覚めたら同じ布団に富樫さんが居るっていう状況だったろうな。それは可哀相だからオレが連れてきた」
肖子は自分の姿を見る。丸裸ではないが……
「オレは服のまま布団に入るのも入られるのも嫌いでね。だから脱がせた。下着姿のままにしようかと思ったけど、起きたとき驚くだろうからシャツは着せてあげたよ」
「そう……ですか。すみません」
「犯してないから安心しな。同意のない行為はあとあと面倒だから。隣で寝たのは夜中に布団でゲロられたら困るからだよ」
「いろいろすみません。吐きました?」
「いや。酒は抜けた?」
「頭が重たいです」
「腹は空いてるか?」
「……空いてます」
「じゃ、何か作ってやるよ。この部屋を出ると居間になるから。その居間を抜けて左が玄関。キャリーケースはそこにあるから」
深町はそれだけ言うと、先に部屋を出て行った。
肖子は溜息をつく。昨日会った人、しかも殆ど話もしていない人の家に泊まってしまうなんて、申し訳ない気持ちでいたたまれない。自分の無防備さにも呆れてしまう。彼がいい人だったから良かったものの……何をやっているんだ、私は。
ショルダーバッグの中からスマートフォンを取りだして時間を確認すると、もうすぐ十時になろうとしていた。ぐっすり眠っていたようだ。
今日は月曜日。美術館は休館日だが、深町は仕事は大丈夫なのだろうか。
確か、古代史の研究と言っていたか。大学教員なのかもしれない。
のそのそと起き出し、痛む頭を押さえながら布団を畳み、部屋を出る。襖の向こうは居間になっていて、肖子が寝ていた和室よりもさらに広い和室だ。部屋の中央に大きな一枚板の座卓が置かれていた。重厚で年季が入っているのが分かる。
居間を抜けると左右に伸びる廊下があり、左を見ると確かに玄関で、キャリーケースはそこにあった。右奥からは冷蔵庫をあけて何かを取り出す音が聞こえるので、台所なのだろう。正面には襖があり、さらに部屋が続くようだ。
肖子と深町以外に人の気配は感じられない。
一人暮らしなのだろうか。歳はいくつくらいなのだろう。
年齢不詳の霧は別として、四十代前半と思われる富樫や桶川よりは間違いなく若いし、三十代に見えた百合よりも若いかもしれない。
そんなことを思いながら、肖子は玄関に向かった。
*
「富樫さんが連れて帰ったら、その子ヤバいんじゃないかな。キーホルダー握らせて、なにさせるつもりですか。彼女を犯罪者にさせるつもりですか」
深町はそう言いながら、本を鞄に入れて肩に掛けると、富樫に近づいてきた。
「その子はオレが連れて帰りますよ」
「おまえだって、肖子使って試すつもりなんじゃないか?」
「まさか。オレは富樫さんとは違いますよ。そんなことはしません」
肖子を抱き寄せている富樫の腕をほどくと、深町は肖子を揺らしてみた。ぐっすり寝ているようだ。
「そうだね。冬馬くんのところに連れて行ったほうがいいよ。晶、明日は仕事があるんでしょ。この子連れて帰ったら、部屋に籠もって、すべてを放り出しそうだもの。僕のところでもいいけど余分な布団がないから」
「──いいか、冬馬。連れ帰ったら、肖子を出て行かせるな。手も出すなよ」
「了解」
深町は寝ている肖子を軽々と背負うと、
「じゃあ、連れて行きます。連絡は入れます」
そう言って店を出た。
鍋の湯が沸騰して、うどんが煮込まれていく。深町はネギを切ってから、鍋の火を止め、丼を取り出した。
玄関でガサゴソと聞こえていた音もしなくなったので、着替えが済んだのかもしれない。
目覚めてからの肖子を思い出す。
深町からしてみれば、少なくとも目覚めてからの肖子は、無防備なただの女の子だ。
あんな子が不倫かと思うと、やるせなさを感じる。
そんなに人が恋しかったのか──