四・曰くのある宝石展 -2
個室に案内され、出されたシャンパンを飲むと、少し気持ちが落ち着いた。
「楽にしていいよ」
鶴見はそう言うと、ネクタイを緩めてあぐらをかく。
肖子も正座していた足を崩した。
「まだ信じられないという顔をしているね」
鶴見が肖子の顔を見て笑う。
「鶴見さんが私を誘う理由が見つかりません」
「話をしてみたいって言ったろ。こういう場所じゃないと、ゆっくり話が出来ないだろう」
「そこが分からないんです。なぜ話をしたいと思ったのか」
「肖子さんは飲めるタイプ?」
「え? ああ、はい」
「じゃあ、飲んでまずはリラックスしようよ」
「……」
肖子は黙ってシャンパンを飲んだ。きりっとしていて、喉を通っていく泡がとても上品で美味しい。こういう高級なシャンパンを飲める人と一緒に居るということが、やはり信じられなかった。
料理が運ばれてくる。先付、前菜、造り、煮物、揚物──素人目にも分かる高級な和皿の上に、綺麗に彩られ盛り付けられている料理に目を奪われる。口にすれば、今まで食べたことがない味ばかりだ。
「すごくおいしいです」
「そう。良かった」
鶴見は日本酒を注文し、肖子にも勧める。
二合ほど空いた頃には、肖子の緊張も解けていた。
「肖子さんはご両親と住んでいるのかな?」
肖子のお猪口に日本酒を注ぎながら鶴見が聞いた。
「いえ、一人暮らしです」
「付き合ってる人は?」
「いません」
「そんなに綺麗なのに? ちょっと信じられないな」
「人付き合いは得意な方ではなくて」
「きちんと会話も出来ているのに」
「──大学を卒業したとき、就職出来なかったんです。周りとの差を感じてしまって、それから距離を置くようになってしまいました」
「僕が面接官なら、不採用にはしないけどな。どこの大学だったの?」
「M女子大学です」
「いい大学じゃないか。たしか全寮制の大学だったよね」
「はい。四年間寮生活でした」
「寮生活だと門限もあるよね。それで彼ができなかったか?」
鶴見が笑って言うので、肖子も曖昧に微笑んだ。
「鶴見さんの奥様は、普段はニューヨークにお住まいですよね」
「ああ。明後日帰るはずだよ」
「そんなに早く?」
「今回は宝飾展のために帰ってきたようなもんだからね」
「寂しくないですか?」
「寂しい? そんな感情はまるでないよ。年に三、四回しか日本には帰ってこないし、帰ってきても仕事で飛び回っているからね。家には寝に帰ってくる感じだよ」
鶴見は嘲笑しながら答える。
「それじゃ、一緒に食事もしないのですね」
「そうだね。僕の親父とは、してるかもしれないけど」
「……」
肖子は鶴見の緩めたネクタイをぼんやりと見つめる。
事務員の小島が言っていたことを思い出した。千奈津のパトロンが鶴見興産の現在の社長だったということを。
噂話が好きな小島によると、社長は千奈津に惚れ込み、千奈津を傍においておきたいから、自分の息子と結婚させたらしい。本当は自分の後妻にしたかったが、世間体があるので息子に譲ったと、まことしやかに言われた。宝飾デザイナーの創作活動にはお金がかかる。潤沢な資金を得るために千奈津も息子との結婚に応じたのではないかと、小島が嬉々として話していた。
「もしかして、僕もどうせいろんな女性と食事をしてるんだろうって思ってる?」
「え?」
我に返って鶴見を見ると、少し意地悪そうな顔で微笑んでいる。
「それについては否定しないよ。でも肖子さんとは、これからも一緒に食事をしたいな」
「何故ですか?」
「底抜けの明るさがないから」
意味が分からず、肖子は首をかしげる。
「ただ明るいのは疲れる。その場は楽しいけど、そのあとが疲れるんだ。美味しい料理を食べて疲れるのはつまらないよね。きみとは落ち着いて食事ができそうだ」
「そうですか」
「多分、僕たちは似ているよ」
その後も、二週間に一度の割合で鶴見は肖子を食事に誘った。
仕事のあとは帰るだけなので、携帯電話に連絡がくれば、誘いに応じる。
事務員の小島が言っていた噂話は、ほぼその通りだった。鶴見興産の社長は、長年千奈津のパトロンで、愛人でもあった。千奈津は鶴見と結婚はしたが、それは自分が好きに活動するための手段にすぎず、鶴見自身も名声が高まってきた千奈津を利用することで、会社での地位を固めていこうとしているようだ。
何度目かの食事をして、肖子は鶴見と関係を持った。
所持品をあまり持たず、家具付きのマンスリーマンションに住んでいることを知った鶴見は、自宅に肖子を迎え入れた。ただし、千奈津が帰国しているときは都内のホテルで過ごす。
肖子の荷物はキャリーケースに入るだけ。
夫婦の寝室は別なので、鶴見の寝室にあるチェストは使ってもいいと言ってくれたが、こうしていつでもキャリーケースに入れておけば、忘れ物をせずに家を出ていける。
そして今回は……これで関係は終わりにしようと思ったのだった。
*
「それじゃ、鶴見とは二年近く付き合っているわけね」
話を聞いた百合が、アブサンを飲みながら言った。
「そうですね」
「肖子ちゃんは、鶴見氏のこと本気だったの?」と、桶川。
「好きでした。少なくとも、こんな私と向き合ってくれたし」
そう言いながら、肖子もグラスに口を付ける。目の前の世界がふわふわ揺れている。話しながら何杯飲んだのだろう。
「でも、もう帰らないのね」
「帰りません。明日、不動産屋に行って、部屋を借りるつもりでいます」
そこで肖子の記憶は途切れる。
「──寝ちゃったみたいね」
桶川が呟くと、霧は微笑を浮かべ、テーブルに置いてあるグラスを片付け始める。
肖子は隣に座っている富樫にもたれかかって、小さな寝息をたてていた。
「まだ聞きたいことはたくさんあったのにな。なんでこれだけの荷物なのか、なんで今回は鶴見の家を出るつもりになったのか。小説のネタになりそうなのに」
「それはまた今度聞けるだろ」
「私が次回も躁状態ならね」
「ところで、どうするの? この子」
桶川が富樫に聞く。
富樫は肖子が椅子から落ちないように抱き寄せた。
「オレが連れてきたわけだし。明日は日帰り出張だけど、オレが連れて帰るしかないだろう」
「そんな言い方しちゃってさ。晶ちゃん、嬉しそうじゃない」
百合がニヤニヤ笑って言う。
「アホか。霧さん、タクシー呼んでくれるか」
「──僕の作品に触れて……ねえ、この子、本物だと思う?」
「さあ。まだなんとも……」
霧は携帯電話を耳に当てながら、首をかしげて答えた。
桶川は二人席に座って、黙って肖子の話を聞いていた深町の顔を見た。
目が合うと、深町は無言で立ち上がった。