表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/24

三・棺 -3

「え……なに……」

 肖子は混乱する。

 キーホルダーが熱かったことも、この店にルシファーが居ることも、理解の範囲を超えていて、思考が追いつかない。アブサンのニガヨモギの所為で幻覚を見ているのか。いや、そこまでは飲んでいない。

 富樫は肖子が見ている方に顔を向け、

冬馬(とうま)も来ていたのか」と、声を掛ける。

「ああ、ひっそりと飲んでた」

 冬馬と呼ばれた男は席を立つと、ゆっくりとした足取りで近づいてくる。そして、

「あんた、そのキーホルダーが熱かったのか」と、肖子に話しかけた。


 黒い短髪に、鋭いまなざし。その目はアルコールの所為なのか、うっすらと充血している。だからルシファーに見えたのかと、肖子は安堵する。それでも雰囲気は、毎日閉館まで眺めているルシファーに似ていると思う。黒いTシャツの袖からは、肉付きの良い腕が伸びていた。


「熱かったのか」

「え、あ……はい」

 肖子がもう一度キーホルダーを持とうと手を伸ばすよりも先に、富樫がキーホルダーを拾い上げ、ポケットにしまった。

「そのキーホルダー、なんで熱いんですか?」

「内緒」

「それはね、ちょっと変わった作り方をしたからだよ」と、桶川が笑顔で答えた。

「そうなんですか……ビックリした……」

 どんな作り方をすれば、あんなに熱を持つ作品が作れるのか、肖子には見当もつかなかったが、詳しく聞くことはためらわれた。

「──こちらのかたも、みなさんのお知り合いなんですか?」

 無言で肖子を見下ろしている男の視線から逃げるように、富樫のほうに体を向けてから尋ねると、桶川がかわりに答えた。

「そう、深町(ふかまち)冬馬(とうま)くん。数年前、僕の個展に来てくれて知り合ったのよ。大学に籍を置いて、古代の研究をしてるんだよね」

 深町は黙って頷いた。

「そうですか。美術館に来ているシュトゥックのルシファーに似ていてビックリしました」

 肖子が少し照れながら言うと、百合が笑った。

「ルシファー? 冬馬くんが? この子の研究対象は縄文だよ。西洋のものなんて似合わないって」

「でも雰囲気が似てるんですよ」

「堕天使に似てると言われても、どう返せばいいのか分からないな」

「あ、すみません」

 確かに失礼だったかもしれない。肖子は深町に謝ると、アブサン入りのジントニックを飲み干した。


 霧はごく自然にカウンターの中から手を伸ばし、肖子のグラスを取ると、おかわりを作り始めた。深町は二人掛けのテーブルに戻り、分厚い本のページをめくりながらウィスキーを飲む。そして、その様子を肖子は盗み見る。

「冬馬が気になるか」

 富樫が含み笑いで聞く。

「いえ。でもホントにビックリしたんですよ。絵から出てきたのかと思った」

 毎日見つめているから……内なる心と対峙しているかのような目を、毎日見つめているうちに、あの絵のルシファーに惹かれてしまったから……

 でも深町は現実の人間だ。ルシファーではないと肖子は思い直し、霧が作ってくれたお酒をくいっと飲む。再び胃の中が熱くなった。

「左手だったよな。見せてみろ」

 富樫は肖子の左手をそっと掴むと、手のひらを見る。先ほどキーホルダーを乗せたところに、とくに変化はなかった。

「なんか今日はビックリすることばかりです」

「そうだな。オレもだよ」

「富樫さんもですか?」

「生きて動いているオレの絵に出会えた」

「ああ、そっか」

 肖子が笑うと、富樫も微笑んだ。それから右手で肖子の頬に触れて言った。

「おまえだったんだな」

「え?」

 富樫はそれ以上言わず、頬から手を離すとアブサンを飲んだ。

 頬に富樫の手の感触が残る。まるで愛おしいものを包み込むような手つきだった。戸惑いとアルコールで肖子の体が火照る。目の前の光景が少しずつ揺れ始め、酔ってきたということだけは自覚した。一度目を閉じ、開くと、肖子を見ている百合と目が合った。


「入ってきたときから気になってたんだけど、肖子ちゃんはさぁ、いつもそんな荷物を持ち歩いてるわけ?」

「いえ、今日はたまたま……」

「ふーん。旅行帰り?」

「いえ。荷物持って出てきただけです」

 酔いがまわってくると、余計なことも言ってしまう。百合の目が好奇に充ちたのを見て、失敗したと思ったが、まあいいかという投げやりな気持ちも湧いてくる。

「なんで? 彼氏とケンカしたの?」

「──奥さんが帰って来てるんで」

「なにそれ、肖子ちゃんって不倫してるの」

「そう……なりますよね」

「あー、やだやだ。こういう駄目女がいるから、不倫する駄目男が生まれるのよ。奥さんが帰ってくる? 普段は何処に居るのよ。奥さんが居ないあいだ、あんたを連れ込んで一緒に暮らしてるってこと? 肖子ちゃんもだけど、その男もどうしようもなくバカだね」

「鶴見さんは悪くありません。悪いのは奥さんです」

 百合にズケズケ言われ、それが正しいことに腹が立ち、思わず反論する。

「え? 鶴見? もしかして鶴見興産の鶴見? ってことは、奥さんって宝飾デザイナーの鶴見千奈津(ちなつ)?」

 桶川が驚いた顔をして肖子に尋ねたので、名前を口走ってしまったことに気づいた。

「へぇー。なるほどね」

 百合が理解したという顔で肖子を見る。


 隣にいる富樫を見ると、富樫も驚いた顔で肖子を見ていた。霧は日本人形のような顔で、そして二人席に居る深町は無表情だったが、それでも肖子を見ていた。いたたまれずに、目の前にあるグラスに口を付ける。

「鶴見千奈津って、そうだよね。普段はニューヨークで活動してるもんね。ダンナは鶴見興産の社長の子だから、奥さんとは別居生活だよね。へぇ、そっか。肖子ちゃんはダンナの家に居るんだ」

 百合が楽しそうに話す。

「──その奥さんが、今日から一週間日本に居るんです」

「だから荷物持って出てきたってことね。でもその程度の荷物持ち出したくらいじゃ、女がいることなんてバレちゃうんじゃない?」

「私の荷物はこれがすべてなので。鶴見さんの家にはもう何もありません」

「え? これだけ?」

「そうです」

 肖子は投げやりな口調で言うと、アブサン入りのジントニックを飲む。


「鶴見興産の今の社長が、鶴見千奈津にかなり投資してるんだよね。確か。昔、社長と鶴見千奈津がデキてるって話題になったのよ。社長の奥さんが亡くなったから黒い噂も流れたわね。でもさ、そもそもどうして知りあったの? 社長息子と」

 桶川が肖子に尋ねた。

「二年前、宮ノ森美術館で宝飾展を開催したんです。曰くのある宝石を集めた展覧会で、そのとき、特別出展で鶴見千奈津の作品も展示したんです」

「ああ、確かにあったね。宝飾展。僕も観に行ったよ」

「展覧会のレセプションパーティーに、鶴見千奈津と旦那さんが来ました。私は受付や裏方の仕事でパーティーに参加していたので、そこで出会ったんです」

 百合たちが肖子を見ている。

 肖子は溜息をつくと、語り始めた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ