三・棺 -3
「え……なに……」
肖子は混乱する。
キーホルダーが熱かったことも、この店にルシファーが居ることも、理解の範囲を超えていて、思考が追いつかない。アブサンのニガヨモギの所為で幻覚を見ているのか。いや、そこまでは飲んでいない。
富樫は肖子が見ている方に顔を向け、
「冬馬も来ていたのか」と、声を掛ける。
「ああ、ひっそりと飲んでた」
冬馬と呼ばれた男は席を立つと、ゆっくりとした足取りで近づいてくる。そして、
「あんた、そのキーホルダーが熱かったのか」と、肖子に話しかけた。
黒い短髪に、鋭いまなざし。その目はアルコールの所為なのか、うっすらと充血している。だからルシファーに見えたのかと、肖子は安堵する。それでも雰囲気は、毎日閉館まで眺めているルシファーに似ていると思う。黒いTシャツの袖からは、肉付きの良い腕が伸びていた。
「熱かったのか」
「え、あ……はい」
肖子がもう一度キーホルダーを持とうと手を伸ばすよりも先に、富樫がキーホルダーを拾い上げ、ポケットにしまった。
「そのキーホルダー、なんで熱いんですか?」
「内緒」
「それはね、ちょっと変わった作り方をしたからだよ」と、桶川が笑顔で答えた。
「そうなんですか……ビックリした……」
どんな作り方をすれば、あんなに熱を持つ作品が作れるのか、肖子には見当もつかなかったが、詳しく聞くことはためらわれた。
「──こちらのかたも、みなさんのお知り合いなんですか?」
無言で肖子を見下ろしている男の視線から逃げるように、富樫のほうに体を向けてから尋ねると、桶川がかわりに答えた。
「そう、深町冬馬くん。数年前、僕の個展に来てくれて知り合ったのよ。大学に籍を置いて、古代の研究をしてるんだよね」
深町は黙って頷いた。
「そうですか。美術館に来ているシュトゥックのルシファーに似ていてビックリしました」
肖子が少し照れながら言うと、百合が笑った。
「ルシファー? 冬馬くんが? この子の研究対象は縄文だよ。西洋のものなんて似合わないって」
「でも雰囲気が似てるんですよ」
「堕天使に似てると言われても、どう返せばいいのか分からないな」
「あ、すみません」
確かに失礼だったかもしれない。肖子は深町に謝ると、アブサン入りのジントニックを飲み干した。
霧はごく自然にカウンターの中から手を伸ばし、肖子のグラスを取ると、おかわりを作り始めた。深町は二人掛けのテーブルに戻り、分厚い本のページをめくりながらウィスキーを飲む。そして、その様子を肖子は盗み見る。
「冬馬が気になるか」
富樫が含み笑いで聞く。
「いえ。でもホントにビックリしたんですよ。絵から出てきたのかと思った」
毎日見つめているから……内なる心と対峙しているかのような目を、毎日見つめているうちに、あの絵のルシファーに惹かれてしまったから……
でも深町は現実の人間だ。ルシファーではないと肖子は思い直し、霧が作ってくれたお酒をくいっと飲む。再び胃の中が熱くなった。
「左手だったよな。見せてみろ」
富樫は肖子の左手をそっと掴むと、手のひらを見る。先ほどキーホルダーを乗せたところに、とくに変化はなかった。
「なんか今日はビックリすることばかりです」
「そうだな。オレもだよ」
「富樫さんもですか?」
「生きて動いているオレの絵に出会えた」
「ああ、そっか」
肖子が笑うと、富樫も微笑んだ。それから右手で肖子の頬に触れて言った。
「おまえだったんだな」
「え?」
富樫はそれ以上言わず、頬から手を離すとアブサンを飲んだ。
頬に富樫の手の感触が残る。まるで愛おしいものを包み込むような手つきだった。戸惑いとアルコールで肖子の体が火照る。目の前の光景が少しずつ揺れ始め、酔ってきたということだけは自覚した。一度目を閉じ、開くと、肖子を見ている百合と目が合った。
「入ってきたときから気になってたんだけど、肖子ちゃんはさぁ、いつもそんな荷物を持ち歩いてるわけ?」
「いえ、今日はたまたま……」
「ふーん。旅行帰り?」
「いえ。荷物持って出てきただけです」
酔いがまわってくると、余計なことも言ってしまう。百合の目が好奇に充ちたのを見て、失敗したと思ったが、まあいいかという投げやりな気持ちも湧いてくる。
「なんで? 彼氏とケンカしたの?」
「──奥さんが帰って来てるんで」
「なにそれ、肖子ちゃんって不倫してるの」
「そう……なりますよね」
「あー、やだやだ。こういう駄目女がいるから、不倫する駄目男が生まれるのよ。奥さんが帰ってくる? 普段は何処に居るのよ。奥さんが居ないあいだ、あんたを連れ込んで一緒に暮らしてるってこと? 肖子ちゃんもだけど、その男もどうしようもなくバカだね」
「鶴見さんは悪くありません。悪いのは奥さんです」
百合にズケズケ言われ、それが正しいことに腹が立ち、思わず反論する。
「え? 鶴見? もしかして鶴見興産の鶴見? ってことは、奥さんって宝飾デザイナーの鶴見千奈津?」
桶川が驚いた顔をして肖子に尋ねたので、名前を口走ってしまったことに気づいた。
「へぇー。なるほどね」
百合が理解したという顔で肖子を見る。
隣にいる富樫を見ると、富樫も驚いた顔で肖子を見ていた。霧は日本人形のような顔で、そして二人席に居る深町は無表情だったが、それでも肖子を見ていた。いたたまれずに、目の前にあるグラスに口を付ける。
「鶴見千奈津って、そうだよね。普段はニューヨークで活動してるもんね。ダンナは鶴見興産の社長の子だから、奥さんとは別居生活だよね。へぇ、そっか。肖子ちゃんはダンナの家に居るんだ」
百合が楽しそうに話す。
「──その奥さんが、今日から一週間日本に居るんです」
「だから荷物持って出てきたってことね。でもその程度の荷物持ち出したくらいじゃ、女がいることなんてバレちゃうんじゃない?」
「私の荷物はこれがすべてなので。鶴見さんの家にはもう何もありません」
「え? これだけ?」
「そうです」
肖子は投げやりな口調で言うと、アブサン入りのジントニックを飲む。
「鶴見興産の今の社長が、鶴見千奈津にかなり投資してるんだよね。確か。昔、社長と鶴見千奈津がデキてるって話題になったのよ。社長の奥さんが亡くなったから黒い噂も流れたわね。でもさ、そもそもどうして知りあったの? 社長息子と」
桶川が肖子に尋ねた。
「二年前、宮ノ森美術館で宝飾展を開催したんです。曰くのある宝石を集めた展覧会で、そのとき、特別出展で鶴見千奈津の作品も展示したんです」
「ああ、確かにあったね。宝飾展。僕も観に行ったよ」
「展覧会のレセプションパーティーに、鶴見千奈津と旦那さんが来ました。私は受付や裏方の仕事でパーティーに参加していたので、そこで出会ったんです」
百合たちが肖子を見ている。
肖子は溜息をつくと、語り始めた。