三・棺 -2
ビールを飲みながら、肖子は店内を改めて確認する。
店に入って目の前にあるカウンター席。七人も座れば満席になる。カウンターの右奥には二人掛けのテーブル席があった。その席の隣にある扉はトイレだろうか。それだけの空間だ。
テーブル席に座っている人は居ないが、飲みかけのウィスキーグラスと分厚い本が置いてあるので、もしかしたらトイレに行っているのかもしれない。
霧が富樫と肖子の前にアーモンドが入った小皿を出したので、肖子は店内観察をやめて正面を向いた。富樫は持っていたスケッチブックを開いて、また肖子を描き出す。その様子を見ていた百合が聞いてきた。
「ねえ、肖子ちゃん、いつから晶ちゃんのモデルやってるの?」
「今はスケッチされてますけど、モデルにはなってないです。西口のビアレストランでさっき知り合ったばかりです」
「肖子はオレの胸にナイフを突き刺した女だよ」
「え? 冗談でもやめてくださいよ。さっき出会ったばかりじゃないですか」
会話を聞いていた桶川が
「じゃあ、肖子ちゃんも自己紹介して」と、ニッコリと微笑む。
「……宮ノ森美術館でバイトをしてます」
「宮ノ森美術館? あそこって、いつもちょっと変わった展覧会してるよね」
「はい。今は幻想展をやってます」
「あの美術館、建物も個性があってわりと好きよ。いつか僕の作品も展示してみたいわねえ」
「桶川さんは、どんな作品を作るんですか?」
「小さいところでいうと、古代の遺物をモチーフにした鋳造品ね。大きい作品は棺。僕的には、棺がメインテーマ」
「え?」
「どんなのかと言うとね……」
桶川はそう言いながらスマートフォンを取り出すと、写真を見せる。そこには古代エジプトのファラオ像や、古代ローマの皇帝像、縄文時代の土偶をモチーフにしたと思われる作品が写っていた。パッと見た目で分かるのはそのくらいで、他は何を表現しているのか、写真からではよく分からない、うねうねとした物体が写っている。大地のエネルギーのようなものに肖子には見えた。そして、これは棺なのだろうか……大きな細長い石のようなものや、柔らかそうな素材で出来た三角おむすびのような形の物体、木の幹が倒れたようなオブジェの写真が並んでいた。
「これが棺ですか?」
「そう。石の中にも、シリコンの中にも、木の中にも、ちゃんと入ることができるよ」
「へえ……面白いですね」
「この中で寝るとね、胎児に戻ったような気持ちになれて落ち着くのよ。自然に還るっていう気持ちにもなれるわねえ。自分自身を忘れて、何もかも無になれる感じね。作品に取りかかるときは、まずこの中に入って僕自身が太古に還って、そこから湧き出たものを表現するのよ」
桶川がうっとりした表情でそう言ったとき、肖子の顔が一瞬凍ったが、桶川は気づかなかった。百合も霧に話しかけていたので、肖子の顔は見ていない。肖子をスケッチしている富樫だけが、一瞬の表情に気づいた。
「実際に此処で長い時間寝てるってことですよね」
肖子は会話を続ける。
「もちろん。アトリエの庭に置いてるのよ」
「へえ……」
「もし実物を観たかったら、いつでもいらっしゃい。アトリエは中央線の奥の方だから、ちょっと遠いけどね」
「ここの店の名前も棺っていう意味だって、富樫さんから聞きました」
「そうよ。僕が店の名前を付けたの。此処は大きな棺なの。此処に居る人が同じ時間を共有する棺──」
「ほら肖子、グラスが空だぞ。何を飲む」
富樫が空になったビールグラスを持ち上げる。
「そしたら……ジントニックをください」
「霧さん、それにアブサンも入れてやってくれ」
「画家が好んだ飲み物ですね」と、肖子が笑った。
「知ってるのか」
「美術館に居ますから」
富樫は面白そうにニヤリと笑う。
「アブサン、入れてもいいのね?」と、霧が念を押したので、肖子は頷いた。
「強い酒も飲めるんだな。歳はいくつだ」
「秋が来たら二十六です」
「──もう立派な女だな」
霧がロンググラスにジンとトニックウォーターを注ぐ。そして緑色の液体、アブサンを注ぐと、乳白色に変化した。
この酒は薬草系のリキュールで、ニガヨモギ、アニス、ウイキョウ、ヒソップなどのハーブが主に使われている。フランスやスペインなど、ヨーロッパで好んで飲まれた。十九世紀のフランスの画家たちに愛飲されたが、安価なアルコールだったので中毒者も多く出ることとなる。
主原料のニガヨモギに含まれるツジョンという香味成分に、幻覚や麻薬作用があると言われているが、あくまで大量摂取した場合による。だが、あまりに中毒者が出たので、一九一五年、フランスはアブサンの製造を禁止した。その後、ツジョン濃度を制限し、アブサンは復活。それだけ愛好家がいるということなのだろう。
──鶴見も好んで飲んでいる。破滅思考のある人間が好むのだろうか、と、肖子は霧が手にしているアブサンの瓶を眺めながら、そんなことを思っていた。
きっと奥さんの前ではアブサンは飲んでいないのだろう。もっと高級なワインを今頃は開けているに違いない。
霧がコトリと肖子の前にグラスを置いた。
ジンもアブサンもアルコール度数は高い。一口飲むと、食道を通り、流れ落ちた液体が胃の中で熱く蒸発したかのようだ。そういえばビアレストランでも、枝豆とガーリックシュリンプしか食べていなかったことを思い出す。飲み過ぎは危険だ、と、そのときは思ったが、喉を通って広がるアブサンのニガヨモギの香りと、店に漂うどことなく気怠い雰囲気に包まれ、そんなことはすぐに忘れてしまった。
強いアルコールの所為で、少しトロンとした肖子の顔を富樫は凝視する。
その視線に気づき、富樫を見ると、その表情は少し柔らかかった。
「先生、もうスケッチは終わりですか?」
「先生は止めろ。富樫でいい。此処に居るのはみんな『先生』だからな。作家に造形作家、みんな先生と言われるような人間だ」
「確かに」
そう言って肖子は笑った。
「このお店で、いつもこんなふうに集まるんですか?」
「とくに決めてるわけじゃないが、開いてるときはいつも誰かは居るな。百合は鬱状態のときは来ないけど」
「そんなとき、部屋から出られるわけないわ」
百合が吐き捨てるように言って、ロックグラスに入った液体をあおる。
「此処でね、こんなふうに飲みながら、それぞれの目指している芸術話をしてるのよ」
桶川が楽しそうに笑いながら答えた。その表情に肖子も自然と笑顔になる。
「いいですね。そういうの。まるで池袋モンパルナスみたい」
「池袋モンパルナスなんて、古い言葉知ってるのね」と、霧が少しだけ驚いた顔をして肖子を見た。桶川も驚いた顔をしている。
「大学で芸術学も囓ったので」と、照れ笑いをして答える。
大正の終わりから戦後にかけて、豊島区西池袋あたりには芸術家たちの集うアトリエ村があった。そこで芸術家たちは創作に情熱を注ぎ、夜になれば池袋の町に繰り出して交流し、芸術論を戦わせていたという。
池袋モンパルナスという言葉は、世界の芸術家たちが集まる地区だったフランスのモンパルナスの名から取ったものだ。
「じゃあ、肖子ちゃんも此処の仲間に入れてあげる。霧さん、私にもアブサンちょうだい」
「でも私は芸術には携わってないです」
そう答えると、百合は顎で富樫を指す。
「もう晶ちゃんのモデルじゃないさ」
「……モデルなのかな」
肖子が富樫の顔を見ると、煙草に火を付けた富樫は、ゆっくりと煙を吐く。そして何かを決心したかのように、ズボンのポケットに手を入れた。
「肖子」
「はい?」
「これは何だと思う」
富樫は何本もの鍵が付いている束を、ジャラジャラ音を立てながら肖子に見せた。
「鍵ですよね」
「こっちのキーホルダーだよ」
見ると、少し大きめの黒いものが付いていた。富樫はキーホルダーだけ取り外し、肖子の目の前でブラブラと揺らす。
「それは僕の作品ね。晶のために作ったのよ」
「へえ。桶川さん、こういうものも作るんですね。エジプト神のブロンズ像に似てますね」
男神と女神が並んでいる姿だ。女神は子供を抱いている。
「この男神の冠からするとオシリス神かな。そうすると女神は妻のイシスで、子供はホルス神ですね」
「そうだ」
「でも、この表面の模様、変わってますね。火焔の模様? あ、でも模様が入っているのはイシスとホルスだけ?」
さらに良く見ようと、手をキーホルダーに伸ばしたので、富樫は肖子の手首を掴むと、手のひらを上に向けさせ、そこにキーホルダーを置いた。その瞬間、
「熱っ!」
肖子が手を引っ込めたので、キーホルダーはカウンターの上に落ちた。
その様子を、富樫も、桶川も、百合も、霧も黙って見ていた。
皆の視線を感じながら、肖子は違う方向からの視線を感じた。
射るように見る視線の元を辿るために顔を上げる。
カウンター奥の、二人掛けのテーブル。
肖子は息を呑む。
そこに居たのは、ルシファーだった。赤い目をしたルシファーが、肖子の顔を凝視していた。




