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三・棺 -1

 富樫がタクシーを停めたのは、新宿ゴールデン街のかなり北のあたりだった。

 人通りも多くないその一帯は、街灯も少なく、暗く湿った印象を受ける。灯りの届かないビルの隙間から、見えない何かがこちらを窺っている……そんな妄想にとらわれる。一人でなら絶対に来ない場所だ。

 タクシーが走り去ると、富樫は鼻歌を歌いながら歩き出す。キャリーケースを転がして、肖子が付いてくるのをチラリと振り返り確認すると、右の唇だけを動かし、意味深な笑みを浮かべる。

「家出娘か」

「え?」

「ま、娘って年齢(とし)でもないな」

 富樫は楽しそうに言うと、肖子に背を向けて再び歩き始めた。ビアレストランでのおぼつかない足取りは消え、軽やかに、楽しそうに足を運ぶ。


 やがて一軒の小さな雑居ビルに入ると、すぐ正面にあるエレベーターの昇降ボタンを押した。ボタンは丸い突起で、このビルは昭和に建てられたものなのだろうと、誰もが容易に想像するくらい古ぼけていた。

 エレベーターを支えているロープが劣化しているのではないかと思えるような、ぎしぎしという音を立て、扉が開く。富樫は気にする様子もなく乗り込んだので、肖子も後に続いた。若干不安だが、ここまで来てしまったのだから、何処に行くのかは見届けよう。少なくとも、この画家よりは私は酔っていない。危ないことをされたら、キャリーケースで殴ってでも逃げると、心に決めていた。


 富樫が押した階は地下一階。それがこのビルの最下層になっていた。ゆっくりと扉が閉まる。

「ここに飲み屋さんがあるのですか?」

 沈黙が少し怖かったので、明るい声で肖子は富樫に声を掛けた。

「そう。美人のママがいるんだ。オレの憩いの場所」

 チンと音がして、地下一階を示す階のランプが点滅する。扉が開いてエレベーターを降りると、正面には人一人がやっと通れそうな木製の扉に『coffin』と彫刻刀で彫ったような文字が刻まれていた。

「コフィン……って読むんですか?」

「ああ。イギリス読みだとそうだな。(ひつぎ)という意味だよ」

「棺……」

 店の名前にはあまりふさわしくないと思いながら、その店名を見つめる。しんと静まりかえった店内を想像したが、富樫が扉を開けると、中からは賑やかな女性の黄色い声が聞こえてきた。

 扉の内側から放出された煙草の煙が、いろいろな声と匂いと時間を含んだ空気とともに肖子の身体にまとわりつきながら外へ散っていく。


 足を踏み入れると、外が暗かったぶん、店内のオレンジ色の電球色が視神経を刺激する。まばたきをするたびに、古いカメラのシャッターを切っているように、(あん)(めい)が交互に訪れるように感じる。

「今日は早いのね」

 そう声を掛けたのは、カウンターの中でグラスにウィスキーを注いでいる女性。

 ──若い

 それが肖子の第一印象だった。しかし、よく見ると、年齢不詳な顔立ちをしている。

 まっすぐな黒髪を後ろで無造作に束ねている。紺色のTシャツの胸の膨らみは程よく、張りもありそうだ。腰回りにも余計な肉は付いていないように見え、スリムなジーンズを履きこなしている。

 そしてなんと言っても、その顔。

 大きな黒目に小さくて赤い唇。まるで日本人形だ、と肖子は思った。

 若く見えるけれど、どれだけ年数が経っても歳を取らない人形のように、その女性は年齢という鎖から、とうの昔に解き放たれているように思えた。

「個展の打ち上げ帰りだよ」

 富樫はそう言うと、入口から少し奥に入ったカウンター席に腰を下ろし、肖子を手招きする。素直に付いていくと、カウンター内の女性と目が合った。

「どうだ。オレの絵にそっくりだろう」

「そうね。雰囲気は似てるかも」

 店のママと思われるその女性は、店内に飾られている額絵に目を移す。肖子もその視線の先を目で追うと、壁のあちこちに絵が掛けられていた。タクシーの中で見せて貰ったスケッチブックと作風が似ている。富樫の作品なのだろう。


 ──空虚な目で正面を向いている女性の胸から上の肖像

 ──ベッドの上に仰向けに横たわり、だらりと腕を垂らした女性

 ──テーブルに頬杖をついて、うつむき加減でその先にある心臓を見つめる女性

 ──両手に心臓を持ち、天秤のように立っている女性


 美しいけれど、「生者」には思えない女性たちばかりだ。これが私なのかと思いながら肖子は富樫の左隣に座った。

 カウンターの奥に座っていた男女が

「個展で売れたー?」と、富樫に声を掛けてくる。

「三点くらいかな」

「おー、じゃあ今日は(あきら)のおごりだね」

「アホか。(きり)さん、アブサンをくれ。この子にはビール」

「ねえねえ、その可愛い子は誰? 晶ちゃんのモデル?」

 座っていた女性が立ち上がって、ふらふらしながら富樫に近づいてくる。おそらく三十代だろう。恐ろしいくらいに色白で、服の下にあるはずの肉体が感じられないほど、線が細い。

「まあな。それよりそんなフラフラしてて大丈夫なのか。どれだけ飲んでるんだ」

「んー、もうわかんない」

 色白の女性は、座っている富樫に寄りかかりながら、肖子の顔を覗き込む。まばたきひとつしないその目に圧倒された。

「こいつは純名(じゅんな)百合(ゆり)。作家」

 富樫が女性を紹介する。

「はじめまして。橘肖子です」

 肖子が小さい声で挨拶をすると、百合は口角をあげたが、目は笑っていなかった。

「はじめましてー。百合です。しょうこちゃん、本は読むぅ?」

「はい、読みます」

「そう。じゃあ私の本も読んでね。カンちゃん、その棚から一冊出してちょうだい。ペンも持ってきてー」

 百合は振り返りながら、先ほどまで一緒に飲んでいた男性に声を掛ける。

 頼まれた男性は「はいはい」と言いながら、単行本とペンを手に取り百合に渡す。

「えーっと、しょうこちゃんは、どんな字を書くの?」

「肖像画の肖です。それに、子供の子」

「肖子ちゃんへ……っと」

 百合は本の見返しにペンで肖子の名前を書き、それから自分のサインと日付をさらさらと書いた。百合の連れの男性は笑いを堪えながらその様子を見ている。

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

「一四〇〇円ね」

「え?」

「本の代金、一四〇〇円」

 満面の笑みで百合が本を肖子に渡す。呆気にとられて富樫を見ると、富樫は知らん顔で煙草を吸っている。百合の連れが

「諦めて払ってあげてね」と、肖子に優しく微笑んだ。

 これは新手(あらて)の商売か? と思いながらも肖子はショルダーバッグから財布を出し、お金を百合に渡した。

「ありがとう。読んだら感想聞かせてね」

 百合はお金を無造作にロングスカートのポケットに入れると、そのまま富樫の隣に座った。

 肖子は本のタイトルを見る。

「朝の光と朝の闇……どんなお話しなんですか?」

「私の躁鬱病日記」

「今の百合ちゃんは『躁』の状態だから、こんなふうに外で飲めるの」

 百合の連れが、自分たちのグラスを手にして近づきながら肖子に説明する。

 日本人形のような霧が、富樫にはアブサンのストレートを出し、肖子にはビールの入ったグラスを出した。

「この男は、桶川(おけがわ)(かん)。造形作家だ」

「宜しくね、肖子ちゃん」

 桶川は女性的な笑みを浮かべて肖子に微笑む。体が大きく逞しいが、所作はとてもしなやかだ。

「そして、この店のママは(きり)さん。美しいだろ」

 霧がアルカイックスマイルで肖子に無言の挨拶をしたので、肖子もぺこりと頭を下げてからビールグラスに口をつける。なんだかとても不思議な世界に足を踏み入れたような気がした。

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