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二・心臓のない芸術家

 雑居ビルの一階にあるビアレストランに入った。

 まだ昼の残暑の名残りがある蒸し暑い夜の風。エアコンが効いた店内の空気にホッとする。

 窓側の席は埋まっていたので、店内の真ん中の席に案内されたが、観葉植物がちょうど良い具合にパーテーションになっていて、ほどよく落ち着ける。

 キャリーケースはテーブルの下に置き、ラガービールを注文する。

 美術館での服装は自由だが、白いブラウスにモノトーンのタイトスカートにローヒールという組み合わせが肖子の定番になっているので、他人が見れば出張帰りの会社員と思うだろう。

 運ばれてきたラガービールは泡がふんわりとしていて、ほろ苦い喉ごしが心地よい。

 枝豆とガーリックシュリンプを注文して、もう一口、ビールを飲む。足を組み替えたときに、コツンとヒールの先がキャリーケースにぶつかった。


 ──この決断は間違っていない。あの家を出るべきだと、冷静な部分の自分が言う。

 なにも生まない不毛な関係だ。明日、何処かの町の不動産屋に入り、ちゃんと自分の部屋を借りればいいだけなのだ。別にお金に困っているわけじゃない。


 ──独りは寂しいよと、駄目な自分が反論する。

 キャリーケース一つだけの持ち物。これで一人になったら、本当に忘れられてしまうんじゃない? そんな声が聞こえる。


 でも、少なくとも、奥さんが海外から戻ってくるたびに痕跡を消して、家から出なければならない生活は間違っている。あの家に居ても未来がないことは、よく分かったではないか。

 よし。明日は不動産屋へ行こう。今までだって家具付きの賃貸に住んでいた。その生活に戻るだけだ。

 そう思うと気分も晴れ、枝豆をぽいと口の中に放り込んだとき、背後で賑やかな声が聞こえてきた。

富樫(とがし)先生、気をつけて帰って下さいよー」

「はいはーい! みなさん、ごきげんよう!」

 千鳥足の、おぼつかない足音が観葉植物越しに聞こえる……と思ったら、ザザザっという音と共に、観葉植物の隙間から男性が倒れ込んできた。

「これだから酔っ払いは……」と、内心思いつつ、穏やかな口調で「大丈夫ですか」と声を掛ける。

「大丈夫、大丈夫、いやー、すみませんね。そんなに飲んでないはずなんだけどな」

 男性は肖子の助けを借りながら立ち上がろうとしている。そして彼女の顔を見た途端、一瞬顔が凍り付き、そのあと、何度もまばたきをした。

「お……」

「お?」

「オ!」

 男性が肖子の両肩に手を置き、興奮気味に叫んだ。

「オレの絵が動いてる!」

「……は?」


 四十代前半という頃だろうか。洒落たブランドもののスーツを着て、黒いフレームの丸眼鏡をかけている。かなり飲んでいるらしく、目の周りの肌は赤く、焦点も若干うつろだが、素面(しらふ)なら上品な男性と思うだろう。

「おおお、とうとう命が宿ったか。それとも此処は天国か」

 男性は嬉しそうに、肖子の肩を何度も叩きながら破顔する。

 この酔っ払いをどうしたらいいものか、肖子が考えあぐねていると、

「ちょっと、先生。しっかりしてくださいよ。出口はここじゃないですよ。タクシー呼びましょうか」

 と、中年の女性が顔を出した。この男性以上に、品の良いスーツに身を包み、指には重厚な指輪がいくつも見えた。

「見てくれ、オーナー。ここに俺の絵が居るぞ」

 男性は嬉しそうに肖子を指さす。

 オーナーと呼ばれた女性は肖子を見て申し訳なさそうな顔をした。

「すみませんね。かなり早い時間から飲んでいたので、出来上がっているんですよ。いま、連れて行きますから」

「この方は……画家ですか?」

「ええ。個展の最終日だったので打ち上げをしていたの。先生、タクシー呼びますから、いったん席に戻りましょ」

「オレは此処に居る!」

 男性はそう言うと、肖子の隣の椅子に腰を下ろした。それから斜め掛けにしていた鞄から小さなスケッチブックを取り出すと、

「ははは。俺の絵が動いていて、絵を描かせてくれるなんてな」と、笑いながら肖子の顔をスケッチする。

「……あ、いいですよ。タクシーが来るまでこの席に居ても。私は構わないです」

 肖子がオーナーと呼ばれた女性に言うと、その女性はお礼を言って店のスタッフに声を掛けに行った。

「あの女性は画廊のオーナーですか?」

「そうだよ」

 男性はサラサラと鉛筆を運んでいる。そして肖子が飲んでいるビールグラスを持つと、ぐびぐびと残りを飲み干してしまった。

「──先生、名前は?」

「なんだ、オレの名前も知らないのか。オレの絵のくせに」

「私、物覚え悪いんです。名前教えて下さい」

「仕方ないな。富樫(とがし)(あきら)だよ。もう忘れるなよ」

「はい。忘れません」

 聞いたことはない画家(なまえ)だな、と思いながら、肖子は微笑む。

「ときに、きみの名前はなんだっけ」

「──自分の絵なのに、モデルの名前を忘れたんですか? 先生も物覚え悪いですか?」

 面白がって肖子が言うと、富樫は笑いながら

「はい。物覚え悪いです。名前教えて下さい」と答えた。

肖子(しょうこ)です。(たちばな)肖子(しょうこ)。もう忘れないでくださいね」

 答えながら、あらためて自分の名前を認識する。そう、それが私の名前だ。

 ほんの一握りの荷物以外、全てを失くしてしまったけれど、この名前は間違いなく自分であることの証明だ……


「先生、タクシーが到着しましたよ」

 先ほどのオーナーが肖子たちの席に顔を出した。

「オレはまだ肖子と飲みたいな」と、富樫は席を立つのを渋る。

「もうじゅうぶん酔っ払ってますよ。先生、この女性にも迷惑ですよ」

「そんなことはないよな」

 富樫が酔った目で肖子を覗き込んだ。一瞬躊躇したが、どうせ今晩は帰る場所が無い。この画家と飲み明かしても面白いかもしれない。

「よし、肖子も行こう。タクシーに乗って二軒目だ」

 まるで心の中を読まれたようで驚いた。

 富樫はよろよろと立ち上がると、肖子の腕をつかみ、店の外に出ようとする。

「ちょっと、先生!」

 オーナーが困り果てた声をあげたので、肖子は微笑んで立ち上がり、伝票とキャリーケースを手にした。

「大丈夫です。適当に帰りますから」

「そう? お仕事帰りなのに申し訳ないわね。あ、伝票はこちらで払っておくので。それと、もし迷惑なことがあれば、ここに連絡して」

 オーナーが差し出した画廊の名刺を受け取り、富樫と一緒に店を出た。


 店の外ではタクシーが待っていたので乗り込むと、

「ゴールデン街方面に向かってくれるかな。そこからは指示するから」

 富樫は運転手に声を掛ける。それから手にしていたスケッチブックを広げた。

「どんな絵か見せてもらえますか?」

「いいよ」

 開かれた(ページ)を覗き込むと、そこにはモディリアーニを思わせるようなデッサンが描かれていた。アーモンド形の目に極端に長い顔と首。額の広さは確かに肖子の特徴だ。髪は顎のラインまで流れるように、それでいて無造作に描かれていて、そこはかとなく色気がある。

「どうだ。そっくりだろ」

「アンバランスな顔ですよね」

「当たり前だ。このデッサンの狂ったような顔こそが本物(リアル)なんだよ。シンメトリーの顔があってたまるか」

 酔っているわりには口調はしっかりしている。描かれた自分を眺め、まるで心の中を表現されているようだと感じた。

 アンバランス。

 本当はいつでもバランスの取れた生活を送ることが出来る筈なのに、バランスが取れることで、もしもまたそれが壊れてしまったらと躊躇してしまう。そっと描かれた自分を指でなぞった。

「──先生、他の頁も見ていいですか?」

「いいよ」

 スケッチブックを受け取り、前の頁を捲ると、そこには所狭しと心臓が描かれていた。

 デフォルメされた心臓もあるが、その多くは写実的に、詳細に描かれている。

 顔が崩れたモディリアーニ風のスケッチとは大違いだ。

「オレは心臓にこだわりがあるんだ。ほら、これは違いが分かるか?」

 富樫が描かれた心臓の一つを指さす。

「えっと……あ、左右が反転してます」

「ご名答。これはオレの心臓」

 肖子のすぐ目の前で、富樫がにやりと微笑む。眼球の色素が少し薄いと、そんなことを思っていると、富樫は自分のシャツのボタンを外し始めた。

「え? ちょっと、なにしてるんですか!」

 慌てて止めようとすると、

「肖子はオレの絵だから教えてやる」と、耳元で囁いた。

 はだけたシャツの間から、胸が見えた。

 左側の、心臓があるあたりに、四センチくらいの縫い痕があった。

 富樫は肖子の細い手首を掴むと、肖子の指をその縫い痕に沿って這わせる。

「女に刺された」

「え?」

「でもね、オレの心臓は此処には無かったから助かったんだよ」

 そう言いながら、掴んだ手首を右側の胸に移動させ、肖子の手のひらを強く胸に押し当てた。


 どく どく どく


 鼓動が手のひらに伝わってくる。中心よりも少し右側から、心臓の音が確かに感じられた。

「右に?」

「そう。オレの心臓はこっち。ナイショだよ」

 そう言って微笑む富樫の顔は、秘め事を打ち明けて、相手のことを絡み捕らえる闇の住人のようだった。

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