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六・オシリスとイシス -4

 店を出ると、富樫はタクシー乗り場に向かった。

「明日も仕事だろ。おまえは帰ってゆっくり寝ろ。そのかわり冬馬は借りるぞ」

「もしかして『coffin』に行きます? 私も行きたいです。桶川さんに聞きたいです。あんなものが作れるなんて……」

「やめておけ。今日のことを知ったら、完は──」

 富樫はそこで言葉を止め、一呼吸おいてから話し始める。

「オレには分からないが、完の作品に触れた人間は体力を消耗する。おまえもしっかり休め」

 言われるまでもなく体力は消耗しきっていたが、自分が体験したことが理解しきれていなかった。なにが起こったのかを知りたい。桶川はいったい何者なのだ。


 二人でタクシーに乗り込んだ。富樫は肖子を深町の家に送り届け、そのまま深町を連れて『coffin』に行くつもりらしい。

 車が走り始めると、スマートフォンを出して、深町に電話をしている。

 肖子は目を閉じる。視界が閉ざされ暗闇になると、冴子の記憶が甦ってくる。

 似ているとは言わない。けれども、似ている運命を感じずにはいられない。

 でもね、冴子さん。あなたは幸せです。産んでいいと言われたのだから。

 深町の家の前でタクシーは停まった。

 肖子は富樫に挨拶をし、タクシーを降りる。門の扉に立つと、その先に見える引き戸の玄関には灯りがともっていた。

 なんて優しい灯りだろう。

 あの灯りの中には人が居る。そう思うだけで、感情が高ぶり鼻の奥がつんとする。もう何年もこんな灯りがともっている扉を開けたことはない。

 カラカラと戸を開けると、深町が出迎えてくれた。


「おかえり」

「……ただいま」

 深町は最初に会ったときと同じ、黒いTシャツを着ていた。

「タクシーが待ってます。富樫さんもいます」

 肖子は靴を脱ぐと、だるく重い体を引きずるように居間に向かう。

「橘さん大丈夫? オレも居た方が良くないか?」

 さすがに心配そうに深町が声を掛ける。

「大丈夫です。富樫さん、待ってますから」

「──風呂入ってるから。ゆっくり浸かるといい。帰ってきたらオレも入るから、お湯はそのままにしておいて」

「わかりました」

 深町は、肖子が居間を通り客間に入ったのを見届けて家を出た。

 門の外にはタクシーが待機していて、富樫の姿が見えた。深町が乗り込むと、富樫はどこか安堵したような表情を浮かべた。


「呼び出して悪いな」

「いえ。オレも気にならないと言えば嘘になりますから」

 タクシーが走り出すと、富樫は運転手には聞こえないくらい小さな声で

「おまえ、肖子に冴子の名前を言ったか」と聞いた。

「まさか。言いませんよ」

「だよな。あいつ、冴子の名前を口にした。冴子が栃木出身だということも知っていた」

「ってことは、本当に冴子さんの記憶を見たということですか」

「オレにはそうとしか思えない。でもあいつ、火事だけじゃない。妊娠経験もある」

「え」

 深町は驚いて富樫を見た。富樫は参ったという素振りで頭を掻く。

「肖子本人はハッキリと口にしてはいない。でも間違いない。冴子との共通点は多いと思う。だから完が求めるような人物かは断定できない。だがオレは、肖子が巫師(ふし)体質なのは間違いないと思う」

「桶川さんが知ったら、どうするでしょうね」

「……完に全部を話すつもりはない。でもおまえには、さっきの肖子の様子を伝えておこうと思ってな」

「なんでオレに?」

「今までのなかで、おそらく一番おまえが完の作品に反応しているだろう。自分の体験と比べて肖子を判断しろ」

 そう言うと、富樫はさらに小声で話し始めた。

 聞きながら深町は、桶川の個展で作品に触れたときの衝撃を思い出していた。


 桶川が作った丸木舟のオブジェに触れ、自分の道は決まった。自分の場合は桶川の作品がプラスに働いたが、果たして肖子はどうなのだろう。

 そして自分には桶川の望む能力はなかったが、肖子はどうなのだろう。もしあったとしても、あの細い体では負担も大きそうだ。

 冴子の追体験をしただけでも、あんなに疲れていたのだから。

「──オレも彼女は冴子さんの記憶を見たと思います。そしてオレも富樫さんに賛成ですね。桶川さんたちには悪いけど、彼女にはさせたくないです。ヘタすりゃ彼女のほうが壊れそうだ」

「おまえもそう思うか」

「家族を亡くし、子供も……か。もちろん彼女にもまるで非がないとは言わないけど、それでも、会ったこともない鶴見氏に怒りを覚えますよ」

「同感だ」

 家族を亡くし一人になり、学生時代の友人とも疎遠になった肖子にとって、鶴見は大事な存在だったに違いない。それが認められない関係だったとしても。

 そして今、肖子は鶴見と決別しようとしている。そのあと肖子にとって大事な存在になる人物は現れるのだろうか。

 間違いなく富樫は肖子を見守るだろう。彼女の傍に居ようとするだろう。彼女は富樫を受け入れるだろうか。

 オレは?

 肖子が毎日眺めていたルシファーであるオレを、彼女は必要とするだろうか。そしてオレはどうしたい?


「本当ならこの先、肖子に完は会わせたくないところだが、そうもいかないだろう。あいつも完が作るものの秘密は知りたいはずだ」

「あんな体験をしたら当然ですね」

 深町の言葉に富樫は溜息をつく。

「いっそ彼女に全部話したらどうですか」

「話したら肖子はどうすると思う? おまえはどうだった」

「──試しますね、やっぱり……」

 深町は自分の体験を思い出し、答える。

 タクシーはゴールデン街近くの花園神社で停まった。


 *


 湯船のなかに身をゆだねると、体が少し楽になった。でも時間が経つにつれ、体験した記憶は鮮やかになり、より現実味を帯びてくる。肖子は手のひらを見た。キーホルダーを乗せられた左手は、右手と同じように見た目には何の変化もない。でも手のひらの奥では何かが燃えているような気がした。その左手で肖子はお腹に触れた。目を閉じる。


 百貨店のトイレで妊娠検査薬を使った。判定窓に赤紫色の縦ラインが現れたとき、目の前の風景が崩れたように感じた。

 あってはならないことが起きてしまった。

 鶴見の子を宿してしまった。

 鶴見はなんと言うだろう。やはり堕ろしてくれというだろうか。

 でも……鶴見と奥さんの間に愛はない。奥さんのことを怖い女だと言い、もしも結婚を承諾しなければどうなっていただろうと言っている。肖子と居ると、そう思ってしまうと言ってくれている。

 ──もしも子供が出来たと知ったら、鶴見は何かを変えようとするだろうか。

 そんな期待をしてしまった。鶴見興産の次期社長夫人になりたいとか、そんなことは少しも考えていなかった。ただ、安定した心の居場所がほしかったのだ。


 その夜帰宅した鶴見に妊娠を告げた。鶴見は穏やかな顔で黙って聞き、そして言った。

「僕と千奈津の間に子供が出来ることはないだろうから、本当は嬉しいよ。でも、無理なのは分かっているよね」

 その声はどこまでも穏やかだったが、有無を言わせない力があった。

「もちろん肖子のことは好きだ。でも僕は此処からは逃れられない。そのことは肖子も分かっているはずだ。大丈夫、なんの心配もいらないよ。僕に任せてほしい」

 病院を紹介するときの態度が、とてもスムーズで慣れているように感じた。

 過去にもこういうことがあったのではないか。そんな疑問がわいてくる。

 だとしたら、今は自分を選んでくれているけれど、興味のある女性が現れれば、あっと言う間に追い出されるのではないか。

 結局のところ、鶴見にとって自分はどんな存在なのだろう。怖くて聞けなかった。本音を聞いたら、とても立ち直れる自信はない。

 医者から託されたと言って、鶴見が持ってきた同意書にサインをしたが、相手の欄は空欄だった。なぜ空欄なのか、怖くて聞けなかった。

 無機質な処置室のベッドに寝かされ、麻酔をかけられ、目覚めたときには子宮から消えていた命。


 その二週間後に『幻想展』が開催された。

 展示室で対面したルシファーに、肖子は糾弾されているように感じた。作品の前に立ち尽くし、動けなかった。堕天使はルシファーではなく私だと、作品を眺めながら思っていた。

 最初はルシファーの目が怖かった。一点を見つめる目は、自分を非難しているように感じたが、それを受け入れるかのように、毎日彼の前にある監視椅子に座った。

 そのうち、彼が自分自身と対峙しているように見えてきた。そして肖子は自分の心と向き合うようになった。人を拒絶しているようで、じつは人に依存している愚かな自分を自覚した。


 中絶手術のあと、医者は言った。今、また妊娠したら次の手術は出来ませんよと。

 そのことは鶴見も医者から聞いているはずだった。だが、鶴見はいつもと変わらない行為をしようとする。それが恐ろしかった。

 次、また同じことが起こったら……そのときも鶴見は、あの穏やかな口調で同じ行動を取るに違いない。それを思うと吐き気がする。

 千奈津が日本に一時帰国する、この機会に関係を終わらせるべきだ。

 いつもは千奈津が帰国しているとき、鶴見は事前にホテルを予約してくれていた。だが、今回それを肖子は拒んだ。

「たまには違うところに泊まらせて。そのときに、たまたま泊まれるホテルも楽しそう」

 そんな無邪気な言葉を鶴見は受け入れ、チェックインできたら連絡を入れるよう肖子に言った。


 そしてあの日、富樫と出会い、今は深町の家に居る。もちろん鶴見に連絡はしていない。そして鶴見からも連絡はない。千奈津がいるのだから、他の女に連絡など出来ないだろう。

 もしこのまま連絡がなければ、自然消滅もありかもしれない。でも、それはないだろう。いずれは鶴見から連絡がくるはずだ。

 そのときは、きちんと別れを告げる。

 風呂からあがった肖子は客間に戻る、今はこの和の空間がとても落ち着く。

 布団を敷き、横たえた体にタオルケットを掛ける。スマートフォンを見ると、もうすぐ日付が変わろうとしていた。深町はいつ帰ってくるのだろう。『coffin』でどんな会話をしているのだろう。

 脳は冴えていたが、今日はあまりに疲れた。体が睡眠を欲している。肖子は気怠さのなか、眠りにおちていった。


 深町が帰宅したのは、肖子が眠りについた一時間ほどあとだった。

 玄関に靴があることを確認し、そっと客間を覗いてみた。そこにはタオルケットにくるまり、胎児のような姿で寝ている肖子が居た。

 ちゃんと居ることに安堵する。

 ゆっくりと近づき、肖子の手に触れてみた。

 温かい……そう思ったとき、肖子が深町の手を握る。起きたのかと思ったが、肖子は寝ていた。まるで赤子が母のぬくもりを見つけたかのように、肖子は深町の手を握っている。深町は微笑むと、そっと肖子の手を握り返した。


 *


 富樫と深町が帰った『coffin』に残っているのは桶川と百合、そしてカウンターの中で洗い物をしている霧だった。百合は酔いつぶれてカウンターに突っ伏して寝ている。

 桶川はロックグラスに反射する光を眺めている。

「ねえ。晶の話、どう思った?」

 霧はちらりと桶川を見る。

「なんとも言えないわ」

「僕はね、本当は肖子ちゃんは、もっと深く冴子さんを見た気がするのよね」

「そう?」

「冬馬くんも、いつも以上に黙っていて不自然だった。そう思わない? あの二人、何か隠してると思わなかった?」

「さあ、私にはなんとも……」

 霧は洗った食器を拭きながら首をかしげる。

「大丈夫。霧のことは僕が絶対助けてあげるから」

 桶川は愛おしそうに霧を見ながら囁いた。

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