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六・オシリスとイシス -1

 美術館の開館は十時なので、いつも三十分前には到着するようにしている。七時にアラームを鳴らして起きると、深町は既に朝食の仕度をしていた。

「おはよう。眠れたか?」

「おはようございます。おかげさまでぐっすり寝られました。深町さん、いつも何時に起きているんですか?」

「オレは六時半だけど、別に合わせる必要はない。朝飯食える人?」

「いつもコンビニで買ったパンです」

「ここに居るあいだは、ちゃんと食え」

「はい」

 肖子は笑顔で答える。

 朝から誰かと食卓を囲むということを、久しぶりに体験すると心が和む。鶴見はいつも肖子より先に出勤するので、一緒に朝食を食べることはない。

 温かい御飯とおかずを会話しながら食べる。実家で、寮の食堂で、そんなことをしていた頃を思い出し、心が潤ってくるのを感じた。


 仕度をして家を出るとき、自室に居た深町が玄関に顔を出した。

「美術館は何時まで?」

「七時です。あ、私のことは気にしないで夕食食べて下さいね」

「ああ。電車に乗るときにでも連絡して」

 深町はそう言うと、肖子のスマートフォンに電話番号とメールアドレスを登録した。

「ありがとうございます。連絡入れます」

「宜しく。いってらっしゃい」

「いってきます」

 なんとなく会話がくすぐったく感じて、うつむきながら引き戸を開けた。

 頬が火照ったことに気づかれていませんように。

 外に出ると、アパートの工事している作業員が肖子に気づき、「おはようございます」と声を掛けてきた。ぺこりと頭を下げて、急ぎ足で門に向かった。


 いつも通りの時間に美術館に到着する。顔なじみの若い警備員が

「おはようございます」と挨拶をしながらセキュリティカードで扉を開けてくれた。

「おはようございます。今日も暑そうですね」

「旅行楽しかったですか? 何処に行ってきたの?」

 そうか、一昨日はキャリーケースを持って美術館を出たんだっけ。

「──ちょっと、モンパルナスまで」

「え? モンパルナス? パリの?」

「ふふ。冗談です」

 こんな冗談を言う肖子を見るのも、楽しそうに笑う肖子を見るのも初めてだったので、警備員は驚いた。

「ですよね。一瞬、一日で行けるのかと思いましたよ」

「まさかぁ」

 きっと楽しい旅行だったに違いないと、笑顔で館内に入る肖子の後ろ姿を見送りながら、警備員は思った。


 事務所にはすでに小島が居て、お湯を沸かしている。

「おはようございます」と声を掛け、茶筒や急須の用意をすると、

「橘さん、なんかいいことあった?」と、小島が肖子の顔を見て言う。

「いえ、とくには」

「そう? なんか表情がいつもより明るいよ」

 言われて思わず頬に手を当てる。

「あー、怪しい。昨日は彼氏と楽しく過ごしたとか」

 主婦で噂好きの小島は、探る視線で小悪魔的な笑みを浮かべる。

「いつもと変わりないですよ」

「そうかなあ。若いっていいねぇ」と、小島はからからと笑った。


 会期終了が近い展覧会には駆け込みの客が多い。この幻想展も、あと数日で終了するので、館内はわりと混雑していた。美術番組で放送されたことも影響していると思われる。

 それでも十七時を過ぎると、館内に居る人はまばらになってくる。

 ざわついた空気が薄れ、美術館本来の静寂が戻ってきているのを、館内を歩く肖子は肌で感じる。一度事務所に戻り、入場者数と図録の売り上げの集計を始めている小島を手伝ったあと、肖子は再び展示室に赴く。

 二階の二つ目のフロア。

 ルシファーが展示されているその場所に、人は二、三人だった。

 監視椅子に腰掛け、ほぅと小さく息をつく。目の前には鋭いまなざしを向けているルシファーが居る。

 一点を見つめるその姿は、今までと変わりない。だが肖子の目には、今までと同じようには見えなくなっていた。どうしても深町の姿と重ねてしまう。

 ルシファーが甚平を着ている姿が浮かび、笑みがこぼれる。台所に立ち、料理を作っている姿が浮かび、胸の奥が温かくなる。


「嬉しそうだな」

 隣から声が聞こえ、見上げると富樫が肖子を見下ろしていた。

「あ、こんにちは。先日はありがとうございました。お世話になりました」

 富樫は唇の片方を少しあげ笑みを浮かべると、

「お世話をしたのはオレじゃないがな」と言って、ルシファーの絵の前に進む。

 ストライプのシャツに、ジーンズ姿の富樫は一昨日会ったときよりも若く見えた。肖子も席を立ち、富樫の隣に並んで絵を眺める。

冬馬(とうま)のほうが男前だが雰囲気は似ているかもな」

「まなざしが似てます」

「でも冬馬のまなざしのほうが温かいぞ」

「知ってます」

「ほう」

「深町さんは優しいです」

「惚れたか」

 富樫が冷やかすような顔で肖子を見る。

「そんなんじゃありません」

 そんな安っぽいものじゃないと、ルシファーを眺めながら思う。


 創造主との戦いで深淵に堕とされたルシファーは、すでに深淵に居た自分にとっての救世主だと、そんな気がしてくる。鶴見との関係にあがく愚かさを気づかせてくれた。そして深町は、一歩を踏み出す後押しをしてくれていると、肖子には感じる。

「ベタ惚れのように見えるけどな」

「──この作品は好きですよ」

 肖子の答えに、富樫は笑った。

「このあと、飯に行くぞ」

「え?」

「しゃぶしゃぶ。もう予約してある」

「この季節にしゃぶしゃぶって、暑くないですか?」

「いいんだよ。個室で邪魔されずに描ける店だから。エアコンも効いてるしな」

「……私、モデルになったんでしたっけ」

「もともとオレの絵だろ」

 そうだ。オレの絵が動いていると言われたんだっけ。あの日の記憶が甦り、肖子は微笑を浮かべる。

「深町さんが、もしも夕ご飯を作ってくれていたら申し訳ないので、連絡しなくちゃ」

「ああ、それなら大丈夫だ。冬馬には肖子を誘うことは伝えてある。おまえも来るかと聞いたら、遠慮するってさ」

「そうですか」

「じゃあ、あとで」

 そう言うと富樫は隣のフロアに去って行く。その背中を見送りながら、肖子の脳裏には深町から言われた言葉が浮かんでいた。


 ──絵画関連の仕事があってね。それがなければ強引にきみを連れ帰っただろうな

 ──橘さんは確かに似ているよ。富樫さんの昔の恋人に

 ──富樫さんは刺して貰いたいんじゃないかな。右の心臓を

 ──きみも気にならないか? あのキーホルダー


 富樫の顔を見て、オレの絵だと言われ、思い出したことがあった。キーホルダーに触ったあと、富樫は「生きて動いているオレの絵に出会えた」と言った。そして肖子の頬に触れ、「おまえだったんだな」と愛おしそうに言ったのだ。

 霧の店に飾られている富樫の絵。あの絵のモデルは恋人だと深町が言っていた。そして肖子には、描かれている女性が生者には感じられなかった。

 富樫が(ただ)、しゃぶしゃぶを食べながら、絵を描くだけとは思えない。そう思うと少し緊張する。深町も同席してくれたら良いのに……


 閉館時間になり、事務所に荷物を取りに戻った肖子は、深町にメールを送った。

『富樫さんと夕飯を食べに行きます。深町さんも行きませんか』

 深町からはすぐに返事が来た。

『もう夕飯は済ませました。ごゆっくり』

 予想していたとおりの返事に軽く溜息をついて、肖子は美術館を出た。

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