表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/24

五・家 -4

 台所に立った深町は、無駄のない動きで調理に取りかかる。慣れた手つきで鮭の半身に包丁を入れ、フライパンで焼いている間に味噌汁を作り始める。肖子は深町の斜め後ろから、その様子を見ていることしか出来ない。

 深町に指示された椀や皿を食器棚から出し、盛り付けられた料理を居間に運ぶ。短時間で深町は、鮭のあんかけ、なすの煮浸し、キノコと豚肉のソテーと、味噌汁を作った。

 どの料理も出汁がきいていて身体が喜ぶ味だ。


「すごく美味しいです。和食がお好きなんですか?」

「フィールドワークで出掛けると、簡単に食えるパンが多いから。家では自然と和食になるな」

「縄文の研究でしたっけ。大学で教えているとか?」

「いや。まだ学位がとれてないから院生。ここ一年くらい海外で縄文人の痕跡探しをしていたんだ。資料持ち帰ってきたから、やっとまとめ始めるところ」

「縄文人が海外に?」

「そうだよ。アメリカで縄文人と思われる人骨が見つかったの知らない?」

「すみません。知らないです」

「普通はそうだよな。ま、そんなマイナーな研究してるから、来年三十なのに親のスネ囓って大学院にずるずる居座ってるってわけ」

「でも、好きなことを続けられる環境があるのは素敵ですよ」

「橘さんは? 大学で何をしてた」

「哲学科で美術芸術学を専攻してました」

「じゃあ、美術館でのバイトも好きなことだな」

「そうですね」

「そういう方面での就職は、やはり厳しかったか」

「──」


 肖子は曖昧に微笑むと、鮭を口に運ぶ。昆布だしの旨味が口の中に広がる。こんな優しい味の料理を作る人が祖母以外に現れるとは、思いもしなかった。

 鼻の奥がつんと熱くなる。

「深町さんのお料理、本当に美味しいです。実家があった頃、祖母が作ってくれた味を思い出します」

「あった頃?」

 深町が怪訝な顔をして肖子を見た。肖子はこくんと頷く。

 この人になら、聞いてもらいたい。


「大学四年の春でした。実家が火事になって、祖父母も両親も亡くなりました」

「──」

「隣の家からの出火だったんですけど、うちは古い木造家屋だったので全焼しました」

「……すべて燃えたのか」

「はい。何も残りませんでした。大学の寮には必要最低限の荷物だけで。実家にあったものは、物も思い出もなにもかも、全部燃えて灰になりました。なので、こんなふうにお婆さまが遺してくれた家に住んでいる深町さんが羨ましいです」

 肖子は寂しそうに微笑んで深町を見る。

「もしかして、家具付きの物件に住むのも、それが原因か」

「はい。いろいろ持つのが怖くなりました。もともと大学寮は家具付きだったので、自分の家具はなにも持っていなかったのですが、また燃えてしまったらって思うと、どうしても怖くて」

「他に兄妹や親戚は?」

「兄妹は居ませんが母方の親戚が居ます。私の住民票はその親戚宅にさせてもらってます。更地になった土地を売却したときに会ったきりですけど」

「大学四年か……それじゃ、就職活動どころじゃないよな」

 深町は溜息をつく。祖父母と両親を突然失った当時の肖子を思うと胸が痛い。


「この先どうしたら良いのか分からないのが正直なところでした。でも大学を辞めて寮を出てしまったら行くところがないし。四年次の学費も既に払っていたし、大学進学を喜んでくれた祖父母のことを思ったら、せめて卒業だけはしようっていう気持ちになりました」

「橘さん、強いな」

 眼光鋭い深町が見せた驚くほど優しい微笑みに、肖子の胸は温かくなった。

「いろいろ自分のものを持って思い出が増えて、また燃えたらと思うと怖かったけど、もう四年経つし、ちゃんと踏み出すことにします。深町さんが背中を押してくれました」

「オレが?」

「はい。じっくり家探し出来る機会を与えてくれたし、もう食べられないと思っていた祖母の……深町さんの家庭料理を食べたら、私も作れるようになりたいって思いました。ちゃんと部屋を見つけて料理も頑張ります」


 肖子は深町を見る。深町の顔が、やはり展示室に居るルシファーと重なる。

 毎日眺めていた。その目と対峙しながら、自分自身とも対峙していた。そして鶴見のもとから去る決心をしたら、深町と出会った。現実のルシファーが一歩を踏み出すきっかけを与えてくれたと思いたい。

「それじゃ今度、出汁の取り方は教えてやるよ。でもその前に、食器の片付けは任せた」

 見つめられた深町は、照れを隠すように立ち上がると、

「茶、淹れてくる」と言って居間を出ていった。


 その夜、客間に布団を敷いて潜り込む。

 肖子にとって長い一日だった。

 朝目覚めて、隣に布団が敷いてあったことや、服を脱がされていたことには驚いたが、深町のおかげで寝食する場所がある。

 そんな深町は自室に布団を運びながら、

「今晩も居てほしければ隣で寝るけど」と軽口をたたいたが、もちろん丁重にお断りした。

 深町に話をした所為だろう。どうしても大学四年の、あの当時のことを思い出す。


 朝早く、親戚からの電話で知らされた。

 春とはいえ、その日は冷え込みが激しく、出火元の家はストーブを付けて就寝していたようだ。そしてその日は乾燥していたうえに、風が強かった。火災が起きたのは午前二時頃だったという。炎は風下にある肖子の実家にすぐに燃え移った。

 どちらかといえば、過疎化が始まっている土地だ。通報を受けて消防車が到着したときには、肖子の実家は手遅れだったと聞いた。

 その日のうちに親戚と落ち合い、実家のある土地へ向かった。

 焼死体の身元を確認するために、DNAを採取された記憶はあるが、遺体を見た記憶はない。おそらく見ていないのだろう。現実の出来事とは、どうしても思えなかったが、鑑定結果、肖子の家族全員の死亡が確認された。橘家で生きているのは自分だけ。

 試験明けの長期休暇に実家に帰っていた。ほんの一ヶ月前の出来事だ。そのとき家族と過ごした時間が最後になるとは夢にも思わなかった。

 親戚に連れられて、焼け落ちた家があった場所に行き、呆然と立ち尽くした。

 何もかもを焼いた匂いと、消化剤の匂いは忘れられない。近所の人がたくさん言葉を掛けてくれたように記憶している。でも、どの言葉も覚えていなかった。

 思い出すのは祖父母の言葉。肖子は賢い子だから、大学に行ってしっかり勉強しておいで。爺ちゃんの自慢の孫だよ。

 婆ちゃんの料理をこんなにも美味しそうな顔で食べてくれる、その顔を見ているだけで、婆ちゃんは嬉しいんだよ──


 大学の寮に戻っても、部屋に引きこもる生活が続いた。

 最初は心配して声を掛けてくれた友人たちも、就職活動を言い訳に、少しずつ肖子から距離を置くようになった。

 三ヶ月ほど経った頃、美術館に行きたいとは思うようになった。寮に居て誰かと顔を合わせるよりも、大学三年のときからアルバイトをしている宮ノ森美術館で過ごしたいという気持ちが強くなった。

 美術館に行き、長く休んだ非礼を詫びると、館長は温かく迎えてくれた。

 ちょうどその頃開催されていた展覧会は仏像展だった。静かな展示室のなかで、肖子は祖父母や両親の冥福を祈りながら、仏像を眺めていた。


 就職活動をする気力は湧かなかったが、やはり大学はきちんと卒業しようと思うようになれたのも、仏像展のおかげだったと思う。大学に行かせてくれた祖父母や両親の気持ちに応えたかった。

 大学の授業料は既に支払いを済ませていたし、祖父母と両親の保険金で在学中の費用の心配は無かった。そのうえ、実家があった場所は売却したので、卒業後も、当面お金には困らない。

 就職活動よりも卒業することを一番に考えようと思い、遅ればせながら、指導教官に相談したのだった。そして、就職は出来なかったが、卒業は出来た。


 寮を出て部屋を借りようとしたとき、自分の心の傷に気がついた。

 家具や身の回りのものを揃えていく勇気が出ない。また燃えてしまったらどうなるのだろう。また全てが灰になってしまったら、今度こそ立ち直れないような気がした。

 結局、家具付きのマンスリーマンションを選び、必要最低限の荷物で暮らすようになった。実家に居た頃のように、好きなものが置けず、殺風景な部屋で過ごす日々。徐々に心も乾いていった。

 今度は、ちゃんと普通の物件を借りることが出来るだろうか。

 実家に居た頃のように、好きな画家の絵を飾り、花を飾り、間接照明を楽しむことが出来るだろうか。

 大丈夫。きっと大丈夫……そう思いながら肖子は眠りについた。


 *


「──はい。うちに居ますよ。展覧会が終わったら物件探しするそうです──なにもしてないですよ。安心して下さい。あ、それで気になったんですけど、あのとき彼女、熱いって言いましたよね。あれ、なんでだか分かった気がします。ご家族を火事で亡くしてるんですよ。それで反応したのかと……あー、今日はやめておきます。百合さんは大丈夫ですか? はい。じゃあ桶川さんにも宜しく。明日? ええ。分かりました。いや、遠慮します──いや、見てないですね。分かりました。じゃあ」

 深町はスマートフォンを切り、座卓に置いた。

 ノートパソコンのブラウザを立ち上げると、『ルシファー、シュトゥック』で画像検索をした。そこに出てきた画像を見つめる。

 これが、毎日のように彼女が見つめてきたオレか。

 桶川が作った土偶を弄りながら、心の中で呟いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ