五・家 -3
シャワーを浴びると、深町が言ったとおりアルコールも抜け、頭痛はおさまった。
居間にも客間にも深町の姿はない。
ということは、廊下を挟んだ襖の向こう側に居るのだろうか。肖子はためらいながらも
「深町さん」と声を掛けた。
「どうぞ」と声がしたので、おそるおそる襖を開ける。
「駅までの道を覚えたいので、散策してこようと……」と言いかけて止まった。
客間と居間は家具が殆どない広々とした和室だったが、目の前に広がる光景は、まるで逆だった。
二間続きの和室の壁には本棚が並び、その中に所狭しと本が押し込まれている。入りきらない本は畳に平積みされていた。座卓にはノートパソコンが置かれ、その脇には何かの資料が散らばっている。
そして、一番奥にある棚には、縄文土器や土偶、おそらくその時代に関するものと思われる遺物が置かれていた。
深町は座卓のノートパソコンに向かっていた。
「出掛けてくる?」
「あ、はい……すごい部屋ですね。あの土器などは本物ですか?」
「いや、あれは桶川さんの作品」
「え! あれもですか」
「頼んで作ってもらった。研究資料になるから」
「へえ……」
興味深そうに眺めているその顔を、深町は見ていた。
「駅まで行ってくるか?」
そう言われて肖子は我に返る。
「はい。道を覚えておかなくちゃ」
「それじゃスマホ貸して。家の場所を地図に付けておくから」
スマートフォンを深町に渡すと、地図アプリを立ち上げる。
「駅はこっち。帰ってくるときはこの場所目指しておいで。鍵は開けたままだから自由に出入りしていいよ」
淡々と説明をし終えると深町はパソコンに向かったので、肖子はぺこりと頭を下げて部屋を出る。玄関の引き戸を開けて外に出ると、目の前に広がるのは庭だ。芝生の上に並ぶ丸い飛び石が、門まで続いている。振り返り家屋を見ると、深町の家は平屋だった。おそらく玄関を中心に、左右に二部屋ずつ。庭に面して縁側がある。戦後まもなく建てた日本家屋という雰囲気があった。
家を背にして庭の右側には三階建てのアパートが建っていた。一階は工事中らしく、作業員が出入りしている。そんな風景を横目に見ながら、肖子は門を出て歩き始めた。
遠くには池袋西口にある百貨店の建物が見える。こんな場所に平屋を構えていられるのだから、深町の家は地主なのかもしれない。定住する場所のない自分とはまるで違うと思った。
駅までは肖子の足で十五分くらい。それを確認して、ふらりと百貨店に入る。インテリアのフロアで肖子はやっと笑顔になる。
それぞれのコンセプトに分かれて展示されている家具を見るのが好きだった。いつかちゃんと部屋を持てたら、こういうコーディネートをしたいと想像しながら、飾られている家具や小物を見て過ごすときが、一番本当の自分に戻れる時間だった。
一時間ほどで深町の家に戻ると、襖の向こうからキーボードを打つ音が聞こえてきた。仕事に集中しているのだろうと思い、声は掛けずに客間に戻る。
キャリーケースの上には昨晩、百合がサインをしてくれた本が乗っていた。
手にとって読み始めると、そこには「躁鬱病日記」と言っていた百合の、赤裸々な私生活が描かれていた。
百合が発病したのは二十代後半。きっかけは夫の浮気だったと書かれていて、肖子の胸は強く掴まれたように痛む。良き妻で居ようとし、相手にも完璧を求めた百合を夫は避けるようになった。自分の何がいけないのか思い悩む日々。他の女性の元から帰ってこない夫に苛立ち、自分を責め、少しずつ精神が病んでいったようだ。
それでも気分が良いときは、前向きに夫との関係を修復しようと考えることが出来た。そう思うと、じっとしていられず、女性の家に何時だろうと押しかけてしまう。この行為自体も正常ではないと言うことに気づかなかった。
気分の浮き沈みが激しく、自傷行為を繰り返していた頃、何気なく入った画廊で、百合は個展を開いていた桶川と知り合った。桶川が作った作品の一つに惹かれた。それはクレオパトラの最期のシーン、毒蛇に自らの胸を噛ませて命を絶つ場面の彫刻だった。
桶川の個展では、作品に触れることが出来るという。
「惹かれる作品があればご自由に」と桶川に言われ、百合はクレオパトラの胸に触れた。そのとき、自分の体内にも毒が回ってくるのを感じ、立っていられなくなりその場に崩れた。血液の中で蛇の毒が暴れ回り、自分を変化させているようだ。何かが壊れ、何かが目覚めたような感覚を、激しく打つ心臓の鼓動から感じていた。
桶川は百合をソファーに座らせると、アルカイックスマイルで言った。
「もう、自由になりなよ」
その顔は、天使にも悪魔にも見えたという。
百合は夫と別れ、アルコールを飲むようになる。今までの「良き妻」は自分の偽りの姿だったに違いないと思うほど、心は解放された。
ただ、病気は治らない。
桶川に紹介された病院に通いつつ、躁状態のときは、今までの感情を吐き出すかのように文字を綴った。そのことを知った桶川が、編集者を紹介してくれたのが、この本を出版するきっかけだったと書かれていた。
本の後半は、まさに日記だった。
目覚めて知る、自分の精神状態。
百合の本のタイトルは『朝の光と朝の闇』
目覚めたときに、躁なのか鬱なのか、それはまさに本人にとって、光と闇の差があるのかもしれない。
鬱状態のときのページは、正直なにが書かれているのか、何が言いたいのか、肖子には理解出来なかった。ただ、苦しいのだけは伝わってくる。時折出てくる別れた夫と不倫相手への罵詈雑言。まるで自分が言われているようで肖子は背筋が凍る。
昨日会った百合からは、「良き妻」の姿は想像できない。もし、今の百合が本当の百合なのだとしたら、現在の百合の精神は何と戦っているのだろう。
読みながらひとつ、気になる箇所があった。
百合も、桶川の作品から何かを感じ取った人だということ──
「橘さん、いいかな」
襖の向こうから深町の声が聞こえ、我に返る。
「はい、どうぞ」
返事をすると襖が開き、深町が顔を覗かせた。
「読書中だった?」
「読み終わったところです。百合さんの本」
「ああ。オレも買わされて読んだよ。理解出来た?」
「なかなか難しいです」
「この病気は本人にしか、いや、本人にも分からないところがあるだろうし」
「そうかもしれないですね。あの、何かご用が?」
「ああ。晩飯は六時にするから。嫌いなものある?」
「いえ、好き嫌いはないです。私もお手伝いします」
「橘さん、料理しないんでしょ?」
「……食器を運ぶことくらいなら出来ます」
肖子が苦し紛れに答えると、深町は笑った。
「それじゃ手伝って貰うかな」
そう言って客間を出て行ったので、肖子も立ち上がり、あとに続く。
居間の柱時計を見ると、もうすぐ五時になろうとしていた。




