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一・ルシファー

 閉館三十分前。

 美術館の入口には「閉館」の札が掛けられる。新しい客はもう入ってこない。

 閉館までのこの時間が肖子(しょうこ)は好きだ。

 館内を歩く人も殆どいなくなり、展示されている絵画・彫刻たちが自分の時間を取り戻すかのように、縮こまっていた身体を大きく伸ばしているように思える。そんな、緊張感から解放されたような空気が堪らなく心地よい。


 新宿のはずれにある小さな美術館。

 此処で働き始めて五年になる。就職活動の最前線に立つことも出来ず、周りがどんどん内定を勝ち取っていくなか、一つも内定が取れずに大学を卒業した。

 結局、学生時代からアルバイトをしていたこの美術館に、ずるずると居続けている。

 それでも館長は何も言わず雇ってくれているし、この、時が止まったような空間が心地よかった。この中に居れば、世間の目も気にしなくていい。アルバイトという身分の肖子は、(ただ)ひたすら展示室の監視椅子に座って、沈黙を守っていればいい。


 現在開催中の展覧会は『幻想展』

 夢とも現実ともしれぬ世界を垣間見ることが出来る作品を集めている。

 ポール・デルヴォーが描いた、ニンフのような女性の絵画もあれば、ヒエロニムス・ボスの影響を受けた後世の画家が描いた、魚のような生き物が人間を喰らっている奇妙奇天烈な作品もある。

 マグリットやブリューゲルもあり、日本画のフロアには、月岡芳年(よしとし)の残酷な場面を描いた浮世絵も展示されている。

 私設の小さな美術館によくぞ貸し出してくれたと感心してしまう。館長と学芸部長の人脈の広さなのだと思う。

 客層は若い女性が圧倒的に多く、美術館近くにある芸術関係の専門学校生と思われる。

 肖子は館内をゆっくりと歩く。

 作品を観る目の邪魔をしないダークグレーの絨毯が敷かれていて、靴の音は吸収される。目も耳もすべて作品に集中出来るようになっている。

 二階の二つ目のフロアにある監視椅子に腰掛けた。この展覧会で一番気に入っている空間。

 監視椅子の正面に飾られている絵画──それは


『ルシファー』


 十九世紀のドイツの画家、フランツ・フォン・シュトゥックの作品だ。

 一見すると人間の男性で、背中に生えている黒い翼は背景に溶け込んでいる。衣は纏っておらず、ベッドとも台座ともとれるものに腰掛け、前屈みになるように左手に顎を乗せ、右手は右の翼を抱え込んでいる。

 眉間に皺を寄せ、少し充血した目は一点を凝視している──

 いや、凝視しているように見えて、じつは何かを見つめているのではなく、内なる心と対峙しているのかもしれない──この作品を毎日眺めているうちに、そんなふうに思えてきた。最初は畏れを感じた目が、自分の心の奥を見つめ直すきっかけを与えてくれていると思えるようになっていた。


 それにしても、ここまで人間くさいルシファーを見るのは初めてだ。この絵には「輝かしい大天使」と呼ばれていた面影は全く無い。その妙に肉肉している人間臭さに惹かれ、こうして閉館までの時間、肖子はルシファーと向き合う。

 ルシファーは「堕天使」で有名な天使だ。

 ルシファーの視点から描かれたジョン・ミルトン作の『失楽園』では、創造主の統治に不満を持ち、叛乱軍を招集し、全天を二分する戦いを引き起こした。その結果、堕天使になり深淵に堕とされ、自ら魔王サタンを名乗り、反撃の機会を窺う。

 目の前にあるこの絵画は、まだ「堕天使」になる前のルシファーが葛藤している姿のようにも思える。

 創造主にこのまま従っていくべきか、それとも、彼の前にひざまずき、(こうべ)を垂れる者だけに救いを与え、罪を受けた者の傷心を利用して、自由と判断力を奪って統治するまやかしを正すべきか。

 疑うことを知らないということほど、愚かなものはない。

 ルシファーはきっと、そのことを知っていて、そして行動に移したのだろう。たとえ堕天使になっても。


 十九時の閉館を告げる音楽が流れる。

 肖子は立ち上がると、一通り館内をチェックする。残っている客が居ないことを確認してから事務所に戻った。

 館内の監視カメラの映像が、事務所の壁に設置された四台のモニターに映し出されている。そのモニターの前に館長の席があった。

 モニターを見ていた館長が振り返り、

「今日もお疲れさま」と、肖子に声を掛けた。品のある白髪には丁寧に櫛が入れられている。小柄で温和そうな顔つきだが、意志の強そうな声をしている。

 事務所では事務員の小島が後片付けをしていて、学芸部長と学芸員の里村は資料を見ながら話し込んでいた。

「お疲れさまでした」

 館長と皆に声を掛け、事務机の下に置いてあるショルダーバッグを手に取り、帰り仕度をする。監視のアルバイトなので、美術館が閉館すれば仕事は終わりだ。

「お先に失礼します」

「はい、お疲れ」

 学芸部長と里村が会話をやめ、こちらを向いて軽く手を挙げてくれた。会釈をして事務所を出る。

 受付のクロークからダークブルーのキャリーケースを取り出した。肖子の私物だ。

 ガラガラと転がしながら美術館を出るとき、顔なじみの若い警備員が

(たちばな)さん、お疲れさま。あれ? 旅行?」と、声を掛けてきた。

「あ、そうなんです。お先に失礼します」

「明日は休館日だもんね。楽しんで。お疲れさま」

 警備員の屈託の無い笑顔に溜息が出る。

 本当に旅行なら、どれだけ楽しいだろう。

 三泊から四泊用のキャリーケース。このなかに入っているものが、肖子の全財産だ。今日から一週間、いつもの場所には帰れないので、この荷物と共に出てきた。

 そして、もう帰らないとも決心した。

 東京は眠らない。働き方改革が進んでいるとは言え、二十四時間営業の店はまだたくさんある。とりあえずお腹も空いたし、ゴハンを食べに行こうと、繁華街を目指して歩き始めた。

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