act.16 「踊りとキスと闇夜の暗殺者」
思い思いに恋を語る若者たち、その輪の中央で誰よりも若く、まるで子供のように踊りはしゃぐ父親と母親の笑い声が聴こえてくる。
「あーぁ、まるっきり、ガキじゃねぇかよ……」
ジュウベエは二人の様子を見て、腕を頭の後ろで組み、少しあきれたように溜息をついた(その足元には、先ほどまでの責め苦の果てに気絶し、弛緩した肉と、土気色の塊とになった友人らが二人転がっているのだが、もはやジュウベエの目には入っていないことになっていた)。
「あら。ハクトは素敵だと思うけどな」
いつの間にか立ち上がったハクトが、ジュウベエの横からチョコンと前屈みに腰を折り曲げ、下から上目遣いにのぞき込むようにして言った。
「……素敵。左様で」
「だって二人はいま、恋をしているんでしょ? 」
「とっくに夫婦だろ。それにそんな齢かよ。第一、あの親父が恋とか……」
ジュウベエは「おおお」と言いながら、背筋に悪寒が走るの感じた。
「親父」と「恋」、あまりにかけ離れたこの二つの言葉を、むりくりに結び付けて理解してみようとして、思わず脳ミソの回路がそれを恐怖してしまったのだった。
「あ、なんか、脳ミソが。つむじの右上あたりが熱くなってる気がする」
などと言いながら、掌でしきりに頭を押さえるジュウベエ。そんな色恋に疎いと言うか無頓着な兄の態度を見て、ハクトはやれやれといった顔をしながら、一歩、兄のそばに近付いた。
「ん~……分かってないなぁ、兄さまは。恋に齢は関係ないの。それに、夫婦になってからも、恋できる。これってとっても良い事よ」
「そういうもんか? 」
「そういうもんよ。……父様と母様は、お互いが二度目の結婚だから。結婚前に恋してる暇もなくって。だからその分、我々、娘と息子に手が掛からなくなった今だからこそ、存分に恋して欲しいものなのですよ! ハクトとしては」
「そ-かい。そりゃぁ、ま、結構なこって。母さんはともかく、ジジイが調子に乗って赤っ恥かかなきゃいいけどな」
そう言ってジュウベエは、くるりと向きを変え、テーブルに残っていた肉と酒瓶をひっつかんで、踊りの輪から遠ざかるように、岩場の方へとスタスタ歩いて行ってしまった。
「あ、待ってよ、兄さま! 」
ジュウベエの後を追って、すぐさまハクトも歩きだす。追い掛けながら、ハクトはいたずらっぽくジュウベエにたずねてみることにした。
「ね、兄さま。踊ってみない? ハクトと一緒に」
「バーカ。ガラじゃねぇよ」
ジュウベエは岩場の適当な場所に腰掛け、グイッと酒瓶の中身をあおりながら、ハクトの提案を一蹴した。
「なんで? いいじゃない。踊ろうよ。楽しいよ? ハクトだよ? 美少女だよ? 」
「サキカゼの『残念姫』がなに言ってんだ」
手の甲で、口の周りについた酒をグイと拭って、ぼんやりとつまらなそうな顔で頬杖をついて肉を齧りだすジュウベエ。半分以上目が死んでいる。テンからハクトの話など聴く気もない、といった様子である。
「兄さまヒドイ!! 」
そんな兄の態度に、乙女な正攻法では埒が明かぬと、一瞬で業を煮やしたハクト。
過激な愛情表現を得意とするこの妹は、ツカツカツカと兄の真後ろに回り込んでそこに仁王立ちした。ジュウベエは相変わらずハクトの相手をようとしない。
ハクトは一度、大きく息を吐いた。そしてその分以上の空気をいっぱい吸い込んで止めた。息を吸い込みながら大きく後ろに振りかぶられた頭。その頭をおもむろに……
「フンっ!! 」
ジュウベエの後頭部めがけ、自身の額のあたりが当たるように、思いっきり頭を振り下ろした。
ガァチィン!!! という音が鳴り響いて、兄は後頭部を、妹は額を、それぞれに両手で押さえながら、その場にうずくまりプルプルと小刻みに震えていた。
「あああっ!! もおおおおっ!! いっっったぁああああい!!!兄さまのバカァっ!!!! 」
「それはコッチのセリフだ!!ボケェエエエエエエ!!! 」
同時に吠える二人。そして「あいたたた…… 」と、またそれぞれに頭を押さえる二人。
「……ったく、なにがしたいんだよ? お前は」
「兄さまと踊りたい!」
「踊らねぇってんだよ。 死んでも踊らねぇ」
「じゃぁ、恋したい! 」
「しろよ。勝手にどこででも、誰とでも」
「違う! 」
「あぁ? 」
「ハクトは、兄さまと恋したいの! 」
「はぁ?お前、なに言って……」
ハクトの大きな瞳いっぱいに、涙が玉となって浮かんでいた。顔は真っ赤だった。唇は力強く結ばれていた。それらの全てが語っていた。ハクトが言っていることは、本気なんだ、と。
ジュウベエは、たじろいだ。
ジュウベエは、いまのところてんで恋だの女だのに無頓着だった。全くの無関心というわけではない。年相応の男らしく、可愛い娘を見掛ければ目で追ってしまうし、アッチの方の欲求だって人一倍ある。
だが残念ながら、その欲求を開陳できる相手がいまだかつて居たことがなかった。作るのがおっくうだった、というのが正直なところである。
それに、いつも自分の周りにはハクトがチョロチョロしていた。だから、ま、今はまだそういう時期じゃねぇんだろ、くらいに思っていた。
「いずれ吹くべき時に、吹くべき風は吹く」
そう信じていたからこそ、焦ることはしなかった。だ・が・し・か・し・だ!! いくらなんでも、こんな風が吹いてくるとは聴いてない。いやいやいや、吹いたらダメだろ、こんな風は!!
「あ、あの、その、ハクト、にゃんだ……」
「……」
「お、俺たちは兄妹だ。確かに血は繋がってねぇが、俺はお前を本当の妹だと思ってる」
「……」
「だから、な。そういう、恋とか、どうとかいうのは、俺たちの間では……いっ!? 」
グッと、ハクトがジュウベエの顔に、自らの顔を近付けた。あと3センチ。ハクトがその気になれば、すぐさま、二人の唇が触れ合うという距離だった。
「おい、ハク……」
「兄さまは、ハクトが嫌いなの? 」
「だから、そういうんじゃなくて……」
「嫌い?」
「……べ、べつに嫌いってんじゃなくてだな。ただ兄と妹っていう……ば!」
顔をそらし、逃げようとするジュウベエの顔をハクトが動けないようにと両手でがっちりとホールドした。そして1センチ。
もはや、どちらかがフッと身じろぎすれば触れ合うところまで唇が近付いた。迂闊に口を開くこともできない。
動くことも、喋ることもできず、ジュウベエはただただ、目を見開いてハクトを見ていた。すると、ハクトがとうとう、ゆっくりと瞼をとじた。
反射的に「やられる!」とジュウベエの頭の中で警戒を知らせる声が響いた。と同時に、ジュウベエも固く目を閉じた。
……3秒……5秒……何事も起きぬ時間が流れた。
予想された唇への衝撃は、いつまでたってもやってこなかった。そのかわりに、クックックッ……と忍び笑う声が聴こえてきて、思わずジュウベエは目を開けた。
ハクトは、ジュウベエを捕まえていた両手を放し、手を放り投げ、ひっくり返って大笑いした。
「あははははははははは!!」
「……」
「兄さま、兄さま、最高!すっっっごい、可愛い顔してたよ! あはははははは!! 」
か、からかわれていた。その事実に怒りを覚えつつ、安堵している自分が、なんだかやるせないジュウベエであった。
「しなーいよ。今は、まだしない。でもいつか。きっと、ね? 」
そう言って、ハクトは人差し指を唇にあて、イタズラっぽく片目を閉じて見せた。
「……もういい。お前とは、金輪際、口きかねぇ」
ジュウベエは岩場に仰向けになった。全身の力が抜けていた。怒りよりも安堵が勝った。とにかくもう、今はそっとしておいて欲しい気分だった。
そんな具合のジュウベエを見て、本日の完全勝利を確信したハクトはズボン尻についた砂を払いながら立ち上がった。
そして、トドメの一撃とばかりに、仰向けのジュウベエの上に前屈みになって言った。
「ねぇ兄さま」
「……」
「ハクトは、兄さまのことが好きよ。大好き」
「……」
「いまは兄妹だけど……でもいつか」
「……いつか、なんてのは、絶対ねぇ」
いまのジュウベエに許された、精一杯の反撃。しかし、それすらもハクトは鉄壁の笑顔ではじき返した。
「ジュウベエ兄さまには、いつか必ず、ハクトと踊ってもらうから。しかも、ぜーったい、兄さまの方から踊りに誘ってもらうんだから! 」
最高の笑顔で微笑んで、ハクトはジュウベエのそばから駆け出した。そして少し離れてから、ふっと振り返り、内緒話をするような小さな声で、だが確実にジュウベエに届く声でこう言った。
「そうしたら、今日の続きを、きっとしようね」
ハクトが去り、一人残されたジュウベエは、全身にじっとりと汗をかいていたことに、今更ながら気が付いた。勿論、口の中も喉もカラカラである。
側に転がっている酒瓶を拾い上げ、口を開け、その上に一気に逆さまにして酒をあおろうとした。
「あ? 」
中身は空だった。少し間があって、ポタッとしずくが1滴だけジュウベエの舌の上に滴り落ちた。何とも言えず、甘酸っぱい味が舌いっぱいに広がった気がした。
立ち上がり、ありったけの力で空の酒瓶を放り投げた。クルクルと回転しながら、酒瓶は闇の中に吸い込まれていった。
「ガラじゃ……ねーよなぁ……」
+++++
ジュウベエとハクトが恋だなんだとやり取りをしていたのと同じ頃。
別の場所で同じように、二人だけの時間を堪能しようと、カップルがあちこちの暗がりに陣取っていた。
そんな中、手近な場所を他の者たちにとられ、やむを得ず離れた場所まで歩いてきたカップルがいた。
篝火の明かりがわずかに届かぬ場所、人目につかない暗がりにその若い男女は、二人だけの秘密の場所を求めて移動していた。
もう、ここらで大丈夫だろうという所で、男が意を決し、唐突に力強く女の肩を抱き、顔を真っ赤にしながらも、真剣な眼差しで彼女を見つめた。
女は男の眼差しの意味を受け止め、こっくりとうなづいた。そしてそっと目を閉じ、優しく結んだ唇を男の方へと向けた。
男は、女が受け入れる姿勢を見せてくれたことに、内心飛び上がりたいほどに歓喜しつつ、表面上は平静を装いながら小声で囁いた。
「た、大切にするから……」
「……うん」
そうして、ひとしきりの手順を踏んだところで、ようやく唇と唇を重ねるべく、男は自らの唇を前に突き出そうとした。
……だが、しかし。その熱は女へとは伝えることができなかった。
あまりに唐突だった。闇の中から黒い二本の腕が伸び、強い力で男の顔、顎のあたりをガッ!両側から攫んだ。凄まじい力である。男は動くことも声を上げることもできなかった。
そして、何が起こったのか、全く理解する時間も与えられずに、その首を360度、ほぼ一回転、半時計周りに捻じ回され、絶命した。
女は、男の口づけを5秒、10秒と待って、とうとう焦れて目を開けた。しかし、目の前にいるはずの男の顔はそこになく、彼女の足元に、首を人形のように捻じられた男の死体がうずくまっているだけだった。
反射的に女は悲鳴をあげようとした。
しかし、そうするよりも刹那に早く、さきほどの黒い腕が背後から伸び、一方は彼女の顔を押さえ、もう一方はそのか細い喉をつかんだ。ブチブチブチッ、という肉が無理やりに引き千切られる音を、彼女は耳にした。
と同時に、これまで経験したことのないような激痛が喉元を埋め尽くした。肉の代わりに幾万の「痛み」が、喉に埋め込まれたようだった。
ボタボタボタボタと鮮血を垂れ流しながら、彼女は必死にもがいた。逃げようとした。すると、黒い腕は掴んでいた力をそっと弛めた。
まるで生きようとする彼女の必死さを嘲笑うかのように。自由になった彼女は、仲間の元に走って逃げようとした。が、まともに動くにはすでに血を失い過ぎていた。
倒れ行く最中、彼女はせめて自分と、自分の愛しい者を無残に殺した者の姿を、その目に焼き付けようと振り返った。そして彼女は見た。闇の中に潜む暗殺者の顔を。
いや、正確には顔ではなく、白い仮面。
白地の面の中央に、紫の塗料で描かれた、不気味で大きな「一つ目」の模様。うすれゆく意識の中、女はハッキリと、今わの際の瞳にその姿を焼き付けた。