5.
無性に腕から降りたくなったが、ギミーは人型になっても背が高い。
強引に降りようとしたら怪我をするかもしれない。だって獣王は最弱な存在。
「とか何とか考えているうちに、風景が城じゃなくなっていた件」
「はい。せっかくですので、我々の集落へご招待しようかと思いまして」
「ご招待しなくていいからっ」
眼前にはジャングル。振り返ってもジャングル。
鬱蒼と茂る森の入り口に、かろうじて城の入り口が見えている。それもだんだん小さくなっていった。獣王の城はジャングルに囲まれていたらしい。ますます先代の獣王が、どうやって外へ出たのかが気になってくる。
人間が大陸を渡って、獣王国にやってくるだけでも大変だろう。
冒険者とか勇者とか傭兵とか、少なくとも国家所属の軍隊は存在しているはず。獣としての本能や好奇心に負けて、獣人族の方が大陸を渡っちゃった可能性もあるが。
午前中はゆっくり薔薇園を散策して、昼食もとった後だ。
もう日が傾き始めている。
「ねえ、ギミー」
たしたし、と腰掛けている腕をタップする。
「今日は城に帰るよ。ギミーの集落には、日を改めて案内してもらうからさ」
「ご安心ください。いつお泊りになってもいいように、獣王様のためのお部屋をご用意させていただいておりますから」
「わあ、用意周到だね?!」
「何年でも滞在していただいてもよろしいのですよ」
ぐいぐい迫ってくる笑顔が怖い。十歳児に色仕掛けで迫ってくるな。
顔がくっつきそうになって、とっさに両手で突っ張る。すると手のひらに、なんだかヌルリとした感触が滑った。冷たくて、湿っていて、妙にぞくぞくする。
「ひっ」
「ああ、獣王様」
「いやだああああああぁっ」
嫌だ、絶対無理。こんなの無理。断固拒否。
(無理無理ムリムリムリ!!)
全身全霊での拒絶反応が体中を駆け巡った時、また浮遊感に襲われた。
ほとんど本能的に捕まるところを探し、無我夢中で手を伸ばす。そうして触れたひやりとした冷たさに体が強張ったのも一瞬、花のような芳香にくらりと眩暈を覚えた。くたっと脱力する俺を、何かが包んでくれるのを感じる。
「獣王様に何をする」
「おや、これは……香りが強すぎたようじゃの」
そよそよと風が吹いて、強い芳香がおさまる。
徐々に力が戻ってくるのを感じながら、頭上で交わされるやり取りを聞いた。
どうやら俺を助けてくれたのはサダルメリクという魚人で、まだ会っていなかった最後の側近だ。ちっとも顔を見なかったのは部屋の外で待っていたとかじゃなく、森の奥にある泉でずっと眠りこけていたようだ。目が覚めたのがついさっきで、獣王の誕生すら知らなかったらしい。
「よく言う。こそこそと機を窺っていたのではないのか」
「それは貴様の方であろ。おお、お可哀想に。まだ震えておられる」
そう言いながら撫でてくれる手は優しい。
蜥蜴人間とは違うひんやり感だ。内陸の水場に棲んでいるのなら、淡水系の魚人なのかもしれない。本当に海水専門、淡水専門の魚人がいるのかは知らないが。
恐る恐る顔を上げてみる。
サダルメリクはジジイ口調なのに若かった。ジジイみたいな白髪なのにお肌ツヤツヤである。獣王として生まれた今の体も銀髪だが、もっと水っぽい印象がある。だから青みを帯びた白髪、という方が近いかもしれない。
ギミーは同じ青系でも緑色が含まれている。
涼しげな目元といい、薄い唇に、冷たさを感じる整いすぎた顔立ち。
「もしかして、兄弟?」
「……当代の獣王様はよい観察眼がおありじゃのう」
「血縁があると思われたくはないのですが」
片や嬉し気に、片や苦々しく同意を得られた。本当に兄弟なのか、そうか。
ミランダは同族じゃないと番が見つからないような言い方をしていたが、例外もあるということかもしれない。獣王はどんな獣人とも相性がいいんだから、きっとそういうこともある。
「二人は、親のどっちかが一緒なの? それとも両親とも同じ?」
「我が主。どうか、コレのことはお気になさらず。我が種族から魚人が生まれたこと自体、過去に類を見ない異例のことなのでございます」
「じゃあ、二人の両親はどっちも蜥蜴」
「リザードマンです、我が主」
そこはコダワリがあるのね、了解。
蜥蜴系にも色々な種族があってもおかしくない。リザードマン同士が交わって、リザードマンじゃない種族が生まれたことは、リザードマンの長であるギミーにとって納得がいかないことなのだろう。種族の長は獣人族的に一番強い奴がやりそうだから、ギミーは強い。そして獣王の側近であるサダルメリクも「魚人の長」らしいから、種族の中で一番強い。
魚人の集落じゃないところで生まれた辺りが、なんかありそう。
サダルメリクは古代ギリシアの衣装みたいな、裾が長くてズルズルした布を巻きつけた格好をしている。腕に抱えられている俺もついでに、布で巻かれている。
(これまた肌触り最高。どんな素材でできてるんだろ。こういうのを作るのが得意な獣人もいそうな気がする。蜘蛛、とか?)
虫も獣人枠に入るのかはともかくとして。
弱肉強食な獣王国だ。想像以上にサバイバルな現実だろうに、こうして人型をとっている彼らを見ていると分からなくなる。番は同族じゃないとダメなのに、何故か別の種族が生まれたりとか。同じ親から生まれたのに仲が険悪そうなのは、種族が違うこともあるのだろう。
(でも助けてくれた)
ぎゅっとしがみつく手を強くすると、頭の上で微笑む気配がした。
「番を求める余りの行動とはいえ、このような幼子を怯えさせるものではないぞよ」
「貴様こそ、香りで自由を奪おうとしただろう」
「ん? これはの、加減が分からなかっただけじゃ」
「ぬけぬけと……チッ、犬に嗅ぎ付けられたか」
貴様の所為だ、と言わんばかりの憎々しげな視線が普通に怖い。
相当仲が悪いのは十分わかった。でも俺が「憎い血縁者」と一緒にいることは忘れないでほしい。ただでも切れ長の目が鋭いのに、激しい感情が加わって迫力がすごい。
ウオオオオオオ――…ンッ
狼の遠吠えだ。
音の大きさというよりも衝撃波みたいなものが出ているようで、森全体の空気がびりびりと震えている。そしてフッと辺りが暗くなった。
「あ。この感覚、知ってる」
俺が呟いた時、巨大なモフモフが落下してきた。
サダルメリクが華麗に回避してくれなかったら、ぺちゃんこに潰されていた気がする。城内で見かけた支柱くらいはありそうな、ぶっとい足に耐えられる気がしない。モフモフに埋もれたい願望があっても、一思いに潰されたい願望はない。
ギミーも無事に回避できたようだ。
「ご無事ですか、獣王様!!」
巨大な灰色狼はロキだった。
人型の時よりも毛色が濃くなっているのはギミーと同じ現象だ。ということはサダルメリクも人型じゃなくなったら、水色が濃くなるんだろうか。ちょっと見てみたい。
「今まさに潰される寸前だったぞよ」
「んなッッ」
「貴様の所為でな」
「獣王様を離せ、サダルメリク! 噛み殺してくれるっっ」
「ま、マテ!」
だから俺が一緒なんだっつーの。
何も考えずに叫んだら、石のように固まるロキ。ぐわっと大きく開いた口も、ついでに閉じてほしかった。たらりと涎が垂れてきたので、今度は「お座りっ」と叫ぶ。
途端に大地へ伏せる。
周辺の木々がなぎ倒されていく上に、何故か尻尾を高速でブンブン振っている。被害が拡大するから止めさせたい。しかし、どうすればいいのか分からない。
「主、よい方法があるのだが」
「教えてくれ!」
「獣王にしか使えぬ魔法の呪文『あぶらかたぶら』じゃ。これを先に唱えてから、主の望むことを告げれば――」
「あぶらかたぶら! ロキ、小さくなれっ」
「!!?」
「おお、これはこれは」
楽しそうなのはサダルメリクだけで、残りの二人は声もない。
一番びっくりしているのは、例の呪文を唱えてしまった俺なんだが。みるみる小さくなっていったロキはとっても悲しそうな顔で、きゅうんと鳴いた。