第七回 障礙者の描写
ところで僕は「障礙者」と書きました。「障害」「障碍」「障がい」、様々な表記があるにも関わらず、あえてこの表記にしているのです。そもそも戦前は障礙、もしくは障碍と書かれてきましたが、戦後、当用漢字が定められます。一部の有識者は識字率の妨げとなると考え、最終的にローマ字で全て書くようにという案が出されました。さすがに一度で全部廃止はできません。そこで当用漢字表を定めて、段階的に廃止しようとしたのです。「碍」も「礙」も当用漢字から外され、障害者という表記で落ち着きました。しかし2009年に害の字は否定的な印象を与えるとして、「障がい者」という表記に。
ところが「障がい者がいう」と書くと「がい」が重なって読みにくくなってしまいます。「障害者」「障碍者」「障礙者」の三択ですが、害という字はもともと神殿の器を刃物で刺し、霊力を損なわせているところ。
しかし、「礙」「碍」は大きな石が山道を塞いでいるところを表しています。この二つはどう違うのかというと、「礙」が本来の字なのに、面倒くさいので「碍」と書くようになったのです。したがって、歴史的経緯から見ると「障礙者」と本来は書くべきだと思っています。
ところで彼らへ半ば腫れ物に触るように扱っている風潮があります。しかしこれは間違いです。
ただし彼らの〈現実〉を、〈実態〉を描かなければいけません。例えばパンやビスケットを作っているところもあり、時折バザーも開かれています。
また福祉作業所には就労A、就労Bなどがあり、A型は雇用契約を結びます。したがって最低賃金の保証されていることになっていますし、年末調整も発生します。またこれはほんの一例なのですが、余り知られていません。
彼らを描きたいのなら、自分から出向かなければなりません。当然です。スーツを着ているのに刀を腰からぶら下げ、紙の家に住んでいる……そんな偏見にまみれた日本人の生活を、アメリカ人が書いたらどう感じるでしょうか。それと同じです。他人の風評にかかわる問題で下手をしたら自分の文章で他人が傷付くかもしれません。だからこそ、臆するのではなく、正確な知識と綿密な下調べをしなければいけないのです。
描いてはいけない、という風潮にこそ創作家は立ち向かわなくてはいけません。そういった風潮こそ正しい理解を妨げ、差別につながっていくのです。