第五回 こう書けば上手く伝わる。
小説は文字で構成されています。文字と音声についても、根本的に考えなければいけません。そもそも言葉とは一体なのでしょうか。単なる音と声の違いはどこにあるのでしょうか。例えば、雷の音はただの音ですが、友達が「空がゴロゴロ言ってる」のゴロゴロは言葉です。では「ゴロゴロ」これはどうでしょう。では「ゴロ」。これは言葉でしょうか。「ゴ」。これは言葉でしょうか。
したがってこう言い換えることもできます。誤解を招かないように意味を伝えるのが言葉の本質だと。意味疎通の手段は文字と音がありますが二つの関係についてはどうでしょう。
例えば「僕は学校へ行く」という発音を文字通り書くと「ボカ、ガッコーエ、イク」に近くなると思います。クとワが結びついて「カ」という音に近くなりますし、「学校」と言う単語も「ガッコウ」とは発音せずに、「ガッコー」と発音します。
しかし、「ボカ、ガッコーエ、イク」だと意味が伝わりません。どうして意味が伝わらないのでしょうか。片仮名だからでしょうか。「ボクハ、ガッコウヘ、イク」。意味が何とか伝わりますね。
答えは簡単。単語と単語の境目が分からなくなるからです。どういうことか。「ボクハ」という言葉は一人称代名詞の「ボク」と助詞の「ハ」に分かれます。本来、別々の言葉をそう発音するからというだけで、発音通りに書いては意味が通じなくなるのです。
それ以前に文字へ起こすとと、抑揚なども全て削ぎ落とされてしまいます。日本語は抑揚と意味は密接に結びついています。同じ「ハシ」という音でも抑揚をつければ「橋」「箸」「橋」なのか区別できるようになるのです。
ヨーロッパでは文字を音声を書き留めるための便宜的な道具として扱われてきました。イエス・キリストが何を言ったかはその「声」を聞いた人にしか解りませんから。
しかし、これは言葉の本質を見失いかねません。文字だけにしか表現できないものがあるからです。それは記号類。「、」「……」、「──」にいたるすべての記号類です。しかし、歴史的に考えるとこれらの記号がなくても表現できていた時代がありました。例えば源氏物語の原文は句読点が一切ありません。つまり、本来の日本語にない以上、記号類は必要最低限に留めるのが望ましいと思います。
もう意思疎通には一つ重要な要素があります。それは法則性がある言葉に関しては、その法則性を残したまま表記するということ。例えば英語で「ed」をつけると過去形になります。例えばestablishedという単語の発音記号はtに近いのですが、establishetと書かれると困惑しませんか?
英語も日本語も同じこと。例えば「そうゆう」という表記は、格変化をないがしろにしています。もちろん、発音優先なら徹底して音を優先させればいいと思います。ただ小説である以上は、言葉、そして文字に対して敏感にならなければいけません。