第七回 登場人物がみんな一緒になる?(2)
「第五回 登場人物がみんな一緒になる?(1)」で登場人物を生き生きとさせるには二つあると書きました。一つは読書。映画、漫画などもここに含めて構いません。もう一つは何でしょう?
それは人とのコミュニケーションです。生身の人間こそ登場人物の参考になるのです。どのような人と話せば一番参考になるのでしょうか。読書の場合と同じで「背景が自分とは違っていればいるほど」参考になります。
例えば学校の先生や親はもちろん今やSNSを使えば簡単に海外の人ともコミュニケーションがとれます。またいつもと違うクラスメイトと話すのも刺激になります。その意味では選択科目は絶好の機会と言えましょう。
具体例を一つ挙げると、「彼女」という言葉。もちろん文脈にもよるのですが、無条件には恋人の意味になりません。「その子」という代名詞的な意味もあるのです。
ところが「彼氏」となると、恋人の意味が強くなります。あくまでも僕の言語感覚ですが、「その男」という意味なら「彼」。ところが、父は「その男」という意味でも「彼氏」を使います。このような言語感覚の違いは同世代で会話をしていても気付きません。
たまに、会話文で登場人物の一人称を固定している人がいます。例えば「僕」なら誰に対しても「僕」。しかし、これはリアリティーがありません。日本語の一人称は相手やその時の心境によって変わることが日常会話を観察していけば解ります。社会人ともなればなおのこと。
例えば社会人なら相手によって「私は知りません」「俺は知らん」と使い分けていなければ不自然です。そして関係性だけでなくそのときの心理によっても変わります。上司が部下に対しても「私は知りません」という場合もあります。
例えば機密書類を部下が紛失したときの会話を考えてみましょう。
A
「すみません。ここに書類があったんですけど、見ませんでしたか?」
「俺は知らん」
B
「すみません。ここに書類があったんですけど、見ませんでしたか?」
「私は知りません」
Bのほうが険悪に聞こえますよね。紛失したかもしれないという責任から距離を取りたくて、「私は知りません」という言い方になったと解釈されます。
そして登場人物を安易に書き分けようと表面上でのみ一人称を固定すると、複雑な人間関係、微妙な心理描写ができません。結果的がリアリティーがなくなり、登場人物の魅力もなくなり、引いては空疎な物語になってしまうのです。




