第三回 冒頭は何を書けばいいの?
小説を書いていて、困るのが書き出し。いつまで経っても筆が進まず、進むはツイッターのタイムラインばかりなりという経験は多いのではないかと思います。何度も言いますが、そういう場合こそ小説を読むべきです。WEB小説も参考になりますが、玉石混淆。好き嫌いはさておいて、構成的に優れた作品はあまり見つかりません。
参考にするのはプロの文章。そこで『山月記』の冒頭を振り返ってみましょう。
隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自から恃むところ頗ぶる厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。
良作の指標はいくつかありますが、例えば下記の二点が挙げられるでしょう。
(1)作品の5W1Hをできるだけ早い段階で書いていること。5W1HとはWhenいつ、Whereどこで、 who誰が、Whyなぜ、whatなにを、 Howどのように、の6つの点。「山月記」に当てはめると下記の通りです。
いつ……「天宝の末年」
どこで……「隴西」で
誰が……「李徴」が
なぜ……「自から恃むところ頗ぶる厚く」
何を……(なし)
どのように……(なし)
冒頭の一文で作品の情報がほとんど読者へと提示されていることが解ります。また便宜上、「天宝の末年」は「時間」に分類しましたが、同時に唐代という場所も表していると言えるでしょう。一つの言葉で2つの情報を与えているのです。
そのすぐあとで「この頃からその容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、眼光のみ徒に炯々として、曾て進士に登第した頃の豊頬の美少年の俤は、何処に求めようもない」と李徴の容姿が描写されます。つまり、冒頭のわずか数行で「李徴」の具体的に描写がなされていることが解ります。
しかも変化の描写で描けるのは現在ばかりではありません。「豊頬の美少年」という過去にまで言及しており、よりいっそう、李徴の病的な様子、そして作品の不穏さまで描いているのです。
(2)舞台と文体が一致しているか
さて、この文章からは「博学才穎」、「狷介」などの漢語が多く見られます。下記のように解りやすく変えることもできます。
隴西の李徴は賢く、役人の一次試験にも合格して、江南地方の役人にもなったが、頑固でプライドが高いので、下級役人でいる自分が許せなかった。
確かに読みやすくはなりましたが、致命的な問題が起こりました。唐が舞台の「山月記」。一次試験、プライドなどという現代的な言葉で語ったら、作品の雰囲気、質感、空気が伝わりません。
例えば下記の文体まで乖離させると、喜劇的にもなります。
隴西の李徴って男はチョー頭が良くて、役人の一次試験にも合格して、江南地方の役人にもなってエリート街道まっしぐらだったんだけど、プライドがマジで高いから、下っ端でいるのがヤだったんだってさ。マジ卍だよね。それよりは、すんげぇ詩を作ってみんなを驚かせたかったんだけど、世の中ってそんなに甘くないじゃん? 上手く行くわけがないよね。
しかし、今度は悲劇としての実感がなくなり、「厨二病乙www」で終わりそうです。もちろんこういう意図で書いたのであれば、成功しています。しかし、悲劇として、少なくともシリアスな路線として解釈されたいのであれば、作品世界と文体はできるだけ一致させたほうがいいと言えるでしょう。
そしてこれは〈語り手〉の概念も密接に関ってきます。山月記は三人称視点で語られていますが、これは読者との距離が保たれていて、客観的な文体。誤解されがちですが、三人称視点だから感情移入がしにくい、一人称視点だから感情移入がしやすいわけではありません。感情移入のしやすさは心理描写がどれだけ濃密かで決まります。
例えばダシール・ハメットの『血の収穫』は一人称視点で描かれていますが、心理描写が皆無。何を考えているのか全く分からないため、感情移入ができません。
逆にウィリアム・アイリッシュの『幻の女』は三人称視点ですが、手に汗握る緊迫感があります。
しかし情報の正確性という点では正しいと言えましょう。例えば、李徴の一人称視点で語られていたら、発狂して妄想を語っているとも解釈できます。このような語り手を〈信頼できない語り手〉とも呼ぶのですが、推理小説では一人称の〈語り手〉が意図的に情報を伏せる場合もあります。
叙述トリックと呼ばれ、文章だけという小説特有の特徴を使えばこのような罠も仕掛けることができるのです。




