第7話 喪失感
山下一佐からこの世界についての説明を受けた後、ジュンはしばらく立ち直れなかった。
興奮し取り乱し、山下一佐や前田二尉に食って掛かったが、誰一人ジュンの問には答えてくれなかった。否、答えられなかった。
何故、平行世界へ転移したのか?
何故、自分なのか?
もしこの問に答えられるものがあったとしたら、それは「神」と呼べる存在だけかもしれない。
ジュンは何時迄も平静を取り戻せず、結局、RX-175の実稼働の話を山下一佐は出来ず、ジュンはそのまま独房に戻された。得体の知れない人物を留置するのに最適の場所であったからである。
その天井に埋め込まれた監視カメラのモニター映像を眺めながら、ジュンのことをいずれかの組織の工作員と信じて疑わない前田二尉は冷ややかな笑いを浮かべていた。
「いつまでその演技が続けられのかしらね」
モニターに映るジュンは枕を掴んで激しく振り回し当たり散らしていた。
「何で!? どうして!?」
ジュンの口からは繰り返し言葉が発せられていた。
ひとしきり暴れまくり疲れきったジュンは、肩で息をしながら枕を放り出し、ベッドの上に膝を抱えて座り込み俯いた。その後出された食事にも一切手を付けずその姿勢のまま何時間も過ごした。
やがてごろりとその体勢のまま横になって、涙を流しつつ寝入ってしまったのである。
時々その様子を見にモニター室に来た前田二尉も、さすがにジュンに対する考えを変えつつあった。
―― もしかしたら、本当に平行世界から来たのかもしれない……。
もしスパイであるなら大した演技力だ、と思う気持ちがまだ少し残っていたが、だがもし「本当に」平行世界からやって来たのなら、あの反応もおかしくはないだろうと思い始めていたのである。
自分が住んでいた世界とよく似ている世界。だが根本的にまったく異なる世界。そんな所へ一人で放り出されたら自分ならどうするだろう? 前田二尉はそう考えて思わず身震いした。
もしそれが周囲にまったく人影のない砂漠の真ん中だったら? あるいは見渡す限り水平線の広がる大海原の真ん中であったら? もしくは砲弾が飛び交う最前線の戦場だったら? いきなり生命・生存が脅かされることになるだろう。
ジュンの場合正規の軍隊の基地の中へ忽然と現れたのである。したがってスパイ容疑を掛けられつつもその扱いは決して乱暴なものではなかった。それは基地司令官の山下一佐の人柄と方針ということもあるだろう。
だがもし規律も何もないゲリラ組織のようなものの中に突然現れてしまったら? すぐに殺されるならまだまし、最悪は乱暴されボロボロにされてから殺される事になるかもしれない。
―― だとしたらこの女、運がいい……。
もっとも平行世界へ飛ばされたことが、運の良いことなのかどうかはわからなかったが……。
ジュンはそのまま食事も取らず、日が変わってもうつろな目をしたまま虚空を眺めていた。一切の気力を失っていたのである。
もしかしたら、馬鹿げたことだと思いながらも、自分が何かとんでも無い事に巻き込まれているのは感じていた。GPSロストからの復帰で得た現在座標。それを知った段階でである。
ジュンは工科大学で機械工学を学んだ。少しでも人類のために役に立ちたい。災害に見まわれ苦しむ人々のために働きたい。その思いからである。そうして専攻分野の知識を活かすべくオセアニア・インダストリー社に入社した。そうして数年のアクチュエータ開発ラボでの研究後、テスト・パイロットとなったのである。
テスト機は様々な段階を経て組み上げられているが、ジュンが搭乗した機体は新型アクチュエータのテスト機。したがって他の機構、機器については信頼性の高いものばかりが積まれている。そうでなければ正しいテストが行えない。したがってGPS受信装置の信頼性も当然高かったのである。
それが示した異常値。
機械の故障か、はたまた機械は正常で自機の位置に何か異常があったのか。そのどちらしかなかったのである。
ジュンも工学を学ぶ過程で様々な科学理論に相対性理論や量子力学と言った高度な理論の基礎的なことも学んでいる。したがって多世界解釈も当然そこに含まれている。ある起点を分岐として2つに分かれていく世界。その分岐は無限にあり、そうして世界は無限に分かれていく。だがそれは決して交わらない。交わることはない、そのはずだったのに……。
なまじ知識があったが故にジュンには絶望しかなかった。
もう二度と自分はあの世界には帰れない。
祖父母とも、両親とも、同僚だった陽気なオージーのマイキー、皮肉屋のチャイナ系移民のメイ・リン、気難しいラボの研究員達、行きつけのショップのおばさん、古くからの友人たちに会えない……。
お気に入りの服、店、風景、生活……。
自分の日常の何もかも全てを失ってしまったのである。ジュンの喪失感の大きさがわかるだろう。
未知の世界へ行ってみたい。そう思わない人はいないかもしれない。だがそれは、元の自分の居場所に帰れるという前提があるからこそのことだろう。
人間という生き物は社会を作って生きている。一人ひとりが社会の構成員である。だが己の所属していない社会に、自ら望んだことではないのに突然ただ一人、誰も知らない、何もわからずに放り出され帰ることが出来ない。そんなことを望む人間がいるだろうか?
だがそれが我が身に起きている。
目が覚めたら「酷い夢を見た」で済んで欲しかった。だが、それもなかった。
―― もう、どうでもいい……。
もうどのくらい時間が経ったのかもわからない。空腹もどうでも良かった。だがそれでも尿意・便意が訪れることにだけは苦笑するしかなかった。
ジュンはゆるゆるとベッドから這い出て便器に座った。独房にはむき出しの便器と小さな手洗いシンクがあった。
天井の小さな黒いガラスドームは監視カメラだろう。それに見られていることも気にならなかった。
―― 見たきゃ見ろよ……。
用を済ませると手も洗わずにふらふらとベッドに倒れ込む。
しばらくすると独房にただひとつのドアが開いた。
「スマンな、ちょっとお前さんと話がしたくってな……」
白髪交じりの男が入り口でそう言って中に入ってきた。
「時々尋問にも立ち会わせてもらったんで顔は知ってるだろうが、この基地の技術責任者の井上ってもんだ」
井上技術一佐はそう言って手にしていた木椅子を床に置いて腰掛けた。
「お前さんの身の上に起きたことについては、何て言っていいかわからん」
井上技術一佐の表情は名状しがたいものだった。
「慰めも励ましも鬱陶しいだけだろう。
ただ……」
井上技術一佐はジュンのうつろな表情にも真剣に言った。
「もし出来るんだったら、『この世界』を楽しんでみちゃあどうかな……」
だがその言葉はジュンの上を通り過ぎただけだった。
「無責任なことを言ってると思うかもしれんが、自分ではどうにもならねえことなら諦めるしかねえだろう。だがそこで何もかもやめちまったら本当にそこで終わっちまうと思うんだ。
お前さんの住んでた世界とここは違う世界だが、いっそのことその違いを……」
「ふざけんなよ!!」
ジュンがガバリと身を起こした。目を見開いてジュンは叫んだのである。
「何が楽しめ、だよ! 出来るわけ無いだろう!!」
「そうか……、そうだよな……、いや、済まなかった……」
井上技術一佐はそう言うと立ち上がった。
そうして椅子を手にドアへ向かう途中振り返って言った。
「ただ、お前さんが『この世界』にやって来た意味を考えててな……」
「意味……?」
ジュンが小さき呟いた。
「歴史の必然、何て難しいことを言うつもりはねえんだが、どうしてなんだろうと思ってな……。まあ、わかるわけはねえんだがそれが気になってな……。
邪魔したな」
そう言うと井上技術一佐は独房を出て行った。
独房に取り残されたジュンは再び小さく呟いた。
「わかるわけ無いだろう、そんなこと……」
そうして再びベッドに突っ伏したのであった。
その日の昼、井上技術一佐は再びジュンの独房を訪れた。今度は手ぶら、但し若い兵士が机と椅子、それにトレーに乗った食事を携えていた。
「食わないのか? 体が保たねえぞ?」
手の付けられていないジュンのための食事を見て井上技術一佐が言った。
黙ってそれを無視しているジュン、ベッドに横たわったままである。
「……」
「ここの食事はそんなに悪く無いと思うぞ? 口に合わねえか?」
「……」
「まあいい……。ちょっと話をさせてもらうよ。まあ年寄りの暇つぶしに付き合ってくれ」
そう言う井上技術一佐だが、本来は決して暇人などではない。
「俺は子供の頃ロボットアニメが好きでな、それでいつかは自分もロボット乗りになりたいと思ってたんだ」
食事を口にしながら話し始めた。
「だがうちは貧しくってな、奨学金をもらってやっと高校へ行くことが出来る程だった。なもんで無理だったんだ」
ジュンは背を向けたまままったく反応しない。それでも井上技術一佐は話し続けた。
「高校を出て入隊しHAHEWW乗りを目指したんだが……」
「HAHEWW? なんだよそれ……」
ジュンが背を向けたままながら初めて反応した。井上技術一佐は嬉しそうに笑顔を見せながら説明した。
「重装甲ヒト搭乗型歩行兵器のことさ。お前さんの世界ではそう言わねえのか?」
「……。特に呼び名なんてないよ。2足歩行ロボット(Biped Walking Robot)か多脚歩行ロボット(Multi-Legged Walking Robot)くらいしか言わないね」
「そのまんまじゃねえか!?」
「そのまんまって、なにか問題でも? 元々災害救助用に開発してるんだ。兵器ですらないし……」
確かにジュンのいた世界では軍事転用を見越して多脚歩行ロボットを開発しているが、実際の運用は99%が災害出動であり、足場が悪く通常車両が近づけない、もしくは人力では対処できない等の場合がほとんどである。したがって極稀に暴動への鎮圧に出動することがあるくらいである。
それ故南北米州連合のA-6や全欧州国家連合のACX-3も軽火器程度の装備しかオプションがなく、重火器はそもそも重すぎて装備できないのである。
ジュンは体を起こし井上技術一佐を見た。
「頼むから一人にしてよ!」
「そうか、スマンな……。ただこういう言い方は申し訳ないが、お前さんとならつまらんことを気にしないでロボットの話ができると思ったんでな……」
「なんだよそれ?」
「うん? いや、俺は高校卒業で入隊したからHAHEWWの搭乗者訓練が受けられなかったんだ。それでも技術兵としてロボットに関わりたいと思って通信講座で学位を取ったんだが、結局それも無理でな……。兵器開発局でしばらく新型兵器研究に携わって、結局、退役定年前に技術責任者としてようやくってことだったんだ。
だから若いエリート・パイロット達は俺のことはまともに相手してくれないんだよ。もっとも奴らはせいぜい一尉(Captain)、一佐(Colonel)の俺に話しかけられれば口は利いてくれるがね」
民間人であるジュンには軍の階級というのは今一つ良くわからない。だから一佐、一尉と言われてもそれがどのくらい偉いのかちっともわかっていない。
しかも通常、大学を出て士官学校を卒業したエリートでもなければ、高校出の一兵卒から始めた軍人が佐官クラスまで昇進するのはかなり難しい。しかも戦場で武勲を上げやすい戦闘員ではなく技術畑一辺倒ならなおさらである。
さらに井上技術一佐の場合、任務の合間を縫って通信講座で勉強して学位を取ったのだから相当の努力家である。しかも一佐までなったのだから相当高い能力を持っているということが言えるのだが、そういうこともジュンにはまったくわからなかった。