第19話 愛があれば……
年明けて元旦となった、市ヶ谷駐屯地の外側に隣接する官舎の一室。
ベッドに寝そべった井上技術一佐の体の上でジュンの身体が揺れ……、否、ジュンが自分で身体を揺らしていた。そうしてその動きとともにジュンの口からは声が漏れていた……。
ジュンはシャワーの後、ダブダブの井上技術一佐の予備のバスローブに身を包み、ダイニングの椅子に腰掛け、マグカップを両手で包み込むようにしてコーヒーを飲んでいる。
時刻はまだ夜明け前である。
「牛乳くらいあってもいいと思うんだけど……」
「スマンな。普段飲まないんでな」
「アタシはフラット・ホワイトしか飲まないんだ」
「フラット・ホワイト?」
「ああ。エスプレッソに温めて泡立てた牛乳をたっぷり入れたやつを向こうじゃそう言うんだ。あ、向こうって言っても豪州だけなんだけど」
「そうなのか?」
「うん。多分こっちでも飲めるんじゃないかな。あの国へいけば……」
「そうか……。
それより良かったのか? オレとこんな風になっちまって。初めてだったんだろ?」
「迷惑だった?」
「そんなことはないよ。だがちょっと意外、というかびっくりした」
「何で?」
「初めてにしちゃあ随分と激しいかったからさ」
「バカ!」
さすがに、痛いどころかそれ以上に気持ち良かった、とは恥ずかしくて言えなかったジュンである。
「まったく女ってのは怖えなあ。
それより恋人とかいなかったのかよ? いくらなんでもオレより若くていい男ってのはいくらでもいそうだがな……」
「別に若けりゃいいってことでもないじゃん。やはり相手の人物だよ。周りにはその気になれる男なんていなかったよ。
それよりそんなに歳の差が気になる? よく言うじゃん『愛があれば歳の差なんて』って。それともこっちじゃ言わない?」
「言うけどよ……」
「それより、そっちこそイヤじゃなかった? 27にもなってヴァージンの女を抱くのは……」
「別に。それに褒められた話じゃないが、オレが童貞を失ったのは30過ぎだぜ。魔法使いになれちまう歳だよ」
「何それ? 変なの」
ジュンがケラケラと笑う。
「とにかく責任は取る」
「嬉しいけど……、どうやって? アタシはこの世界の人間じゃないし戸籍もないんだよ? 本来存在しない人間だよ?」
「そんなことを言ってるんじゃない。お前はオレが守るってことさ。だから心配するな」
「ありがとう、嬉しい。その言葉だけで十分だよ」
「まあ、直ぐに官舎でって訳にはいかないが……」
「いいよ、気にしない。それよりさ……」
「何だ?」
「もう一回して……。ダメ?」
ジュンが上目遣いで恥ずかしそうに井上技術一佐の顔を覗き込む。
「無茶言うな! 一晩でそう何回もできるか!」
「ケチ!」
ジュンが頬を膨らませ口を尖らせた。
その同じ頃、前田二尉はまだ山下一佐の腕の中にいた。触れ合う素肌が熱いくらいに感じられていた。
「済まないことをした、前田君」
「いいえ、気になさらないで下さい。それより『かほり』と呼んで下さいませんか」
「そう呼びたいのはやまやまだが、そうすると君に溺れてしまいそうで怖い」
「溺れて下さい、閣下。あなたの望むことなら私はなんでもしますから」
「だが、いずれにせよ責任は取るよ。こういう関係を持ってしまった上に、君の初めてを奪ってしまったのだから」
「いいえ、いいんです。閣下とこうなれただけで私は幸せですから。それにもし正式に結婚しても離ればなれになるだけですし……」
「そうだな。夫婦が同一の職場はおろか、同一の基地にいること自体が風紀紊乱の元、などというくだらん考えが人事にはあるからな。おかげでどれほどの夫婦が離ればなれの生活を余儀なくされていることか」
「ええ。だからいいんです。時々こうしていただければ私は十分です……」
「しかし何故私なんだね? 他に若くて魅力的な男性はいくらでもいただろうに」
「自分でもよくわかりません。気づいたら他の人は目に入らなくなってました」
「だが親子ほど年が違うんだよ?」
「あら、言うじゃありませんか?『愛があれば歳の差なんて』って」
「確かに聞いたことはあるが、まさか自分に関わりのある言葉だとは思わなかったよ」
「申し訳ありません。ご迷惑でしたか?」
「そんなことはないよ。私は君を愛しく思っている」
「ありがとうございます。とても嬉しいです」
「でも何と言うか、君の言葉はちょっと固すぎるというか、よそよそしすぎないかね? 一応こういう間柄になった訳だし。違うかね? かほり」
「あ! わかりました……、閣、和夫さん」
「嬉しいね、その呼ばれ方。そういうふうに呼ばれるのは15年ぶりだな」
「……。か、和夫さんは、今でもなくなった奥様の事……」
「いや、もう遠い記憶、過去のことだよ」
「そうなんですか?」
「こういう言い方は卑怯かもしれんが、妻のことを忘れろと言われてもそれは無理だ。彼女とは共に暮らした10年以上の思い出がある。
だがそれはあくまでも過去の記憶だよ。それにしがみついていたつもりはない」
「では、どうして再婚されなかったんですか?」
「息子二人と上手くいってなくてね。私が仕事中心で妻の病気に見向きもしなかったと思って私を憎んでいるんだ」
「そんな!」
「いやそうなんだ。だから、再婚を進めてくれる方もいたが、そんな状態で再婚したら息子たちが余計に離れてしまう。そう思って全てお断りしたんだ。だが結局それでも息子たちは離れていってしまったがね。だから一人ぼっちになってしまっていたよ」
「そうでしたか……。でももうお一人ではありません。私がおります」
「ありがとう。でもまだちょっと固いね」
「申し訳あ……。ごめんなさい、気をつけます。ですがすぐには無理です」
「構わないよ。それにいざというとき人前で出てもね」
「はい」
「でもどうして急に……。いや、結局は私が誘ったのだが、そういう素振りを見せたのかな?」
「それは……ジュンのせいです。いえ、最初は私の勘違いだったんです」
「ジュン? 勘違い? どういうことかな?」
「はい。実は私、ジュンがあなたに気があると思い込んでしまったんです」
「彼女が私に? それはないだろう」
「ええ。でもそう思い込んでしまって……」
「それで私に迫ったのかい?」
「はい、結果的にはそういうことに……」
前田二尉はそう言って顔を赤らめた。
「君は意外と嫉妬深いのかな?」
「そんなことはありません! ただ……」
「ただ?」
「私が彼女に恋愛を薦めたんです。どうせ帰れないならこの世界で恋人を探したらって」
「それで?」
「そうしたら彼女、和夫さんに、あなたに気があるようなことを言ったんです」
「それを信じたのかい?」
「はい、恥ずかしながら……。でもそれは彼女の演技でした」
「演技?」
「はい。私の気持ちに彼女は気づいてたんです。それで私をその気にさせようと演技したんです」
「そうか、上手くのせられたという訳か」
「はい。でも最後は自分で乗りました」
さすがに賭けをしたとは言えない前田二尉である。
「では彼女には意中の人はなかったのかな」
「いいえ。彼女は井上技術一佐に惹かれていたんです」
「井上さんに?」
「はい。井上技術一佐は彼女の父親にどことなく似ているそうで一緒にいると安心できるそうです」
「そうか。彼女が井上さんをね。では二人は?」
「おそらく今、井上技術一佐の官舎に……」
「おいおい、それは規律違反だよ。彼女は基地外に出てはならないことになっている」
「申し訳ありません。私が炊きつけてしまって……」
「困った副官だね。懲罰ものだよ?」
「申し訳ありません、閣下」
「では仕方ない、君に罰を与える」
「は、はい、なんなりと……」
「では、君の上官に対し奉仕を命じる」
「奉仕? どのような?」
「自分で考えなさい。ただし、罰になると思えることでなければならないよ?」
「はい。わかりました」
そう返事をした前田二尉はしばし考えてから、ゆっくりと頭を下へ下げていった。そうして静かに言った。
「ではご奉仕させていただきます」
「うむ。始めたまえ」
「はい」
そう言って前田二尉はゆっくりと口を大きく開いた。
再び井上技術一佐の部屋、ジュンは井上技術一佐に朝食を用意しようとして途方に暮れていた。
「本当に何もないんだな」
「仕方ないだろう? 3食基地で食べられるんだから」
「そりゃそうだろうけどさ……」
「それに自分で作るほど味気ないものはないからな」
「そんなことないよ。やってみれば意外と面白いよ?」
「それはお前が女だからだろう? 男のオレがチマチマやってたらこれほど惨めなことはないぞ?」
「そうかな? 意外と似合いそうだけど?」
「バカ言え! お前は普段、自分でやってたのか?」
「ああ。外食ばかりじゃ高く付くからね」
「そうか」
「あの国は人件費が高いから、外で食べるとあっという間に財布が空になっちまうのさ」
「大変だな」
「ああ、だから何かで賭けになったら、負けないように必死だったよ」
「賭け?」
「ああ、向こうの連中は賭けが好きで……」
そこでジュンは口ごもり俯いた。
「スマン、思い出させちまったか?」
「ううん、いいよ」
ジュンはゆっくりと井上技術一佐に近づき、その脚をまたいで膝の上に座ると首に手を回した。
「思い出すとつらいけど仕方ないからね」
ジュンは井上技術一佐の目をしっかりと見つめて言った。
「だからタップリとかわいがってよ、アタシが全部忘れてしまうように。何も思い出さなくなるように。アンタのことしか覚えていなくなるように……」
そう言うとジュンはバスローブの胸元をはだけた。
その日午前0時を回り、年が明けたところで市ヶ谷駐屯地司令・山下一佐の年頭訓示の後、同じく山下一佐と井上技術一佐、さらに軍医長下田二佐の3人によって鏡開きが行われ樽が開けられた。その後乾杯がなされしばしの歓談となったのである。
もちろん元旦だから緊急出動がないという保証はない。したがって当直の者は精々一口か二口程度しか飲めないし、非番の者はそのまま官舎に帰っても良い。特に家族のいる者は乾杯後そそくさと帰っていった。
ジュンは前田二尉と一緒にいて、別段ジュン自身がそうしたい訳ではないが、基地の特に若い男性兵士と新年の挨拶に明け暮れていた。
まあ、ぶっきらぼうながら見た目は悪くないジュンと高嶺の花・前田二尉はやはり目を引く。どうしても我も我もと群がってこられた。
ジュンは小声で前田二尉に言った。
「何とかなんないの、これ?」
「我慢しなさい」
「だってこれじゃあ、基地司令に挨拶できないじゃん」
「山下司令に?」
「ああ。だってアタシが今ここでこうしていられるのは司令のおかげだからね。きちんと挨拶しなきゃ」
「殊勝な心がけね」
「だろ? それにポイント稼がなきゃ」
「何のポイントよ?」
「恋人」
「ぶっ!」
思わず口につけたグラスの酒を吐き出した前田二尉である。
「な、何言ってるのよ、ジュン!」
「何って、恋人作れって言ったのはかほりじゃん。だから……」
「だからってどうして司令なのよ!」
「ダメ? 目指すはトップってことで」
「そんな不純な……」
「でも組織で上手く生きていくには組織のトップに取り入るのが一番だろ。だったら……」
「そんなの認めないわ!」
「何で?」
「そんなの不純よ! 不潔だわ!」
「何怒ってんだよ? いいじゃん、アタシの勝手だろ?」
「ダメ! 絶対許さない!」
「何で?」
「なんでもどうしてもダメなものはダメ!」
「何でだよ? 別に司令はアンタのもんじゃないだろ?」
「それは……、わ、私は司令の副官よ。だから許しません!」
「何言ってんのさ、恋愛は自由だろ?」
「ダメと言ったらダメ!」
「ケチ!」
「ダメ!」
「わからず屋!」
「ダメ!」
「じゃあいいよ、井上のおっさんにするから……」
「えっ? ああ、そう……、それならいいわ……」
ホッと安堵の溜息を付きながら前田二尉はそう言った。
「ふーん? 井上のおっさんならいいんだ?」
「えっ? いや、それは、やはり、あなたの言う通り恋愛は自由だし……」
「じゃあやっぱり司令にしようっと」
「ダメ!! 絶対ダメ!」
そこでジュンはしてやったりとにまーっと笑った。
「おっさんは良くてどうして司令はダメなのさ?」
「それは……」
「それはよーするに、司令以外ならいいってことかな?」
ジュンのにまにま笑いが止まらない。
前田二尉は顔を赤らめプルプルと震えている。
「素直になりなよ、かほり?」
「あなたねえ!」
「部屋で最初にからかった時からおかしいと思ってたんだよね。あの程度で銃を抜こうとしたし……。それに司令を見るかほりの顔って、まさに恋する乙女って顔だったからね」
「ジュン!」
「賭けをしようか?」
「賭け? 何言ってるのこんな時!」
「いいじゃん。どちらが先に自分の想い人を陥落とすかっていう賭け」
「そんな! それこそ不純だわ!」
「何で? 豪州人は英国人以上に賭け好きだからね」
「だからって! 私はそんな賭けは……」
「逃げるんだ?」
「えっ?」
「どうせ勝ち目がないからって逃げるんだ?」
「何言ってるの?」
「何が誇り高き帝国軍人さ? 目の前の勝負から逃げるんじゃ……」
「あなたねえ、言っていいことと悪いことが……」
「じゃあ勝負しろよ、アタシと。一世一代の女を賭けてさ」
「あなた!」
「アタシは本気でユキオ落とすからね」
「え?」
「本気で行くよ。たとえアンタが怖気づいて何もしなくてもアタシは行くから」
「ちょっと失礼なこと言わないで。誰が怖気づいてなんか……」
「じゃあ、勝負しろよ」
「わかったわ。勝負しましょう」
前田二尉も腹をくくった。これはジュンが自分の背中を後押ししてくれているとわかったからである。
「そうこなくっちゃ!」
そうして二人はそれぞれ意中の相手のところへと向かったのである。
「よお、前田君、あけましておめでとう」
「あけましておめでとうございます、閣下。本年もよろしくお願いいたします」
そう言って前田二尉は深々と山下指令に頭を下げた。
「ああ、こちらこそ。
すまんが私はこれで失礼するよ。さすがに年をとると夜更かしは体にこたえる。君はゆっくりし給え。非番だろう?」
「はい。でもお送りいたします」
「いや、大丈夫だよ」
「ですが小官は最近副官として何もできておりません。ですからこういう機会だけでも……」
「そうか。まあ毎年のことだし、では頼もうか」
「はい」
そう言うと前田二尉はニッコリと笑い、密かにジュンに向かってほくそ笑んだ。
―― ほら、やっぱり私の方が先じゃない。
それを見たジュンが睨み返す。
―― 勝負はまだまだこれからさ。
そう思いながら、いつまでも整備兵たちと楽しそうに話をしている井上技術一佐を見つつ、虎視眈々と機会を窺っていたジュンである。
そのさらに同じ日、二組の男女が睦言をささやき合っている頃、ぶつぶつと恨み言を述べている若い二人の男がいた。
「まったく! 鳶に油揚げ、どころじゃないぜ!」
葛城一尉はすっかり座った目で愚痴をこぼしている。
「ああ、すっかりしてやられたな」
それに応じる山室一尉の目は、逆に死んだ魚のごとくに虚ろだった。
「大体、いい歳こいて若いのに手を出すなって言うんだ!」
「おい、仮にも上官だぞ?」
「何が上官だよ! 二人合わせりゃとっくに100超えた爺さん連中じゃないか! そういうのは歳相応の婆さんを相手にしろよ! 何で若くて、しかも極上のいい女をかっさらっちまうんだよ、許せねえぞ!」
「おい、もうやめろ。どう見たって負け犬の遠吠えだ」
「ああ、どうせ負け犬だよ。ほっといてくれ」
そう言って葛城一尉はグラスをぐいと空けた。
「大体、許せないのが井上のおっさんだ。自分で炊きつけといて、それで自分で持ってくってのはどう考えても反則だろう?」
「ああ、それだけは許せんな」
「だろ? なんとか一泡吹かせてやらねえと……」
「やめとけ。相手は一佐様だし、整備部の頂点だ。敵に回したらこっちが割りを食っちまう」
「だけど我慢できねえだろうが!」
「だが言うだろう?『長いものには巻かれろ』って。勝ち目のない戦は避けるべし、だ。士官学校で教わっただろ? 玉砕覚悟の特攻は愚か者のすることだ。常に生還することを考えよ、てな」
「ちぇ! 結局それしかないのかよ!」
いつまでも愚痴る二人であった。