狭間の宿屋
ここは、すべてが集まる宿屋である。
すべての世界が交わる狭間。すべての時代が交わる瞬間。
世界への入り口は、唐突に人々の前に現れる。
私はいつからかこの宿屋にいて、いつからかここで宿屋の主を務めている。私はただこの宿屋を切り盛りするだけで、外の世界についてもほとんど知らない。お客様からの情報をいただくだけだ。
それは無意味なことのように思えるが、でもそれが私の日常で、私ができる唯一のことだった。私はこの生活を、いいとも悪いとも思うことができない。
それは惰性ともいえるかもしれない。
ずっとやってきたから、やる。それだけだ。
この宿に、外はない。
窓からのぞいている景色は、見るたびに変容し、ひとたび窓を開けて外に出るものがいれば、すぐにその者は子の宿屋に戻される。
それがこの場所の絶対的規則だ。
客の訪れは唐突である。
ついでにいうならば、どこから現れるかもまったく皆目つかない。
私が食器棚の扉を開けると、がたがたと食器棚が音を立てて震えだし、まばゆいばかりの光を放つ。こういう現象に慣れている私は、さっとその食器棚から距離を取り、そして客の訪れを待った。
「きゃあ!」
「うわ!」
食器棚があった場所から突如現れたのは、黒髪の人間が二人だった。
一人は長い腰まであるようなサラサラとした髪に、深い緑色の瞳を持つ女性。もう一人は、こちらもまたさらりとした髪に、深い藍色の瞳を持つ女性だ。
二人とも極めて整った顔立ちをしており、二人ともその存在が綺羅綺羅しい。
ここに現れる客は、突然出現する”穴”を通じてこの宿屋にやってくるため、ほとんどの人間が勢いに耐えきれず地面に這いつくばることになる。
しかしこの二人は類稀なる身体能力を持っているのか、食器棚に出現した穴から放り出された瞬間、バランスを崩しながらも地面に立って見せた。
「あの……すみません! 気づいたらここにいて……」
女性のほうが先に私に気が付くと、慌てたようにぺこりと頭をさげて謝った。男性のほうは彼女をかばうように前に出ながらも丁寧な口調で言った。
「申し訳ありません。怪しいものではないんですが……」
「大丈夫ですよ。慣れてますから。お二人のお名前は?」
私が二人を安心させるように微笑みながら言うと、黒髪の女性と男性はお互いに顔を見合わせた後、私の反応を探るように言った。
「シェリア・リエーソンです」
「レン・ヴェントスです」
「初めまして。おそらくお二人はここがどこだかわからないと思うので、説明させていただきますね」
私はそういうと、二人を手招きして受付カウンターのところまで誘導した。そして自分はカウンターの中に入り込み、宿屋の帳簿を開いてペンをその上に置いた。
「この場所は、すべての時間、空間、世界が交わる場所。この場所からあなた方の世界に戻ったとき、時の誤差はわずか数分のこと。おそらくあなたがたの記憶の中で、この場所のことは夢として処理されるでしょう」
シェリアと名乗った麗しい女性は、すっと首をかしげて、問いかけた。
「でも、本当はここでの出来事は夢ではない」
「夢ではありません。ここは間違いなく現実です。しかし、そもそも何が現で、何が夢かなど誰もわかりはしません。ただ認識の問題と言えます」
私がここまでの説明をした段階で、お客様方の反応は大きく二つに分かれる。状況を完全に理解し受け入れる、あるいは理解はできないが深く考えず受け入れるか――理解できず受け入れられないのでごねるか。
どうやら二人はあっさりと理解して受け入れたパターンだったようだ。
「それで、私たちはいつ戻れるの?」
「この場所でこの世界の三日間を過ごせば、戻れることになっています。その場合はこの宿泊名簿に名前をお書きください。衣食住は保証しますし、無料で泊まっていただけます。ただし、この宿屋の外には出ることができませんので、もしお帰りになりたい場合は、ご自分で出口をお探しくださいませ。ああ、あそこのいかにも外につながっていそうな扉は、まやかしで外の世界には通じておりません。あの扉を潜り抜けると、不思議なことにこの場所に戻ってきてしまうのです。おそらく私がこういっても意味が分からないと思うので、実際にやってみますね」
私はつらつらと説明すると、宿屋のいかにも出入り口に見える扉を開いて、ためらいなく外に出た。すると視界がぐらりと揺らいで、いつの間にか驚く男女二人組と向き合う形で店の中にいた。
「なるほど……」
「これは確かに夢の世界みたい……」
どうやら二人が生きている世界には、魔法が存在しないようだった。これを見てびっくりする人は、たいていそういう世界からのお客様方だ。
「さて、どうされますか?」
私がそう尋ねると、レンと名乗った男性がすっとその深い藍色の瞳をこちらに向けて問いかけてきた。
「ちなみに出口を探すと、三日より早く帰れるんですか?」
「それは、運次第ですね。下手をすると三日以上かかるかもしれません。ただ、どの段階からでもこの宿泊名簿に名前を書いていただけますので、必ず帰ることはできますよ」
「ちなみに今までで最短で帰った人は?」
「私の記憶では二十分です」
「ニ十分!」
世界の出入り口が開く瞬間は気まぐれである。宿泊名簿に名前を書いてもらうのは、その気まぐれな出入り口に開閉の予約をするようなものなのだ。
宿泊名簿を書いた人間は、どれだけこの宿の中を動き回っても、三日後まで出入り口が開くことはない。まあ、例外もあるが。
「どうする、レン?」
「……元の世界に帰ったとき、本当に数分の誤差なら……別に三日ここにいてもいいんじゃないかな?」
「そうね。私もそう思ってたところよ」
二人の心が決まったようなので、私はカウンターまで戻って宿泊名簿を開こうとしたときだった。
突然、宿全体の地面がぐらりと揺れて、天井に輝くシャンデリアがまばゆい光を放った。
「離れて!」
私がとっさに叫ぶと、レンがシェリアの腕を引いてそのまま後ろに飛びずさった。そしてまさに二人がいたその場所に、降ってきたのは一人の女性。彼女は上から降ってきたというのに、さっと手と足を上手について体を滑らすように地面に着地した。そして素早く立ち上がると、目があった。
つややかな黒髪を頭上で膨らませるように整えて、ゆらゆらゆれる簪を指している。目じりより少し長く引かれた黒いアイラインと、唇に載せられた真っ赤な紅が彼女の美しさを引き立てる。シェリアも黒髪の美人だが、彼女のように堀の深い顔ではなく、どことなくエキゾチックで鋭い雰囲気の美女だ。
「誰!」
険しい表情とともに浴びせられた誰何だったが、私にはまったく効き目がなかった。こういうことは日常茶飯事すぎて、いちいち動揺していられないのだ。
「落ち着いてください。ここはすべてが交わる場所。あなたの知る人は誰もいませんが、数日経てばすぐに戻れます」
私は微笑んでそういうと、その女性は少しだけ落ち着いたようで、すっとあたりを見回した。そしてシェリアとレンに問いかける。
「あなたたちも客人ね?」
迷いなくそういった彼女に、私は少しだけ驚いた。私が来ている服も顔立ちも、シェリアやレンのものに近い。普通に考えれば、私たち三人がこの宿の人間に見えるほうが自然だったのだ。
「そうよ。あなたは……どこの人なの? どうせここを離れたら会うことはないのだから、教えてくれない?」
シェリアは明らかに異国人、あるいは異世界の人間だと分かったのか、興味深々といった様子で女性を眺めた。女性はそう言われて、意味が分からないとばかりにこちらを見た。
そこで私は、先ほどシェリアとレンにしたのと同じ説明を繰り返した。すると彼女は少し考えた後に、宿泊名簿に名前を書くといった。そして彼女は宿泊名簿に真っ先に名前を書きながら名乗る。
「私の名前は夏紫薇。鳳国の出身で、夏家の次期当主よ」
彼女が書いた文字は、なかなか難解なものだった。音に対して文字数が少ないのだが、一つの文字が複雑すぎる。
それに対してシェリア・リエーソンとレン・ヴェントスの名前は、なじみのある文字に近いものだった。別段私が彼らの名前を読めなくとも仕事に差しさわりはないのだが、いろんな国からくるいろんな文字で書かれた名前というのは、案外面白いものだ。
ただ、二人はなぜか宿泊名簿には三単語書いた。もしかすると口には出していないが、ミドルネームを持っているのかもしれない。
二人もまた、そうやって名簿に名前を書きながら、紫薇に自己紹介をした。
「あまりお客様の事情に足を突っ込まない主義なのですが……一つうかがっても?」
「どうしてシェリアとレンを客人だと言ったか、ということかしら?」
「はい」
「気配が違うから。ただそれだけよ。私は気配が読めるの。異能といって、通じるかしら?」
シェリアとレンは紫薇の言葉に驚いたようだったが、それ以上追及はしない。二人は聡明で、柔軟性に富んでいるようだ。
「つまり、あなたは人知を超えた能力をお持ちだということでしょうか?」
「……まあ、そういうことになるのかしら」
「あなたが読める気配というのは、人の感情も含むのですか?」
私は好奇心に負けてそう尋ねると、紫薇は少し驚いたような顔をした。しかししばし考えるとゆっくりと頷いた。
「そうよ。私は人の気配を読むと同時に、その人物の大まかな情報も読むことができる。その気になれば、ね。ただ体への負担が大きすぎるから普段は使わない……のだけれど」
「だけれど?」
「この空間では、どうやら体の不調が全くないの。不思議ね。だから異能も調子が良くて、あなたたちの気配の差を認識できたのよ」
この空間はすべてが混じる狭間の宿屋である。ゆえにどんな時代、世界にも通用する適応性がこの世界には働いているのだ。その力が、紫薇の体の不調を取り除く原因になっているのだろう。
「ところで、この宿から出れないといったけれど、本当に外がないの? 向こう側から人の気配がするけれど……?」
紫薇の力は本物のようだ。何も言っていないというのに、正確な方角を見つめている。
「外は在りません。ただし、なんといいますか、どこまでも果て無い”中庭”はあります。一種の幻影のようなもので、少しでも戻りたいと思うと、すぐに入り口に戻されてしまうんです。ただ、”中庭”の最奥までたどり着くと、その場合も三日より早く帰れます。ただし、ややこしいのですが、”中庭”の最奥にあるのは、先ほど説明した出口とは異なります。宿泊名簿に名前を書いていただいたお客様は、もう出口を探す資格はありませんので、どうしても三日待てない場合は、森の最奥を目指してください」
「なるほど……三日待てない場合以外は行く必要がないのか。でも……その割には人が多いと思うけれど?」
「三日間宿で過ごすのは、退屈なのでしょうね」
「みんな、活動的なのね」
紫薇は聞きたいことは聞いたとばかりにうなずくと、近くにあった椅子に腰かけた。シェリアとレンは私たちの話を聞いていて、それをあっさりと理解したようだった。そしてそのうえで、彼らも紫薇の向かい側に座った。
そして先ほどの話に興味を持ったらしいシェリアが、目をかがやせながら問いかけた。
「紫薇は、気配が読めるって言ったわよね」
「ええ」
「羨ましい! 軍人としては最高の資質よね、レン」
「あなたは軍の人なの?」
「軍人になろうとしていた、が正確かな」
シェリアはそう言って笑うと、レンに同意を求めるかのように視線を向けた。するとレンは一度うなずいて、ふと思いついたように口を開く。
「そうだね。でも……それって力を使わないこともできるのかな? そうじゃないと、疲れるよね?」
「もちろん。そうじゃないと私、体がもたないわ。でも……この世界では平気みたいだから、いつもよりも多くの情報を拾えるようね」
「多くの?」
「……たとえば、あなたたちが夫婦だろう、とか」
シェリアとレンの距離感を見ていれば、二人が親密な関係であるということはなんとなく察せられることである。しかしどうやら紫薇は、そういう理由でそういう判断をしたわけではなさそうだった。二人はまだ若いのに、あえて夫婦と断言したからだ。
「どうしてそう思うの?」
シェリアが問いかけると、紫薇はすっと唇の端を釣り上げて笑った。
「互いに守りたい人だというのが、強く伝わってくるから。互いのために命を懸ける覚悟がある。それに……もしあなたたちが夫婦じゃないなら、シェリアとともに生きるもう一人も、そんなに満足してはいないだろうしね」
「私とともに生きる、もう一人?」
シェリアは意味が分からなかったらしいが、私はどうして紫薇が夫婦だと断言したのか思い当たった。そしてレンもまた、紫薇の言葉の意味に気が付いたらしい。彼は勢いよく立ち上がると同時に叫んだ。
「まさか……!」
「レン?」
「あなたが思ったので正解よ」
紫薇がうなずくと、レンは意味が分からない様子のシェリアを思い切り抱きしめた。シェリアの深い緑色の目が大きく見開かれて、彼女は動けずに固まってしまう。
レンは椅子に座ったシェリアを抱き寄せ、そのまま彼女の頭にキスを一度落とす。
「シェリア! ありがとう……!」
「待って、何の話?」
シェリアは状況が呑み込めずに、紫薇に視線を向けた。すると彼女はシェリアに負けぬくらい美しい笑みで言った。
「おめでとう。子どもがいるわ。あなたのお腹に、もう一人の気配があるから」
その言葉を、シェリアが呑み込むまでには少し時間が必要だった。しかし、意味が分かった瞬間、シェリアは花咲くような笑みを浮かべて、ぎゅっとレンを抱きしめ返した。
そんな二人の幸せそうな様子を、紫薇は目を細めて見つめている。そして彼女は立ち上がって私のほうに近づくと、受付カウンターに肘をついて言った。
「親になるって、どんな感じなのかしら?」
私は親になったことがないので、その気持ちはわからない。だから首を横に振ってみると、紫薇は左斜め上に視線を向けながら言った。
「私も早くかっさらってこないと……」
「かっさらう?」
少し物騒な言葉に思わず問い返すと、彼女は苦笑しながら首を振る。
「言葉の綾よ。今、男を口説き落としている最中なの。私は一族の繁栄のために、彼が必要なのよ」
「そうなんですか……あなたに口説かれたら、どんな男でも堕ちそうですけどね」
私が思わず思ったことを口にすると、紫薇は一瞬驚いたように目を丸くして、そのあとにいたずらっぽい笑みでシェリアを抱きしめるレンを指した。
「ああいう男は?」
「ああ……訂正します。ああいう男は無理でしょう。でも……たいていの男ならいけそうなくらい、美人ですよね」
シェリアが美人だからということを差し引いても、レンはシェリアを大切にしているように見える。そうでなければ、子どもができたと聞いて、あんなふうに喜んだりはしないだろう。
はた目からみても、幸せそうな夫婦だ。
そして、レンはきっとシェリアより美しい女がどれだけ媚びを売ったとしても、決して揺るぎはしないだろう。もちろんその逆も然りだ。
「ありがとう。でも私が必要としているのは一人なの。私は何があっても彼と子を成さなければいけない」
強い覚悟を持った言葉だった。しかし言外に愛は要らないといっている様子が、私はなんだか寂しかった。私にはわからないことだけれど、彼女は何か大きな責任を背負う立場の人間なのだろう。だからこそ、彼女にとって子どもの存在とは、必ずしも幸せの具現とは言えないのかもしれない。
「新たな客人ね」
紫薇が突然そういうと、じゃれあっている夫婦の向こう側にある窓を見た。するとその窓が光を帯びてそれを一気に放出する。
この人は占い師みたいだな。と私はそんなことを思ってしまった。
気配が察知できるというのは、いったいどこまでを対象としているのやら。
何はともあれ、お約束の振動とともに降ってきたお客様は、今度は一人の女性だった。小柄で目がぱっちりとしていて、かわいらしい女性だ。
ああ、今日は目の保養になるような女性がわんさか湧いてくる。
そしてこの子は、通常のお客様らしく、窓から放り出されるようにして宿の中に飛び込んでくると、ばたりと床に投げ出され無様に転がった。
今日の三人のように、華麗に着地するのは、やはり普通ではないのだ。
「うそ……ここどこ?」
どうにか体を起こした女性のもとに、幸せいっぱいの夫婦が駆け寄った。
「大丈夫?」
「けがはない?」
少女は、急に現れた二人の美形を前にして、少し混乱した様子だった。しかしどうにか自力で立ち上がると何度もこくこくと頷いて大丈夫だと伝える。
そして私は例のごとく、彼女に説明をした。すると彼女はその内容に承諾し、宿泊名簿に名前を書く。
尋ねてみると、彼女の名前はシフォン・アンソニーというらしい。
彼女は少し悩んだ後に、シェリアとレンの向かい側に腰かけた。私と話していた紫薇はシフォンの隣に座り、四人は向かい合って座る形になる。
「シフォンは普段は何をしているの?」
シェリアはどうやら好奇心旺盛な性格らしい。さきほどの紫薇への質問のみならず、シフォンへも先頭をきって質問する。
「私は先日、魔法士として認定されました」
「魔法士として認定?」
「試験があって、それに合格すると国家に雇われるんです」
「国に……へえ、おもしろいのね。でもそれは軍隊とは別物なの?」
「はい。治安維持もしますが、主に公共事業に駆り出される事のほうが多いです。たとえば公共の建物の修繕であったりとか――」
シフォンが話し終える前に、紫薇が突然、シフォンの腕を思い切りつかみ自分のほうに引き寄せた。シフォンの体が椅子から持ち上がって、紫薇に引かれるまま移動した次の瞬間、天井に穴が開いて、一人の青年が降ってきた。
「ventus!」
青年が落ちながらも叫ぶと、青年の体を下から支えるように風が吹いた。しかしそれでは青年の体は支えきれず、彼はシフォンが先ほどまでいた位置に落下する。
「ヴィクターじゃない!」
紫薇にかばわれていたシフォンはそういうと、床に転がった青年に駆け寄った。そして彼に手を伸ばした。青年は一瞬ためらったが、シフォンの手を取って立ち上がる。
彼はあたりを見回した後、明らかに異国人である紫薇のところで視線を止めた。しかしすぐに視線をシフォンに戻すと、ありがとうと礼を言う。
すると、そんな青年の行動にシフォンはなぜか声をあげて笑い、おかしくてたまらないといった表情を見せた。
「何がそんなにおかしいの?」
笑い続けるシフォンに、シェリアは不思議そうに問いかけた。するとシフォンはくすくすと笑いながら、小さく首を振って言う。
「少し前までは、ヴィクターがお礼を言うなんて考えられなかったんです。私たちは宿敵で、ヴィクターはけっこう意地悪だったから」
「おい! 初対面の人に言うことかよ」
「いいじゃない。本当なんだから」
ヴィクターは怒った様子で言うが、シフォンは全く気にならないといった様子で笑いながら彼をなだめた。そんな二人は、宿敵というよりは、同士という感じがする。
シェリアとレンは、シフォンとヴィクターを見て何か思うところがあったようだった。二人は顔を合わせると、ふっと笑って言った。
「なんだか、アベルとマリエみたい」
「アベルも素直じゃなかったからね……」
私は一連の流れをぼんやりと眺めていたが、自分の仕事を思い出して、ヴィクターに話しかけた。そして今まで何百、あるいは何千回と繰り返してきた説明をする。
「それ、宿泊名簿に名前を書いたら、三日より早く戻ることはできないんですか?」
先ほどもしたが、”中庭”についての説明をし終えると、ヴィクターはシフォンのほうを見た。
シフォンは”中庭”の話を聞いて、とても興味深げに”中庭”へと視線をちらちらと向けている。どうやら彼女は”中庭”に挑戦したいようだ。
「シフォンは名前、もう書いたのか?」
ヴィクターの声に引き戻されるようにして視線を戻したシフォンは、一度うなずいて答えた。
「書いたけど……」
「そうか」
ヴィクターはそれだけを聞くと、私のほうに近づいてきて、迷いなく宿泊名簿に名前を書いた。そしてそのままシフォンに近づくと、彼女の腕をつかんだ。
「ヴィクター?」
「最奥に出口があるんだろ? いくぞ」
「……うん!」
どうやら二人とも”中庭”の制覇に興味を持ったらしい。最奥にたどり着くことのできる者はあまりいないが、この二人なら大丈夫かもしれない。
「三日なんてすぐなのに……」
シェリアがシフォンにそういうと、彼女はいえ、と明るく笑って言った。
「挑戦できることには挑戦したいんです。そうしないと気が済まないので」
向上心が高いのは素晴らしい。
私は向上心なんてないに等しいので、ああいう子を見ると羨ましいような、尊敬するような、ちょっと妬ましいような気分になる。
私はふと、そんなシフォンを優しいまなざしで見つめるヴィクターに気が付いた。彼はきっと、シフォンのことを大切に思っているのだろう。口は悪くとも、彼女のことをよく見ている。紫薇に言われなくとも、ヴィクターの気持ちは簡単に察せられた。
「足引っ張るなよ、シフォン」
「そっちこそ!」
とはいえ、まだまだ二人が自然と横に並ぶのは先のことなのかもしれない。あるいは、付き合っていてもこういう距離感の二人なのかもしれない。
私は”中庭”へと去ってゆくシフォンとヴィクターを見ながら、そんなことを考えた。
そして私はいつものように、客人に出すための食事を作るべく、厨房へと向かった。
三日というのは思っているよりも早くやってくる。厳密には二泊三日であるため、二回眠っただけで客人の滞在時間は終わるのだ。
シェリアとレン、そして紫薇は、まったくもって”中庭”に興味がないらしく、のんびりと子の宿屋で過ごしている。そして三人の滞在時間が、あとわずかになった時のことだった。
がたがたと音を立てたのは、二脚の椅子だった。
紫薇はもうこの三日でだいぶ慣れたらしく、新たな客人の登場にさして過敏な反応はしない。
椅子を突き上げるようにして床から飛び出してきたのは、一組の男女だ。二人は華麗に床に着地すると、あたりを見回した。
一人は黒髪に深い緑色の美女。もう一人は赤銅色の髪と瞳の青年だ。私はその黒髪の美女を見た瞬間、シェリアをまじまじと見つめてしまった。
現れた彼女は、彼女の姉妹かと思うほどよく似ていたのだ。
「これは……」
最近は新しい客人に過敏な反応をしなかった紫薇も、何かに気が付いたように目を大きく見開いている。
シェリアとレンは、新しい客人二人に気が付いてそちらを見ると、少しだけ驚いたようだった。しかし周囲が思っているほどは過剰な反応はしなかった。似ている、そう思いはしたものの、そんなこともあるかもしれないと思ったようだった。
「シェリアに似てるな……」
新しい客人二人は、そんなレンのつぶやきを拾い、シェリアとレンのほうを見た瞬間、絶句して固まってしまう。
私には何が起こっているのかさっぱりわからなかったが、まずは説明しなければ、と思って前に進み出た。そして二人にこの宿屋についての説明をする。
「いや……それにしてもシェリアに似てる。それに、アベルにそっくりだ。名前を聞いても?」
「あの……いえ。私はレンティと呼ばれています」
「俺はロイです。あの……お二人のお名前を伺っても?」
「レンだよ。彼女はシェリア」
レンの名乗りを聞いた瞬間、レンティと名乗った女性は、食い入るように二人を見つめた。彼女は何かを訪ねたそうに口を開きかけたが、しかし言葉にはならない。そんなレンティの様子を見ていたロイが、恐る恐るといった様子で問いかける。
「お二人は……夫婦なんですか?」
「ええ。今……一人目の子もここにいるの」
「!」
幸せそうに言ったシェリアの言葉に、ロイとレンティは分かりやすく反応した。しかしレンティはさっと表情を切り替えると、愛想よく微笑んで言った。
「おめでとうございます。その……お幸せそうで何よりです」
「そう見える? それはきっとレンのおかげね」
シェリアはそういって微笑むと、レンは少しだけ目を開き、しかし幸せそうに彼女に向かって微笑み返した。二人は意外なことに、ロイとレンティの様子がおかしいことには気が付いていないようだ。
紫薇は何か思うところがあるのか、そっと宿泊名簿のある受付カウンターへと歩いた。私もまた受付まで行き、紫薇にどういうことかとそっと尋ねてみる。
「レンティと言った子……あの子、シェリアとレンの娘よ。しかも……今シェリアのおなかの中にいる子と同一人物」
「……え?」
「この世界はすべての時間と交わる場所。未来と過去も交錯する。あり得ない話じゃないわ」
「つまり、レンティは若かりし頃の母親にあって混乱している?」
「いいえ。そうではないはず。あの反応は……死んだ人間にあったかのような反応だわ」
「まさか……」
ロイとレンティがどの時間軸から来たのか、私にはわからない。ただ紫薇の言うことが正しいのならば、シェリアとレンは、あの幸せそうな夫婦が崩壊する時が近いということだ。
私はお客様にとっての現に干渉することはできない。
だから、あの二人がもとの世界に帰って、どうなるのか、気にかかったとしても何もできないし、私はきっとこのこともすぐに忘れてしまうだろう。
しゃらりと鈴の音が響いた。
時間だ。
シェリアとレンの体がふわりと光に包まれた。お客様が帰るときは、いつだって突然だ。名簿に名前を書いてくれていて、時間が分かっていたとしても、その別れの瞬間は突然に訪れる。
だからこそ私は、笑顔でこういうのを忘れない。
「ありがとうございました。今を大切に、生きて行ってください」
「ありがとう。楽しかった。あなたも、紫薇も元気でね」
「ありがとう」
シェリアとレンはそういって私たちに挨拶した。紫薇はさっと二人に近づくと、茫然としているレンティの背を軽くたたいた。
「言いたいことがあるなら、言わないと」
背をたたかれたレンティは、シェリアとレンの目をそれぞれ見つめた。そして、すっと息を吸って笑顔で言う。
「幸せになってください!」
その言葉と同時に、ふっとシェリアとレンの姿が消えていく。そして光の奔流が渦を巻くようにして二人のいた位置に収束してゆく。
「ありがとう、レンティ」
光がはじける直前、シェリアの声がその場に響いた。
その声を聴いた瞬間、レンティはその場に崩れ落ち、そしてつぶやいた。
「お母さん……お父さん……」
私には、彼女の叫びに含まれる悲しいは到底理解できないだろう。
私にとっては出会いと別れは、常に身近に在るものである。それに死別に別段、感じるものもない。私は一度別れたら、それは死に別れるのとほとんど同義である。二度と会わないのだから。
でも二度と会わないのと、死んでしまうということは、天と地ほど違うことなのだと誰か、どこかのお客様が言っていた。
「私もそろそろ……かしら」
「そうですね」
「ねえ、あの二人に、最高の三日間を、提供してあげてね。それはきっと――」
紫薇はそういうと、片目をつむった。彼女の体は光に包まれ、そして、消えてゆく。
「――意味のあることだから」
繰り返す日々は永遠と続いていくように思える。まったく代わり映えもなく、続いているようにも。
しかし全く同じことは人生で一度たりとも起こりえない。たとえどれだけ似ていても、それはやはり別物なのだ。
「さて、お名前を書いて三日間滞在されますか? それとも出口を探されますか?」
だからこそ、私は私の仕事を続けていく。
願わくば、この繰り返しが誰かの幸せの一助になることを祈って。