3.真実を求めて
「約束……証……」
燭台の灯りに照らされた部屋の中で、ルナはぼんやりと呟いた。
月明かりが眩しい森の中、そこで出逢った美しい青年。そして、この銀の指輪――
失われた欠片が一つ一つ集まり、形を成していく。
――何処で拾って来たの?
――木の上にいた男の人がくれたのよ。
――まぁ、ルナったら。きっと鳥が何処からか咥えてきて、落としてしまったのね。
この指輪は母に貰ったものだと思い込んでいた。しかし、そうではなかったことが徐々に思い出されていく。
――あらあら、また落として……まだ大きいから紐に通してあげるわね……。
まだ幼いルナには大きすぎてすぐに指から抜け落ちてしまい、その度にしゃがみ込んでは大事そうに拾っていた。それを見かねた母が、紐に通して首にかけてくれたのだ。
(どうして忘れてたの、こんな大事なこと……)
指輪をはめた手の震えを、もう片方の手で包み込む。
(これは、あの人がくれたもの……そして……)
木の上の青年……あれは間違いなく彼だわ――
そう言い切れるのは、記憶の中の青年とハディスの間には、十数年の時の隔たりがある筈なのに、その容姿は全くと言っていいほど変わっていないからだ。思い出した瞬間、まるで前世の恋人を思い出したかのような衝撃が胸の内を駆け抜けたが、それと同時にルナの視線は自然と先程の紙片へと注がれる。
真実を知りたければ――
耳の奥で、カイの声がそう囁いた。それを合図に、疑問が次々と溢れてくる。
もしかして迎えに来たの? もしそうなら、どうして言ってくれないの?
私が忘れてたから、怒ってるの……?
胸の前できゅっと繊手を組み、ルナは覚悟を決めた。
テーブルの上に置かれた燭台の炎に、手紙をさっと焼べてしまう。昂然と顎を反らし、しっかりと前を見据えた。ドレスの裾が足に纏わりつくことも厭わずに、足早に窓辺へと駆け寄り、勢いよく窓を開け放つ。
夜明けにはまだ遠く、辺りは闇一色に染まっている。ただ、天上の月だけがひたすら眩しく、ハディスの生きる夜の世界をうっすらと浮かび上がらせている。
遙か眼下に巣食う闇は、両手を広げてルナが来るのを今か今かと待ち構えている。途中で救いの手が差し伸べられなければ、そのまま地の果てへ真っ逆さまだ。受け止めてくれると手紙にはあったが、出会ったばかりの彼を果たして信用して良いものかと訝る。
(でも、もし私を殺したいのなら……)
こんな迂遠な方法をとる必要はないのではないか。魔物である彼にとって、ルナを殺すことは簡単だ。顔を合わせた瞬間に殺されていても、おかしくはなかった。でも、彼はそうしなかった。
(迷ってなんかいられないわ――)
心に再び迷いが生じる前に、ルナは勇気を奮い立たせて夜の世界へと一気に旅立った――
ばさっとくぐもった音をたててドレスが風に煽られ、そのまま急速に落下する。激しく風が吹き上げるが、少しもルナを持ち上げてはくれない。支えを失った恐怖に意識が飛びそうになり、指輪を強く強く握り締める。
「本当に飛び降りたのか」
耳元で呟く声があり、ルナははっとなって閉じかけていた瞼を開いた。勢いよく落下していた身体が、ふわりとすくい上げられる。
状況を確認しようと顔を上げた瞬間、紅い目と視線が合った。
「きゃあっ」
「……人の顔を見て、きゃあ、はないんじゃないか、お姫様?」
「え、あ――」
ルナは漸く自分の置かれた状況を理解する。闇の狭間を漂うようにして浮いているカイの腕に、力強く抱きとめられていたのだ。
「あ、ありがとう……」
「飛び降りろと言った俺に、礼を言うのか?」
それでも、とルナは息を整える。
「飛び降りたのは私の意志よ」
琥珀色の瞳が射るようにカイを見据え、紡いだ言葉に真実味を与える。誰に言われたからではない。真実を求めて、自らの意志で塔の窓から飛び立ったのだ。
「守られるだけのお姫様かと思っていたが……」
唇を楽しげにつり上げ、ルナの脇腹にまわしていた手に力を入れる。
「ちゃんと掴まってろよ。次は拾ってやらん」
「え? きゃ――」
身体がほんの少し沈み込んだかと思えば、カイはルナを抱いたまま空高く飛翔した。黒いマントが蝙蝠の羽のように風を切り、星々の合間を凄まじい速さで飛んでいく。
唸る風にかき消されないように、ルナは語気を強めて訊いた。
「お願い、教えて。真実って何? 何を隠してるの!?」
「……その目で見るんだな」
それきり、彼は何を尋ねても答えを返さなくなってしまった。
カイが空を一つ蹴る度に、景色が目まぐるしく変わった。そして、どれだけの距離を飛んだのか、カイは密集した森林地帯へと緩やかに降りていき、形の良い適当な木の枝に着地した。着地の衝撃は殆どなく、ただ僅かに枝をしならせ葉を散らせた。
目的地に着いたのかと、周囲に目を配らせたルナの瞳が、あっ……と見開かれる。
「ここは――」
乱立する樹木、重なり合った枝葉の隙間から洩れる淡い月明かり。
ありふれた景色だが、この地に慣れ親しんだルナには分かる。
「西の森……西の森だわ!」
ルナの生まれ育った家の裏手に広がるウェッダの森を、村人はそう呼んでいた。そして記憶が正しければ、ここから森の出口まではすぐだ。
「お願い、下へ降ろして」
懇願するように言うと、カイは何も言わずに地に降り、ルナを解放してくれる。自由になったルナはすぐに辺りを見回し、ああ、と歓喜に震え口元を手で覆う。記憶が導くままに、村のある方へと駆け出した。
(お父さん、お母さん、マルス、みんなっ――)
息を弾ませながら、ルナは村を目指して必死に森の中を突っ切って行く。木の枝がドレスのレースを破いてしまっても、気にせずに走り続ける。すると、記憶の中にある通り、目の前に森の切れ目が見えてきた。
「な……に……」
青ざめたルナの唇から、漸くその二音だけが零れ落ちる。
森を抜けたルナは、凍りついた表情で目の前の光景を見た――
「嘘……嘘よ……」
家があった筈の場所に家は無く、それどころか村すら無かった。
白々とした月明かりに照らされ、乾いた大地が黒く視界を埋め尽くしている。家屋の残骸と思われる瓦礫の山があちらこちらに点在し、辛うじて形を留めている家はあっても、皆一様に廃家と化している。
「いいか、これが真実だ。お前の帰りたかった村はもうない」
現実をはっきりと告げたカイの言葉が、深く心に突き刺さる。
「どうして……こんな……」
「馬鹿だね――」
すっと隣に現れた影が、ルナの肩に手を添えて言う。
「ずっと囚われのお姫様でいれば良かったのに、真実を知ろうとするなんて……」
(――!?)
声のした方を振り向いたルナの瞳が、驚きに瞠られる。
「ハディス……?」
青ざめた顔のまま名を呼ぶと、ハディスは目を細めて淋しそうに微笑んだ。
カイの方を振り返り、涼しげな佇まいに冷たい怒りを纏わせる。
「カイ……何故、ルナをここへ連れてきた?」
「何故?」
カイも負けじと声に怒気を含ませる。
「お前の目を覚まさせる為だ。お前はルナを馬鹿と言ったが、馬鹿はお前の方だ。この娘の血がどれだけ危険か分かってる筈だ。なのに――」
「危険? 危険って何?」
「知る必要はないよ」
ハディスは冷たく突き放す。
ルナは顔を上げ、真っすぐハディスを見た。
故郷の凄惨な光景を目の当たりにし、色を失った顔。けれど、その瞳に揺るぎない意志を宿してハディスに迫る。
「お願い、教えて。何を隠してるの?」
「ルナ、これ以上――」
「私はまだ何か忘れてるの?」
ハディスははっとなって、答えを待つルナの瞳を見つめた。
ルナの心を透かし見て、夜気で冷たくなった頬にそっと手を添える。
「思い……出したのか……」
頷く代わりに、ルナは薄く笑みを返した。
顔が青白いのは月明かりのせいではない。それでも、想いを告げるようにルナは出来得る限りの笑みをハディスに向ける。
「ルナ――」
愛しさを籠めて名を呼んだ彼の声が、しかしふいに緊張を孕んで途切れた。
「話は後にしよう……」
え、とルナが尋ねようとした時。
辺りに淀んだ空気が立ち籠め、ルナの背筋をぞくりとさせた。
「やっとお出ましか、勿体ぶりやがって」
カイが分かったような言葉を吐く。
心臓をわしづかみされたような不快感に、ルナは全身を強張らせた。
(何……この感じ……どこかで――)
「出てきたら?」
ハディスが闇に向かって冷やかな声を投げると、くくく……と押し殺したような笑い声と共に、その男は忽然と闇の中から姿を現した。
異様な程白い長衣が目を引いた。冴え冴えとした青銀の髪を鬱陶しげもなく頬にかけている。くせのない細い髪の合間から覗く顔は端整だが、研ぎ澄まされた刃物のような美しさだ。
男の正体を知らしめる紅い瞳が意味ありげにルナを見やり、その這うような視線にルナは唇を震わせた。
「私……知ってる……」
そんな言葉が考えるよりも早くルナの口を衝いて出た。記憶はないのに、身体は鮮明に目の前の男を覚えている。
「知ってる、とは。随分とつれないことを言ってくれますね。私とあなたは、まごうことなき血の絆で結ばれているというのに」
「血の……絆……?」
「ルナ、耳を貸す必要はないよ」
窘めるように言い、ハディスがすっと一歩前に出る。男は愉快そうに喉の奥で笑った。
「また邪魔立てする気ですか?」
(また……?)
引っかかりを覚え、ルナの心がざわつく。
男から隠すようにして立つハディスの背中。煌めく月光を纏いつかせた長い白金の髪が、風の軌跡を描いてさらりと靡く。
目にしているものが現在なのか、それとも過去の残影なのか、ルナは一瞬判断がつかなくなった。
(前にも、こんなことが……あった?)
「我が花嫁を攫っておいて、騎士気取りですか……」
(え――?)
男は自分の放った一言がルナの興味を引いたことを分かってか、声音を甘やかなものへと変え、ハディスの背後へと言葉をかける。
「ルナ、その男は私からあなたを奪った憎き者なのですよ」
「何を言ってるの? ……あなたは誰?」
男は笑みを湛えたまま、静かに答える。
「私はシファール」
「シファール……?」
「ルナ――」
ハディスの制止を無視して、ルナはのろのろと進み出た。
震えを必死に抑え込んで対峙するルナを見て、シファールは不快気に眉根を寄せる。
「ああ、大分薄れてしまいましたね。我らの絆を断とうとするなど、実に許し難いですが――」
言いさし、愉しげに口の端を引き上げる。
「その男が愚かしい行為を繰り返す様は、中々愉快でしたよ」
シファールに跳びかかろうとするハディスを、カイが腕を引いて止める。
「っ、カイ――」
「ルナは村の惨状を知ったんだ。もう何も隠す必要はないだろう?」
カイの言葉に、一つの真実がルナの脳裏を掠めた。
「じゃあ……私を城に閉じ込めたのは……?」
カイに腕を掴まれたまま、ハディスは沈鬱な面持ちでルナを見る。ルナの眦に雫が浮かんだ。村を失った悲しみと、それを知られまいとしたハディスの想いに、胸の奥が熱くなる。
「我らは生き血を糧に永劫の時を生きます。中でも、人間の血はとりわけ甘美です」
見つめ合う二人を見て、シファールは低い笑声と共に言う。
「そんな我らにも、避けなければならない血があります。同族の血……それだけは禁忌なのです」
(禁忌――)
カイも前に言っていた、同族の血は禁忌だと。しかし、それが何だと言うのか。そんなルナの疑問を見透かしたように、シファールは訊いてきた。
「何故、禁忌だか分かりますか?」
「……分からないわ」
ルナは怖れを包み隠して答える。シファールはくつくつと笑った。
「毒なのですよ、自分以外の同族の血は。触れただけでも、不死の身に多大な損傷を与えます。つまり、あなたの血はその男の命を奪いかねないのです」
(私の血がハディスを殺す? そんなの――)
「ありえないわ。だって私は……」
「人間、ですか?」
シファールがルナの言葉を攫い、嘲笑も露わに言う。
「感じませんか? あなたの身体に息づく吸血鬼の血を」
シファールの言葉に反応して、どくん、と鼓動が跳ねた。
(何……気持ち悪い……)
「ルナ!」
「思い出しませんか? あの甘美な瞬間を――」
シファールが近付いて来る気配に、ルナははっと顔を上げた。
血に濡れた紅い瞳、愉悦に歪んだ唇、その僅かな隙間から零れ落ちる白い牙――
「いやっ――」
ルナは両手で顔を覆って震えた。記憶の奥底に封じ込めていた光景がまざまざと蘇り、ルナの視界を支配した。
(そうだわ、あの時、私はこの男の牙にかかって、無理矢理この男の血を飲まされて――ああ、でも、それよりも――)
「あなたが、あなたが村をっ!」
ルナは渾身の力を振り絞って叫んだ。
「どうして、どうしてなの!?」
「私の手にかかり、無残に死んでゆく者の断末魔は、どんな楽の音よりも心地良い」
紅い瞳が狂気に彩られ、生気のない白い腕がルナを引き寄せる。
「いや、放して!」
「ルナ! ――手を放せ、カイ」
鋭い視線で威圧するが、カイはどこ吹く風だ。
茶番としか映らない光景を一瞥し、シファールは腕に抱いたルナの耳朶に甘く囁く。
「さて、そこの男のせいで吸血鬼化が中途半端となってしまいましたが……今度はじっくりと時をかけて、血の儀式を執り行ってさしあげましょう」
「ハディスの……せいって……?」
「その男は、毎夜あなたの血を吸っていたのでしょう? 私の血を飲んだことで吸血鬼へと変化しつつあるあなたの血を。愚かにも、その男はあなたの中に流れる私の血を吸い出すことで、吸血鬼化を抑え、あなたを人間に戻そうとしていたのです」
「嘘、そんなことしたら……」
がくがくと身体を震わせるルナに、シファールは容赦なく告げる。
「私の血に犯されたあなたの血は猛毒です。冷静を取り繕っているようですが、相当に弱っているのが見て取れますよ?」
(そんな――)
シファールの腕の中でルナはもがくように身をよじり、ハディスを見る。
「ルナ、心配ない。私は――」
「そういうことは、俺の腕を振りほどいてから言ったらどうだ? 本来のお前は、あんな吸血鬼に負けない力を持っている。実際、難なくあの娘をかっ攫って来たんだからな。だが、今のざまは何だ?」
くっ……とハディスは唇を噛みしめた。今も必死にカイの拘束を解こうとしているが、思うように力が入らない。
「あの娘を殺すことは俺も本意じゃない。無闇な殺生は嫌いだ。だが、あいつは花嫁にしてくれると言うんだ。殺されはしない」
犬歯を覗かせて笑うカイを見て、ハディスは彼の真意を理解する。
ルナの血に含まれていた、シファールの血。それを媒介に、シファールのみが近付くことが出来ないよう、城には強固な結界を施していた。だから、カイはルナを城から連れ出した。それも、ハディスが諦めるよう自ら出て行くよう仕向けて。一度城から出てしまえば、シファールがルナの元へやって来ることは必至だ。カイは、ハディスが手を出せない状況を作り出した上で、ルナを渡してしまうつもりなのだ。
「カイっ!」
一喝するが、カイの手が緩むことはない。
各地を転々とし、時折思い出したようにハディスの城に顔を出す彼とは、実に二百年来のつきあいだが、友達思いの熱い一面があった。
「さぁ、ルナ。我が花嫁よ。参列者もいることです、我らの婚儀を始めるとしましょう」
「いや……っ! どうして私なの!?」
ルナの訴えに、シファールは牙を完全に穿つ寸前で顔を上げた。
「私を好きなわけでもないのでしょう? そんな私をどうして花嫁にするというの!?」
シファールは笑った。ひどく愉しげに、咽ぶように嗤笑した。ルナの顎を指先で持ち上げ、
怯えながらも決して屈することのない、琥珀色の瞳を覗き込む。
「愛していますよ」
(!?)
思いがけない言葉に、ルナの目が大きく瞠られる。
「私は死にゆく者の断末魔が好きです。しかし、死んでしまっては、それ以上私を愉しませてはくれないでしょう?」
「何を言って……」
「村一つを滅ぼしたとて、覚えている者がいなければ興が冷めるというもの」
シファールの爪が嬲るように頬を撫で、ルナの背筋を悪寒が走る。
「村の惨状を、あなたはもう忘れないでしょう? 私の血を受けて不死の身となれば、その悲しみは永遠に失われることはない。私はそんなあなたを見ていたい」
男の狂気にあてられ、ルナはくらりと目眩を覚えるが、必死に自我を保とうとする。
「ああ、その目です……絶望して逃げまどう者たちの中で、あなただけが私を強く睨み据えていた。愛する家族の亡骸を胸に抱きながらも、その瞳は射抜くように私を見ていた。悲壮を湛えた瞳は、私をこの上なく甘美な気分に浸らせてくれます」
男はうっとりとした表情で言う。
「そんなあなたを、私は愛することが出来るのです」
「く……狂ってるわ……」
「そうかもしれません。ですが、無為に過ぎ行く時の中で私が歓びを得るのは、狂気に酔いしれているこの瞬間だけなのですよ」
シファールはうっすら微笑んだ。その微笑はルナの心を一瞬とらえたが、考えるよりも先に行為を再開され思考は霧散する。首筋に落とされた冷たい唇の感触に、いよいよ逃げられないと悟り、ルナはぎゅっと目を瞑った。
だが次の瞬間、シファールはルナを抱いたまま後ろへ飛び退った。
突然のことにルナが悲鳴を上げると、目の前を白金の髪が流れた。伸びてきた手がルナの腕を掴み、シファールから引き剥がすようにして強く抱き寄せる。
「ルナ――」
表情の乏しい顔が心配そうにルナを見ていた。
「ハディス……?」
その名を唇に乗せた瞬間、ハディスは地面を蹴って高く跳躍した。風が凄まじい速さで下へ下へと流れて行き、ルナはぐっと息を殺した。
大きな月が間近に迫り、激昂するシファールの声とカイの叫ぶ声が遙か下から聞こえた。
それらを無視して、ハディスは瞬く間に森の中へと姿を隠し、ルナを草の上に降ろした。
(ここは――)
満天の星空、その下に広がる大きな湖面にも、同じように輝く夜空があった。
「ルナ、すまない……」
「何を謝るの?」
「そなたの血が流れたことに気付いて駆けつけた時には、既に村は失われた後だった。何故、もっと早くに気付けなかったのか……」
そんなこと、とルナは訴える。村のことで彼に辛い想いをさせてしまっていることが、何よりも辛かった。
「連れて行かれそうになるそなたを、私はあの男から奪い去り城に連れ帰った。記憶を失っていることを知ってからは、真実から遠ざけることで私はそなたを守ろうとした。だが、私はただルナを側に置いておきたかっただけなのかもしれない」
ルナの手をとり、その指にはめられた指輪をそっとなぞる。
「そなたは、これを母から貰ったものだと言っていた。……悲しくはなかったよ。子供の頃の記憶など、いずれ消えてしまうことは分かっていた。だから私はあの時、そなたを仲間にしようと考えた」
見上げるルナに、彼は儚げに微笑んだ。
「同じだよ、あの男と。私は同じことをしようとした。私に向けられたその穢れのない瞳、私を一人にしたくはないと言ったその純粋な心……それら全てを閉じ込めて、永い夜を共に生きてほしいと、私は思ってしまった」
「でも、あの時……あなたは……」
「そう、出来なかったよ。こんな呪われた身に、そなたを堕とすことの罪深さを思えば。だから、代わりにその指輪を贈った。約束を覚えていたなら、花嫁として迎えに行く、と」
切なげに目を細めながら、永い時を生きる者にとっては、ほんの少し前にしか感じない日のことを彼は思い出していた。
「忘れられてしまうと分かっていながら、それでも私は約束が欲しかった。十数年の年月など、私にとっては瞬くほどの時間だが、そんな僅かな時間でもいい。ただ無情に流れていく時を、あの娘は約束を覚えているだろうか、例え忘れても思い出してくれるのではないか。そう思いながら過ごすことが出来ればと、私は願ったのだ」
琥珀色の双眸から零れ落ちた雫を、彼はそっと指ですくった。
「何故、そなたがそんな顔をする」
あの時と変わらない声と調子で、ハディスは同じことを言った。
終わりなき旅に疲弊した顔はとても優しくて、それで余計に涙が溢れてくる。
「そなたは何も変わっていないな。穢れのない瞳も、その純粋な心も」
ハディスは安心したように微笑むと、ついと視線を上げて夜空を見た。その目は先程までの優しさを失い、鋭く虚空を睨んでいる。
「ハディス……?」
「あの男が近付いてくる」
さっと顔を青くしたルナを、ハディスは胸に抱き寄せる。
「ルナ、心配はいらない。必ずそなたを守る。私は魔物だから神ではなく、私たちを引き合わせたあの天上の月に誓うよ」
ハディスの強い優しさに包まれ、ルナも彼の身体を抱き締め返す。
「ごめんなさい……」
平然を装ってはいるけれど、元々弱っていた上にルナを助けてここまで飛んできたのだ。
相当に力を消耗している筈だ。
(私に力があれば……)
そこでルナははっと顔を上げた。
ルナの思い詰めた表情に、ハディスは心配げに頬を撫でた。
「どうした?」
(そうよ、私にも出来ることがあるわ……!)
「ハディス、お願いがあるの」
ルナは琥珀色の瞳に力を籠めて、その願いを口にした。




