2.月夜の邂逅
「気をつけるのよ」
「ありがとう、お母さん。行ってくるわ」
元気よく告げ、ルナは獣よけの香り袋の入った小さな籠を手に、家の裏手に広がる西の森へと向かった。月明かりを頼りに草木の生い茂る森へと入り、確かな足取りで進んでいく。
狼の遠吠えが聞こえてくるが、香り袋の効果でその鳴き声が近付いて来る気配はない。
鬱蒼としていた森が開け、星の瞬く夜空を映し込んだ湖が視界一杯に広がった。
わあ、とルナは口元を手で覆う。初めてここを訪れた時も、その光景の美しさに心奪われて息をすることすら忘れてしまった。
足元に黄色い花がところ狭しと咲いている。見た目には小さく頼りない花だが、これらの花弁を煎じることで万病を治す薬となるのだ。
ルナは手に提げていた籠を下ろし、その中に黄色い花を摘んで入れていく。
「――人間の娘か」
「誰!?」
唐突に人の声がし、ルナはぱっと背後を振り返った。立ち上がって辺りをきょろきょろと見回す。首を傾げたところでまた声がした。
「上だ……」
そう言った声は本当に上から聞こえたので、ルナは慌てて空を振り仰いだ。
月の光がたゆたう水面に色濃く影を落とす木の上に、声の主と思われる青年はいた。
太い幹に背中を預け、張り出された枝に軽く膝を立てるかたちで足を伸ばし、優美に腰かけている。白金の髪がさらさらと夜風に流れ、月の光に照らされて青白く見える横顔は、村の教会に飾ってあった天使画から、この現世へ抜け出したのではないかと思うほど美しい。
けれど、天使と違いその瞳は仄かな紅い光を帯び、儚げな容姿に艶美な魅力を添えている。
「わぁ……」
きれいな人――
月光を紡いだ髪と、紅玉のような瞳に心が攫われる。
「何をしてるの……?」
青年の紅い瞳がじっとルナに注がれる。僅かな間をおいてから彼はつと視線を上げた。
「月を見ている」
その視線を追って、ルナも同じように夜空を見上げた。
丸いお月さまが静かに湖面を見下ろしている。
「月は好きよ。あなたも月が好きなの?」
子供らしい無邪気な笑みを浮かべて訊くと、青年は眉ひとつ動かさずに答えた。
「好きなわけではない。他に愛でるものがないだけだ」
ルナは小鳥のように小さく首を傾けた。
「月が嫌いなの?」
「別に嫌いではない」
沈黙が落ち、その隙間を満たすように風が吹き抜けた。水面が煽られ、湖面の月が歪み、再び静寂が訪れる。
青年はルナのことなど気にせずに月を眺めていたが、ふと思い出したように視線を落とし、僅かに表情を変える。
ルナはまだそこにいた。
素っ気ない態度をとられれば、誰しも興味を失い去って行くものだが、ルナはそんなことを思い付きもしなかった。無邪気な笑みを崩さずに青年の言葉を待っていると、その態度に根負けしたのか、静謐な夜の空気を纏ったような凛とした声が降ってきた。
「そなたのような子供がこんな夜更けに……魔物に襲われてしまうよ?」
「まもの……?」
「そう……鋭い牙を持ち、人の命を喰らう」
ルナは大きな琥珀色の瞳をぱちりとさせ、それからにっこりと微笑んだ。
「平気よ。これがあれば狼だって近くに来られないわ」
ルナは、母親に渡された香り袋を持ち上げて見せた。
「獣よけか……。だが、本当に恐ろしい獣には効かないようだね」
言われた意味が分からず、ルナは首を傾げる。
その様子に、青年がふと笑ったように見えた。
「――近くで見るとなお小さい」
次の瞬間、目の前にいた。
「きゃあ!」
ルナは驚いた拍子に尻もちをついた。
瞬時に目の前に移動した青年を上から下まで流し見る。ルナはまだ幼いが、そんな芸当が出来る人間がいないことくらいは分かる。
「私は魔物だ。こんなことは何でもない」
「まもの……?」
再び問うように呟くと、青年は自嘲気味に言う。
「人の血を喰らう化け物、と言えば分かるか?」
化け物……その言葉はルナにも理解出来た。それでも、今目の前にいる青年がそんな恐ろしい存在とは思えない。月光を従えたような姿は美しい。しかし、そう思ったのはその美しさ故ではなく、その洗礼された美しさの影に隠れているものを、子供の感性で敏感に感じ取っていたからだった。
それが何なのかはっきりとは理解できなかったが、ルナは無意識のうちに訊いていた。
「泣いてるの……?」
静かな間があった。
青年は眉を顰めた後、涼やかに問う。
「その目は硝子玉か?」
「ううん、違うわ」
ルナは首を横に振る。
冴え冴えとした顔には一筋の涙も見えない。なのに、深い悲しみだけは伝わってきて、ルナの心は沈んでいく。
「薬草を摘みに来たの」
沈む心を浮上させたくて、ルナは不自然に話題を変えた。青年の言葉を待たずに続ける。
「湖の周りに咲いてる黄色い花が、み~んなそうなのよ」
無理に笑みを作って得意げに話すルナの瞳を、青年はひたと見つめる。
「寝込んでいる弟の為とは感心だね……」
「どうして分かるの!?」
「魔物だと言っただろう、大概のことは分かる」
人前ではもっと人間らしく振る舞う彼だが、今夜は進んで魔物らしいことをした。
そんな自身を苦く笑いつつも、ぱっと湖の方へ向けて手を払う。
「それだけあれば足りるか?」
「え……?」
視線を泳がせてから籠に目をやると、まだ少ししか摘んでいなかった筈なのに、籠の中が黄色い花で満たされている。
「すごい、すごいわ!」
ルナは感激し、目を輝かせて礼を言う。そして、息を弾ませるように言葉を続けた。
「お母さんがね、ご本を読んでくれたのよ!」
「本?」
唐突に話が変わり、青年は短く問い返した。
ルナは大きな瞳を更に輝かせて語り始める。
「きれいなお姫様とかっこいい王子様、あとお姫様に悪さをする化け物。それから、お姫様を助ける魔法使いのおばあさんが出てくるの。あなたは、その中の魔法使いね!」
青年は目を瞬いた。それから、堪え切れずにくすくすと笑い声を洩らす。
「そうか、私はおばあさんなのか」
――化け物ではなく。
「もう、そうじゃないわ!」
頬を膨らませるルナに、青年はこれまでとは打って変わって穏やかな声で言う。
「もう用は済んだのだろう。だったら、帰るといい。そなたには待っている者がいるのだろう?」
その言葉にルナの心は再び沈んでしまう。
「どうした?」
急に静かになったルナを怪訝に思い、青年は静かに問う。
ルナはぽつりと言った。
「あなたにはいないの?」
「何?」
「待ってる人……」
琥珀色の瞳が、不安そうに青年の言葉を待つ。
彼は降参とでも言うように、軽く息を吐き出した。
「そなたは読心術に長けた魔物よりも、よっぽど心が見えるらしい」
そう言ってくすくすと笑うけれど、少しも楽しさを孕んでいない。
「そうだな。私は長いこと一人でいる。……何故そなたがそんな顔をする?」
ルナは今にも泣きそうな顔をしている。
「だって……一人は淋しいわ」
「私はもう何百年も一人でいる。……だから、一人には慣れている」
青年は安心させるように言ったが、ルナは更に顔を歪めて声を震わせた。
「何……百年……?」
それはルナの想像出来る範疇を超えていたが、途方もない時間であることだけは分かった。
ルナは俯き、暫く何かを考えるようにしてから、またぱっと顔を上げる。
「じゃあ、私が一緒にいるわ!」
青年は気圧されたように目を瞬いた。
「一緒に? そなたが?」
「私が一緒にいれば、もう一人じゃないでしょ?」
「……だが、そなたには待っている者がいるのだろう?」
ルナは顔を曇らせる。自分が帰らないことで、優しい両親と少し生意気だけど愛しい弟の悲しむ顔が浮かんだのだ。
しゅんと項垂れるルナを見て、青年は想いを断ち切るように背中を向けた。その場を去ろうと踏み出された足が、下草をかき分ける。
(待って……!)
ルナは必死に思考を巡らし、そして叫んだ。
「じゃあ、あなたにトツげばいいんだわ!」
青年は思わずルナを振り返った。虚を突かれたように見る。
「そなたは……意味が分かって言っているのか?」
「お母さんに言われたの。いつか私もお父さんみたいに素敵な人にトツいで、一緒に暮らすようになるって。そうしたら、お父さんもお母さんも淋しいけど嬉しいって。だから、トツげば淋しくても誰も悲しまないわ」
ルナはにっこりと微笑んだ。
零れるような笑みと共に、誰も一人にはしたくないという純粋な気持ちが伝わったのだろう。青年はやんわりと目を細めた。いつからかずっと願うことをやめていたのに、今になって、彼は思ってしまったのだ。
永遠に続く夜……それを共に過ごしてくれる相手がいれば――と。
好んで夜の住人として生まれたわけではない彼は、自分以外の誰をもこんな呪われた身へ堕としたくはないと思っていた。だから、仲間を増やすことを最大の禁忌としてずっと生きてきた。
「どうしたの……?」
心配そうに尋ねるルナを、青年は静かに見つめた。
触れれば折れてしまいそうな細い首が、青年の瞳には無防備に映る。 ルナを夜の世界へとひきずり込むことは、実に容易いことだった。その温かい肌に唇を押し当て、血を喰らい、その上で吸血鬼の呪われた血を与えればいい――
しかし、涼やかな顔に少しも苦渋の色を浮かべることなく、青年は湧きあがった欲望を抑え込んだ。そして首筋に口付ける代わりに、ルナの前にすっと手を差し出した。
まるでダンスを申し込むかのように優雅に差し出された手の上には、月明かりを受けて神秘的な光を放つ銀色の指輪が乗っている。
ルナは躊躇いがちに手を伸ばし、青年の顔色を窺いながらもそれをそっと拾い上げた。
「それは、約束の証だ」
「約束?」
「私の花嫁になるという約束だ。私の花嫁になるということは、終わりなき夜の世界を共に生きることを意味する」
「ずっと一緒ってことね!」
青年は微かに笑い、
「だが、そなたはまだ幼い。そなたが……そう、十六になった時、迎えに来よう。私との約束を覚えていれば、だが――」
こんな約束などきっと忘れてしまう。そう彼は思っていた。子供の頃の記憶は大人になるにつれ薄れていき、最後には朝露のように消えてしまうのだ。
ルナは暫くの間、自分の小さな手の中にある銀色の指輪に視線を落としていたが、やがてその愛らしい顔を持ち上げ、真っすぐに青年を見上げて微笑んだ。
「うん、待ってる」
青年は何も言わずに、ただ薄く笑みを浮かべた。
踵を返して淋しげに去っていく背中を、ルナは見えなくなってからも、記憶の中でいつまでも見つめていた――




