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1.囚われの少女

 やわらかな月光を招き入れた部屋の中で、少女は窓辺に寄り添い夜を見つめていた。

 闇が深くなるにつれ、愛らしい琥珀色の瞳に不安の色が滲む。

 何処からか、バサっと羽音が聞こえ、その音に少女が身を強張らせた。窓が大きく開け放たれ、勢いよく吹き込んで来た風に、腰まである栗色の髪を手で押さえ込む。

 やがて、吹き(すさ)んでいた風が緩やかな流れを取り戻し、

「良い子にしていたか、ルナ――」

 窓から覗く満月を背にして、一人の青年が立っていた。

 血のような紅玉(ルビー)色の瞳を宿した切れ長の眼。薔薇色の口唇(こうしん)。長い白金の髪を背に流した姿は、天使の化身を思わせる。

けれど、ルナは知っている。その美しさに決して惑わされてはいけない。

「帰って!」

 青年の紅い目から視線を逸らさずに言い放つと、落ち着いた声がそれに答えた。

「帰るも何もここは私の城だよ。この部屋も私が与えたものではなかったか?」

「……部屋なんて望んでないわ。私を村に帰して」

「それは出来ない」 

 足音一つさせることなく、青年はルナへと歩み寄る。

「来ないで……」

「ルナ――」

 一歩、また一歩と後ろへ下がって行くルナを青年が呼び止めると、その身体はびくりと反応し、(たちま)ち自由を奪われてしまう。

「そう、良い子だ……」

 青年は低く囁くと、術中に堕ちて抵抗する(すべ)を失ったルナを後方のベッドへと押し倒す。

 感情の乏しい怜悧な美貌がゆっくりと降りてきて、ルナの(うなじ)に顔を埋める。首筋に冷たい唇が押し当てられ、氷の針を刺したような鋭い痛みを感じた。けれど、痛かったのはその一瞬で、すぐに甘い恍惚感(こうこつかん)に支配される。

 血を吸われ朦朧(もうろう)とする意識の中、ルナは愛しい者たちの名を呼んだ。

 優しい母、働き者の父、少し生意気だけど可愛い弟。決して裕福とは言えないが、その生活を不満に思ったことは一度もなかった。

 しかし、その平穏な日々は、彼……ハディスによって奪われた。

 ショックが大き過ぎた為か、ルナは攫われた日のことを余り覚えていない。

 ただ、いきなり現れたハディスに攫われ、強引に彼の城へと連れて来られたことだけは覚えている。そして城の塔の最上部にある部屋へと押し込められ、毎夜訪れる彼に血を吸われる日々を送っている。

 激しい貧血に見舞われながらも、ルナは気を失うまいと右手の薬指に意識を集中させる。

 彼女の指できらりと輝いているのは、銀色の指輪だ。シンプルなデザインだが、母から贈られた大切なものだ。肌身離さず付けていたから、攫われた今でも変わらずルナの指にある。

(お父さん、お母さん……マルス……)

 くらりと頭の芯が揺らぎ、気丈なルナもついには意識を手放してしまう。

 血を失い力なく横たわるルナの髪が、緩く波打ってベッドに広がっている。柔らかな一房を指に絡めとり、ハディスは掠めるような口付けを落とした。

「おやすみ、ルナ……」

 眠りの中にいる少女からすっと身を引く間際、白く細い指が目じりで光る涙を拭う。そして彼は夜の闇へと消えた――。


 この城に連れて来られてから、どれだけの月日が流れたのだろう。

 この日も、窓から差し込む夕陽が月光へと変わっていく様をルナは静かに見守っていた。

(もうじき、彼がやって来るんだわ……)

 吸血鬼――。伝承の中で幾度となく語られてきた魔物。人の生き血をすすり、殺めることすら厭わない残忍な生き物。

「ここから飛び降りたら、確実に死ぬわね……」

 窓の外を覗き見る度に絶望する。

 更に周りは暗い森に囲まれている。仮に地上へと降りることが叶っても、森に巣食う獰猛な獣に襲われて命を落とすことになるだろう。

 それでも、諦めるわけにはいかない。そう、決意を新たにした次の瞬間――

 カタンと音がし、ルナははっとなる。ハディスが来たのかと思い窓の外を確認するが、声は思いがけず背後からかけられた。

「よお、お前が囚われのお姫様か?」

 振り返ると、壁に寄りかかるようにして見知らぬ男が立っていた。少し癖のある漆黒の髪を肩に垂らし、口角をつり上げている。その紅い瞳に、ルナの視線は釘づけになる。

「そう、あいつと同じさ」

 それが瞳の色の話だけではないことを、ルナはすぐに感じ取る。

「……あなたは誰?」

「おっと、人に名を尋ねる時は自分から……と、言いたいところだが、お前のことは良く知ってるぞ、ルナ。そんな怖い目で見なさんな。ハディスから色々聞いてる」

 ハディスとは正反対で彼はよく話す性格のようだ。初対面のルナに、彼はまず自らの素性を明かした。

「俺はカイ。正しくはカイルスジュノーゼルだが、長ったらしくて嫌いだ。俺のことはカイと呼んでくれればいい。ハディスもそう呼んでる。あいつと俺は、まぁ腐れ縁ってやつだ」

 カイと名乗った男を注意深く観察しながら、ルナは緊張した声で話しかける。

「あの、カイ……さんはどうして……」

「ここに来たかって? そりゃ、もちろんお前に会う為だ」

「私に?」

「ここに来る理由が他にあるのか?」

「……ないわ」

 ここにはルナの他は誰もいない。他に理由を思い付けずにルナはそう答えた。

「ここから逃がしてやってもいい」

 突然の申し出にルナは一瞬言葉を失うが、やや遅れてから返した。

「あなた、ハディスの友達なのよね?」

「友達……まぁ、あいつの味方では――と、そんなことはどうでもいい。俺は逃げたいのかと訊いてるんだ」

 はぐらかされてしまったが、その口調から彼はハディスの友達なのだとルナは認識した。

「意味が分からないわ。どうしてハディスの友……味方である筈のあなたが、私を逃がすと言うの?」

「何故すぐに食いつかない?」

「――!?」

 ルナは反射的に一歩後ろへ下がる。壁に寄りかかっていた筈の彼が、一瞬にして目の前に現れたのだ。

「お前は逃げたくて仕方がない筈だ。何を躊躇っている?」

「躊躇ってなんか……」

 そう答えながらも、今は彼から視線を逸らしてしまっている。

 逃げる――その言葉が現実味を帯びた瞬間、急に心に迷いが生じたのは事実だった。

(どうして? 逃げたい筈なのに……)

「どうした、まさか本当に躊躇っているのか?」

 答えに窮したルナは勢い任せに言い返す。

「あ……あなたは私を騙そうとしているんじゃないの!?」

「何?」

「これは何かの罠ではないの?」

(そうよ、話がうますぎるもの。だから、彼の救いの手を素直にとれないんだわ)

「案外用心深いんだな」

 カイは感心したように、口の端を持ち上げ犬歯を覗かせて微笑する。

 ハディスと同じ尖った牙を目にし、ルナは息を呑んだ。

「……血ね。あなた、私の血が望みなのでしょう?」

「お前の……血……だと?」

 低く発せられた声に、ルナは続く言葉を失った。

 風もないのにカイの黒髪がゆらゆらと揺れ始め、紅い瞳が焔を宿したように輝きを増していく。

 彼が恐ろしい魔物であることを認識させられたことよりも、彼の逆鱗に触れてしまったらしいことにルナは言い知れぬ恐怖を覚えた。

「そうではないの……?」

 喉の奥がからからになりながらも、ルナは勇気を振り絞って訊いた。

「そう、実に魅惑的だ」

 つと伸ばされた手が、ルナの顎を掴んで無理矢理上向かせる。

「だが、生憎同族の血は禁忌(タブー)だ」

 ルナの双眸が見開かれる。

(同族? 禁忌(タブー)……?)

 何のことか分からずに当惑するルナを、紅い瞳が苛立ったように見つめる。

「お前は――」

「そこまでだ、カイ」

 張り詰めた空気を突如切り裂いた声に、ルナとカイは振り返る。

「随分と早いお出迎えじゃないか」

 ハディスの姿を認めたカイは、ルナから離れると軽い口調に戻して言った。

「お前の気配は嫌でも分かるよ。騒々しい。……何をしに来た?」

「そりゃ勿論、お前に会――」

「ルナに会う為と聞こえたが?」

 カイはやれやれと手を振った。

「聴力の高い俺たちには、プライバシーの欠片もないのかね」

 わざとらしく足音を響かせながら窓辺に寄るカイに、ハディスは忠告するように言う。

「カイ、私はルナを手放す気はないよ」

「……お前は大馬鹿者だ」

 それだけ告げると、カイは窓の外へと軽やかに身を投じた。その姿はすぐに闇に紛れ、後には静寂が残される。

「どういうこと……?」

 二人の会話を側で聞いていたルナの胸には、幾重にも疑問が渦巻いている。

 答えを求めるルナの瞳に吸い寄せられるようにして、ハディスの手がルナの頬に触れる。

「何も知らなくていい……」

 温もりの感じられない手に、どうしてかつきりとルナの心が痛む。

 動けずにいるのは彼の術中に堕ちたからなのか、それとも自分の意志なのか。分からずにただ目を瞠るルナの首筋に、ハディスは自然な流れで唇を寄せ、吸血鬼の接吻(キス)をする。貧血でぐったりしてしまったルナの身体を労わるように、ハディスは静かにベッドの上へと下ろした。

 支えていた手が消えるように離れていくのを見て、ルナは引き止めるように手を伸ばしたが、ハディスの姿は既にない。

(何も知らなくていい……?)

 残されたのは謎めいた言葉ばかりだ。

(同族の血が禁忌(タブー)って?)

 囚われていることよりも、何も分からないことへの不安が募る。

 救いを求めて右手薬指から指輪を外し、ぎゅっと強く握り締めてみるが、いつもなら和らいでくれる不安は少しも取り除かれることなく、今は会えない母の面影が、ルナの心に得も言われぬ淋しさを呼び込んだ。


 ――まだ大きいから紐に通してあげるわね……


 優しい声がそう告げ、記憶の中の母はルナの首に茶色の紐をかけてくれる。胸元で光る指輪をよく見ようと、鏡の前へと駆けていき――。

 そこでルナは違和感を覚えた。

(この指輪は、いつ貰ったものだったかしら……?)

 母との会話をもっとよく思い出したくて記憶を探る。しかし、次に聞こえたのは期待した声とは全く別のものだった。


 ――それは、約束の証だ……


 記憶の奥底に眠っていた低い男の声と共に、さら、と。長い白金の髪が視界を()ぎる。

(何、今の……?)

 その声には覚えがあった。そして、その長い髪と色にも。

「そんなわけ、ないわよね……?」

 誰にともなく尋ねた時、開いた窓からすっと風に乗って何かが舞い込んできた。

(何かしら?)

 窓辺へと歩み寄り確認すると、それは小さな紙の切れ端だった。


 ――耳聡いハディスに気付かれるから文にした。真実を知りたければ、そこの窓から飛び降りろ。その勇気に免じて受け止めてやる。


 荒々しい筆跡で綴られた文の末尾には、カイという名が刻まれている。

 手紙から顔を上げて窓から外を見下ろすと、漆黒の翼を広げたようにも見える暗い夜の森が、遙か彼方に巣食っている。別段高所が苦手ではないルナだが、ここから飛び降りることを想像し、背筋が凍りついた。

 窓辺からほんの少し身を離して、握っていた手を開いてみる。

(でも、真実って……?)

 開いた手の上には、小さいながらも確かな存在感を放つ銀の指輪が乗っている。

 細かな金の粒子が一時の戯れとばかりに指輪に集まり、きらきらと幻想的な煌めきを与える。それはまるで、夢で見たものが現実に浮かび上がっているかのようだった。

 そんな光景をもたらした光源を求めて、ルナはつと視線を上げる。

 窓の外では、大きな満月が変わらずに闇夜を照らしているが、どうしてか不思議な既視感を覚える。

 愛しむように目を閉じたルナの眼裏(まなうら)には、いつか見た月が静かに息づき始める――

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