婚礼はもうお開きです
「ニネッタとは、これから毎日会える。彼女とは、何年も会えなくなるんだぞ」
控室へ入ってくるなり、ラズロが言った。
幼馴染の彼女の事を言っているのだろう。
今日の定期船で国外の親戚宅へ発つ。その見送りに来てほしいと、先ほど手紙が届いたらしい。
ああ、またか。よくもまあ、結婚式の日まで。
約束を変えられるのには慣れていた。
二人で歌劇を観るはずだった日も、幼馴染との買い物が長引いたとかで、彼は来なかった。
劇場の入口で待っていると、係の人が何度も声をかけてくれた。そのたびに、もうすぐ来ますからと答えた。最後は、入口に立っているのも恥ずかしくなって帰った。
翌日花が届いた。
結婚式までこの調子とは思わなかった。
どこかで、変わってくれる事を期待していた自分がいたのかもしれない。
馬鹿だった。
なにを言っても無駄だろう。
「そうですか」
そう返事をすると、ラズロはほっとしたように頷いた。
「何年も帰ってこられないから、最後に会いたいそうだ。心細いんだろうね」
お母様と侍女が一緒だと聞いているけれど。
それでも心細いなら仕方がない。ラズロ様が行かなくては。
はいはい。いつもの話ですね。
「少し顔を見せるだけだから。遅れそうなら使いを出すよ」
遅れそうならもなにも、もう式まであと三十分だ。
その使いを迎えて、客に説明するのは誰だ。
私か。私が、もうすぐ来ますからと言って回るのか。
自分で言っていけばいいのに。
会場へ顔を出して、別の女を見送りに行くので待っていてくださいと。その礼服のまま言ってみればいい。
「馬車は待たせてあるんだ。すぐに出れば、そんなにかからない」
もう手配まで済んでいる。
私を説得する時間も惜しいのだろう。何度も扉を気にしている。
「ご自由になさったらよろしいのでは」
「ありがとう。ニネッタなら分かってくれると思っていた」
ラズロは、にっこり笑って出ていった。
*
定刻の鐘が鳴ると、ラズロの父である伯爵が控室へ入ってきた。
「ラズロはどこだ。閣下がお待ちだぞ」
今日の上客は、公爵だった。
この婚礼の会場になっている屋敷も、公爵の名代を務める伯爵が、職務のために借り受けているものだ。伯爵は、その広間に大勢の貴族を集めるのを楽しみにしていた。
息子のラズロも来月から公爵の使節団に加わる。伯爵が推薦し、監督を引き受けたのだ。
ラズロは招待客の名簿を見ながら、この人にもあの人にも仕事の話をしなければと、何日も前から張り切っていた。
その御本人は港である。
「女性を見送りに出かけました」
「何だと?」
伯爵の声が裏返った。
「式はもう始まるんだぞ! どうするつもりだ!」
「ラズロ様にお尋ねください」
「君が行かせたんだろうが!」
はい?
「好き勝手させてきたから、こういうことになるんだ! 夫になる男も引き留められんのか君は。どうにかしたまえ!」
なぜ私が叱られているのだろう。
ここにいる。支度も終わっている。私は一歩も出ていない。
その私に、何をどうにかしろと。
ラズロの母親も来て、使用人に港へ迎えを出すよう頼んだ。それから、客への伝言まで言いつけた。
「お客様には、花嫁の支度が長引いているとお伝えしてちょうだい。それなら少しお待ちいただけるわ」
ちょっと待って。
私のせいにするの?
この格好を見て、まだ支度ができていないことにするの?
「ラズロが戻ったら、君からお客様にお詫びしなさい。支度に手間取ってお待たせしました、と」
伯爵まで、当然のように言った。
帰ってくるまで待って、そのうえ私が謝るのか。
花婿が別の女に会いに行ったので、花嫁が支度に手間取ったことにして、頭を下げる。
ラズロが何をしても、この人たちから叱られるのは私。
これからもずっと。
無理。
無理だ。ラズロだけでもうんざりなのに、伯爵夫妻までついてくるのか。
そんな家で毎日暮らすのか。
「……この結婚、やめます」
「馬鹿なことを言うな。お前の機嫌を取っている暇など――」
私は立ち上がった。
もう聞きたくなかった。
花束を椅子に置いて、会場へ向かった。
*
「公爵閣下!」
扉を開けた途端、自分でも驚くほど大きな声が出た。
前列にいた父と母が立ち上がる。公爵がこちらを向いた。
「花婿は、別の女性を見送りに行きました! 私はラズロ様とは結婚しません。本日の婚礼は中止します!」
客席がざわめいた。
何人かが入口へ顔を向け、そこに花婿がいないのを確かめた。
「何を言い出すんだ!」
追ってきた伯爵に、肩を掴まれそうになった。身を引いた私をかばうように、私の父が間に入った。
伯爵は父の肩越しに、なおも私を怒鳴りつけた。
「皆様の前で当家に恥をかかせる気か! 結婚が嫌なら、招待状を出す前に言えたはずだろう!」
客席に、ヘルミ伯母様の顔が見えた。
遠くから来てくださった人だ。その隣にも、祝いを持って来てくださった方が座っている。
申し訳なかった。皆様には本当に。
でも、この人たちの前で謝って結婚すれば、私は明日からどうなるの。
「今日まで、結婚するつもりだったんです! 結婚したら落ち着いてくれると、思っていたから!」
声がひっくり返った。
私は父の腕を掴み、言い続けた。
「でも今、あなたに叱られたんです。あの人が勝手に出ていったのに、私がどうにかしろと。あなたの息子なのに、なぜ私が怒鳴られるんですか!」
伯爵が口を開きかけたが、私は止まれなかった。
「私の支度が遅れたことにして、私が謝りに行く。それが、結婚してからも続くんですか?」
「妻になるのだから当然だろう! 女は多少のことには目をつぶって、夫の顔を立てるものだ。私の妻だって、そうしてきたんだぞ!」
「それは、無理です。そんな結婚はしたくありません」
言い終えた途端、涙が出た。
拭いても拭いても止まらなかった。息を吸うと喉がひくついて、言葉の代わりに変な声が出た。
ひどい顔になっている。分かっている。
でも、もう、笑って頷いたりできなかった。
母がハンカチを渡して、私を抱き寄せた。その肩越しに、ラズロの母親がこちらを見ていた。
「ニネッタさん。我慢しなくていいの」
伯爵が妻を振り返った。
「お前まで何を言う」
「私も、家のためになると思って我慢してきました。そうするのが妻の役目だと、思っていました。でも、後悔しています。もっと自分の好きなように生きればよかった。こんな顔をする子にまで、同じことをさせたくありません」
夫人が、私に頭を下げた。
「あなたの支度が遅れたことにしようとして、ごめんなさい。この結婚は、やめましょう」
私は、何度も頷いた。
よかった。それだけは分かってもらえた。
公爵が立ち上がった。
「花婿が不在なのは事実なのだな」
「は、はい。しかし間もなく戻ります。どうか、それまでお待ちを」
「君が主催し、私を招いた婚礼だ。私への説明より先に、花嫁を怒鳴りつけるとはどういうことだ」
伯爵の目が、また私へ向いた。
「私を見なさい。君に聞いている。ご子息は自分が監督すると、君は約束した。その責任を婚約者へ押しつけるようでは、君自身に私の代理を任せておけん」
「閣下、そんな。息子が少し遅れただけで――」
「君の振る舞いについて話している。名代の任を解く。その記章を外しなさい」
伯爵が襟元を押さえた。
「待ってください。おい、お前からも……」
妻へ伸ばしかけた手が止まった。
夫人は、私が取り落としたハンカチを拾っていた。
夫に呼ばれたのは聞こえているはずだ。
伯爵は自分で襟へ手を戻した。小さな留め具が、なかなか外れなかった。
ようやく差し出された銀の記章を、公爵の従者が受け取る。
「俸給は今日で停止する。貸与した屋敷と馬車も、一月以内に返還するように」
「この屋敷を……? 閣下、私はこれから、どこで」
「君が考えることだ」
伯爵は、客の並ぶ広間を見回した。
前列の客と目が合い、すぐに顔を横へ向けた。そちらの席からも、じっと見られていた。
「今日招いた方々への説明と帰りの手配は、主催者として果たしなさい。支払いもだ。花嫁に代わりをさせることは許さん」
伯爵は頭を下げた。
肩が小刻みに震え、先ほどの剣幕は消え失せていた。
*
港への迎えが、一人で戻ってきた。
出航が遅れているので、ラズロは見送りが済むまで帰らないと言ったそうだ。
報告を受けた伯爵が、歯を食いしばった。
料理は、そのまま出してくださいと父に頼んだ。
帰る方には馬車を手配し、残れる方には食事をしていただく。夕方まで迎えが来ないという客には、伯爵の負担で別の馬車を呼ぶことになった。
私も両親と客席を回った。
ヘルミ伯母様のところへ来ると、また喉が詰まりそうになった。
「四日もかけて来てくださったのに……ごめんなさい」
伯母様は、私の手を両手で包んだ。
「お前に会いに来たんだよ。会えてよかった」
何と答えればいいのか分からなくて、私はその手を握り返した。
「それに、このお菓子はとてもおいしい」
「……それ、私が選んだのです」
「そう。じゃあ、もう一ついただこうかしら」
伯母様が皿へ手を伸ばすのを見て、ようやく笑えた。
「なんだ。先に食事にしてくれたんだね」
その声で、笑いが止まった。
ラズロが、入口からこちらへ歩いてきた。付き添う使用人が何か言っていたが、片手を上げて制している。
「助かったよ。ほら、そんなに心配しなくても大丈夫だっただろう」
最後は使用人に向けた言葉だった。
ラズロは私の隣へ来て、椅子の背に手をかけた。私は伯母様の側へ身を寄せた。
「ニネッタ?」
「婚礼は取りやめました。皆様にもお伝えしました」
ラズロが眉を寄せた。
私の顔を覗き込み、それから周りを見て、声を落とした。
「……こっちで話そう」
返事を待たず、廊下へ歩いていく。
三歩ほど進んで、私がついてきていないのに気づいた。
「ニネッタ。来てくれないか」
私は動かなかった。
「みんなが見ているだろう。こんなところで揉めることじゃない」
客の話し声が、少しずつ小さくなった。
ラズロは私を見ていたが、やがて客席へ向き直った。
「皆様にも、今日のために予定を空けていただいたのです。それを彼女一人の判断で取りやめるなど、あまりに勝手でしょう」
私一人の判断では、結婚をやめられないらしい。
結婚式を放って出かけるのは、自分一人で決めたくせに。
「このまま婚礼を取りやめてよいという方は、いらっしゃいますか?」
私は手を上げた。
「君の話は、あとで聞くから」
なぜ私が後なの。
誰が結婚すると思っているの、この人。
ラズロが、手を下ろすよう目配せした。
下ろしませんよ。
下ろしたら、反対している人はいないことにされそうだもの。
「ラズロ君。彼女が手を挙げているが」
隣の卓から、老紳士が声をかけた。
「ですから、彼女とは後で、二人で話しますので」
「では、先に聞きなさい」
「結婚しません」
ようやく答えを聞いてもらえたので、私は手を下ろした。
彼は客席を見回した。誰も口を挟まなかった。
「……行っていいと言ったのは君じゃないか。戻ってきたら中止だなんて」
「花嫁に許してもらえば、我々まで放っておいていいのかね」
老紳士の声に、ラズロが言葉を止めた。
「私は君の父親からぜひにと頼まれて、領地から出てきた。君自身からも、任される仕事の話を聞いてほしいと言われていたはずだが」
「それは、申し訳ありません。ただ、船の出発が遅れてしまって」
「そもそも、そこに行かなければよかっただろう!」
ラズロが口をつぐんだ。
入口の方を見ていた伯爵が、息子へ大股で近づいてくる。
「父上。ニネッタが――」
「この馬鹿者! 私は職を失ったんだぞ!」
ラズロの口が開いたままになった。
「職……? どうして」
「屋敷も返せと言われた! お前が見送りなどに出かけたせいで!」
ラズロが公爵を見た。次に私を見た。
「何を話したんだ。どうしてそんな話にまでなっているんだよ」
こちらへ戻ってきた彼の前に、私の父が立った。
「娘を責めるのはやめなさい」
「ですが、私はただ少し――」
「この期に及んでまだ言い訳か!」
ラズロが身を引いた。その耳まで赤くなっていた。
私の顔を見たけれど、私は父を止めなかった。
「ラズロ」
公爵が、従者に外套を持ってくるよう命じてから言った。
「使節団への君の登用も取りやめる」
「お待ちください! その話は、もう決まっていたはずです!」
「約束の場を勝手に離れ、戻ってからは相手のせいにする。君に任務を預けることはできん」
ラズロは公爵の方へ一歩出た。けれど、その先には怒った老紳士がいて、足を止めた。
「もう、皆に知らせてしまいました。閣下のお名前も出して……」
「それなら、私から撤回を伝えよう」
ラズロが老紳士を見た。
さっきまで、自分の出世の話を聞いてもらうつもりだった相手だ。何か言おうとして、結局、頭を下げた。
公爵が外套を受け取る。
ラズロが急に振り返った。
「ニネッタ。悪かった」
急に優しい声を出されて、気持ちが悪かった。
さっきまで私を責めていたくせに。
「ちゃんと謝る。遅れたのは悪かった。だから、話そう。君の話も聞くから」
そこまで言って、また公爵を見る。
「先に閣下を引き留めてくれないか。私たちは大丈夫だと、君から。後でちゃんと――」
また後で。
今、私の話を聞くと言ったばかりなのにどうしてもう、あなたの頼み事を聞かされているの。
「嫌です」
私へ伸ばしかけたラズロの手が、宙で止まった。
「大丈夫じゃないので、そんな嘘はつきません」
「ニネッタ、頼む。今ここで帰られたら、私は――」
私は伯母様に向き直った。
「馬車まで、ご一緒してもいいですか」
伯母様が、私の腕を取った。
ラズロが道を塞いだままでいると、彼の母親が来て、息子の腕を引いた。
「通してあげなさい」
ラズロが母親を見る。
その間に、私は伯母様と歩きだした。
*
後日、両家で費用の精算をした。
婚礼は両家で費用を分けていたが、伯爵が全額を負担し、私の家が支払った分も返すことになった。
遠方から来た客には旅費の補償を申し出る。帰りの馬車を新たに手配した分も、もちろん伯爵持ちだ。
「こんなに払ったら、私の手元には何も残りませんよ!」
負担額を聞いて、ラズロが紙を突き返した。
「父上が招いたお客様の旅費まで、なぜ私が」
「お前の行動の結果だろうが! 私の蓄えだけで出せると思うな!」
「その蓄えで、私たちの新しい家も用意すると仰ったでしょう!」
「私自身がここを出ていくんだぞ!」
伯爵が卓を叩いた。
ラズロも椅子を蹴るようにして立ったが、伯爵は顔も上げなかった。
立ったままでいても誰も取りなさず、やがてラズロは自分で座り直した。
結局、父子はそれぞれの蓄えを取り崩した。
料理人や楽師、設営に携わった人には契約どおりに支払い、急な客の送り出しで仕事の増えた使用人には、別に手当も払った。
働いた人にまで損をさせるようなら、その件も公爵へ報告すると、父が念を押した。
誓約も婚姻の登録も済んでいなかったので、婚約解消の書類を交わした。
持参金と、先に運び込んだ私の荷物はすべて返してもらう。結婚祝いには礼状を添えて返却し、欠席の招待客へも中止の理由を知らせた。
花嫁の支度が遅れたという説明は、どこにも入れなかった。
公爵から登用撤回の知らせが回ったあと、ラズロを招くはずだった宴の主催者からも、断りが届いたそうだ。
伯爵には、まだ自分で謝罪に行かなければならない家がいくつもある。
伯爵はその一覧を見て、長いこと額を押さえていた。
私たちの話は終わったので、両親と席を立った。
「ニネッタ」
ラズロが呼び止めた。
「君は、私がこんなことになって、何とも思わないのか」
彼の手元には支払いの書類がある。
伯爵の前にも、ほとんど同じものがあった。
二人とも、もう私に命じて済ませることができずに、そこに座っていた。
そうですね。
さすがに少しは同情しますわ、今の状況には。
だけど――
「ええ。あなたと結婚しなくて済んで、本当によかったです」
今度こそ彼の顔を見る必要はなかった。
私は、先に行くことにした。
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