どうして人はいつも
わかりやすい変化があった人は、いつの間にか「最初から正解を知っていた人」みたいな顔で語られる。
あの人はセンスがある、努力しなくても垢抜けた、才能だよね、なんて言葉が並ぶ。
けれど、その人が途中でどんな失敗をしてきたのかは、きれいに切り落とされる。
垢抜ける途中の人は、いつも少し浮いている。
眉が濃すぎたり、服のサイズ感が噛み合っていなかったり、流行を追っているのに何かがずれていたりする。
その「ずれ」は、完成形と並べられた瞬間に、滑稽なものとして消費される。
本人は必死だ。
鏡の前で何度も写真を撮り直し、SNSで「垢抜け」「骨格診断」「パーソナルカラー」と検索して、正解に近づこうとしている。
なのに周囲は、その過程を“仮装”とか“勘違い”みたいな言葉で片づける。
不思議だと思う。
完成した姿だけを見て神格化するなら、その途中にあった不完全さも同じはずなのに。
むしろ、途中の姿こそが、その人が自分を更新しようとしている証拠なのに。
そして、同じ構図は楽器にもある。
初めてギターを触った人や、音が安定しない初心者は、なぜか優しく見守られる。
「いいね」「楽しそう」「続けてたら上手くなるよ」と、未来込みで褒められる。
けれど、中級者になった瞬間、空気は変わる。
簡単な曲は弾ける、音程もリズムも大きくは外さない。
でもプロほどではない。
その曖昧な立ち位置に立った途端、「そこ違う」「まだ甘い」「その弾き方ダサい」と、評価は急に辛くなる。
初心者は“何も知らない存在”として守られ、
上級者は“到達した存在”として尊敬される。
その間にいる中級者だけが、なぜか嘲笑の的になる。
それは結局、変化の途中が一番目立つからだ。
拙さが減り、癖や方向性がはっきりしてくる分、粗も見えやすくなる。
本人が一番悩み、考え、伸びようとしている時期なのに、周囲は一番冷たい。
垢抜けも、演奏も、本当は同じだ。
完成形だけを称えて、過程を軽んじる社会は、努力を消費しているだけだ。
途中で足掻く姿を「痛い」と笑い、結果だけを「才能」と呼ぶ。
でも、神みたいに扱われている人も、
拍手を浴びる演奏者も、
必ず一度は、その笑われる場所に立っていた。
途中を通らずに辿り着ける場所なんて、どこにもない。
だから本当に価値があるのは、
まだ少し不格好な音を鳴らしながら、
似合わない服に迷いながら、
それでも前に進もうとしている、その時間そのものなんだと思う。
笑われる側にいるということは、
何もしていない側ではなく、
ちゃんと“やっている側”にいるという証拠なのだから。




