ペンキ絵師「菅野涼」7 フルーツ牛乳とメモ
眠っている涼に声を掛けるまで、暫し自分の置かれた状況について考える時間があったことを思い出す。
寒空の下、ベンチで寝袋に包まり眠る美人を独り見下ろす、上着をひっかけた短パンの三十路男。両腕で体を押さえて一寸寒さに震えている。
駄目だ。どう考えても通報案件じゃないか。絵面が悪い。致命的に悪すぎる。
それでも、その時の俺は冷たい風に急かされ、菊さんの開いた目に背中を押され確かに涼へ声を掛けた。
正直、目を覚ました涼に掛けた言葉はあまりに必死で覚えていない。下手をすれば人生終了のお知らせだ。
眠りを妨げられ不機嫌そうな顔を向けた涼はあの時、また警察がやってきたのかと思っていたと、そう教えてくれた。
寝惚けた目をこすり、寝袋からごそごそと取り出したメガネを掛け、寒さに震える俺を見て最初に取ったリアクションが爆笑だったのは流石涼と言ったところだ。
涙を流し、掛けたメガネを直ぐに外して汚れた袖で涙を拭いながらひとしきり爆笑を続けた後、涼は憮然とした面の俺の後ろをついてきた。ベンチの下に置いてあった仕事道具の詰まったリュックサックを肩に掛けながら。
あの時のあんたは少なくともナンパ野郎や変質者には見えなかった。良いところ、雨に濡れて震えてるチワワみたいで可愛いと可哀そうの、結構可哀そう寄りにいた感じと後に本人は語っている。それ以上詳しく聞いてみる勇気を俺はもっていない。
ふじの湯のドアをくぐった涼は直ぐに、休憩室を兼ねている広めのフロントにいた常連さんたちの餌食となった。
久しぶりの若い女性客?を見つけたご婦人たちは、涼をあれやこれやと囃し立てながら半ば強引に一緒に女湯へと消えていった。入湯料は勿論払っていないが番台に座る菊さんが何も言わないなら、俺も言うことも無かった。
流しに戻った俺が耳にしたのは今までに聞いたことのない盛り上がり方をしたご婦人たちの声。衝立のような壁はあるが、天井は男湯女湯と繋がっている昔ながらの銭湯のふじの湯は、ダイレクトに女湯の音が聞こえてくる。常連さんのお孫ちゃんが浴室内の職員用の通用口を通って《《向こう側》》に行き来することも少なくない。その時には、大きな声の掛け合いが始まるものだ。
空気を読んでくれたのか、そんな暇もなかったのか。幸いにして女湯から流しの声がかかることは無かった。
だが、その時聞こえて来たご婦人たちのブレーキが壊れ切ったトーンでの会話の内容を俺は墓まで持っていくことにしている。無駄にご婦人の語彙力が豊富なのは何なのだろうか。表現がいちいちなまめかしい。
精神力を振り絞りながら何とか仕事を終えて着替えを済ませ、フロントに戻った俺は何時もの通り菊さんが番台に置いてくれた冷たいフルーツ牛乳を手にすると、目に飛び込んでいたのは100円を入れて動くマッサージチェアで眠る涼の姿だった。
フロントはお客を湯冷めさせないよう炊かれているストーブと、浴室から流れてくる湿度を含んだ暖かい空気で十分に暖かいが、眠ってしまえば少し寒さを感じることもあるだろう。
そう思い、一度手にしたフルーツ牛乳を番台に戻した後に脱衣室から貸し出し用のバスタオルを二枚とってくると、ぐっすりと眠っている涼へ掛ける。
海岸に打ち上げられた海藻みたいに力なく地面へ流れていた汚れた黒髪は、近くで見るとどんな魔法を使ったものか、蛍光灯の光を浴びてきらきら、さらさらと音が聞こえるほどに綺麗だった。少しだけ赤く上気した顔は、テレビで見るどの芸能人よりも整い美しかった。たとえ大口を開けて、よだれがその顔を汚していても。残念なことに。
街灯の下でもわかるほどに薄汚れていた服は少し古めの装いに変わっていた。
恐らくは近所の常連さんが見かねて持ってきたのだろう。着せ替え人形にされただろうことは、想像だに難くない。
きっと、俺はその時に涼に一目惚れしたのだろうと思う。
悔しいから本人には伝えないけれど。
手にしたフルーツ牛乳の下には菊さんの文字で書かれたメモが置かれていた。
番台の仕事を宜しくね。
それを見て、俺は番台の何時も菊さんが座り眠っている椅子に体を預け、いつの間にか随分と温くなっていたフルーツ牛乳のキャップを捻り、乾いた喉に甘酸っぱいそれを流し込んだ。
事案発生




